「殺風景なところじゃの」
何も無い空間に、甲高い声が響く。
久々の来客は、小さな少女の姿をしていた。
少女はぐるりと周りを見渡すと、検分を始めた。
「見てくれはともかく、これほどの空間を作れるとはさぞかし名の知れた……いや、知らぬ術の匂いがするのう」
ぶつぶつと呟く。
「面倒なことになるから、そうでない方が助かるが」
ここには時たま様々な種族が迷い込んでくる。人間、モンスター、メカ。そして彼女は、妖術を使う妖魔と呼ばれる種族だった。
「そこに居るのは分っておる。わらわは零姫。ここの主とお見受けするが、名を伺いたい」
こちらを――傍目には何も無い空間なのだが――じっと見詰められ、戸惑ってしまう。何しろ自分には名前が無いのだ。そして自分が何なのかを知らない。
困惑した空気を感じたのか、彼女はふっと表情を緩めた。
「まあよい、少々軒先を貸してもらうぞ。茶菓子くらい出さぬか。あと、座布団と熱い茶もな」
本気なのか冗談なのか分らないが、何とも注文の多い客である。敵意が無いのなら、こちらも無理に追い出す気は無い。
ここには自分以外居ないのだ。
退屈凌ぎにはなるだろうと、お望みのものを用意する。畳に屏風に座布団、湯飲みに熱いお茶、そして豆大福。
外から得た知識だと、この辺りが客人をもてなすときの定番だろうか。彼女の好みに合えば良いのだが。
「こんなことができるのは妖魔の君くらいだと思っていたが、なかなかどうして、世界は広いものじゃな」
降って湧いたこれらに感嘆の声が上がる。ぱちぱちと拍手する彼女に気を良くするが、
「しかし、わらわには、ちと大きすぎるようじゃ」
座布団は子供がゆうに10人は乗れそうで、湯飲みと菓子は彼女の頭ほどあった。確かに大きすぎる。
丁度良いサイズまでゆるゆると縮め始めると、今度は慌てた声が上がった。
「ああ、豆大福のサイズはこのままでよいぞ」
彼女は大福に齧り付き、茶を啜ると、溜息を吐いた。辺りに視線を巡らせて不満げに口を開く。
「折角の茶菓子を一人で食べるというのも味気ない。それに、これではどこを向いて喋ってよいのか分らぬではないか。ほれ、遠慮は要らぬ、わらわの相手をせい」
自分の向かいを指差す。ここに座れ、という意味らしい。
自分には決まった形が無い。必要に応じて適当な姿をとることはあるが、今は空気のように、この閉ざされた空間を漂っている状態だった。話しかける対象に形が欲しいというのなら、と、
来客の向かい側に意識を集中して、形成する。頭、胴体、手足が二本ずつ。
「いかがでしょうか」
出来立ての体をくるりと一回転させて見せると、相手は渋面になった。どうやらお気に召さなかったらしい。
「わらわはもう少し眉が細い。それに鼻はもっと高いぞ」
ずい、と鼻先が触れるくらい覗き込んでくる。顔を睨め付けたあと視線は下へ降りて行き、一際目立つそこでぴたりと止まった。
「それになんじゃ、この下品な風船は!」
「ああっ!何だかよく分からないけど、すみません!」
平らな部分から山のように盛り上がったそこを揉みしだかれて、悲鳴を上げる。
「まあ、わらわも昔はこのくらい……いや、もっとあったかの」
「はあ……」
これまでの来客の反応を思い出し、驚かせるのも何だと思って、同じ形を目指したのが間違いだったのだろうか。
自分の記憶と彼女から拝借したイメージが、妙な混ざり方をしたようだった。
体とのバランスが悪いのが、彼女を怒らせたのかもしれない。膨れた部分をぐいぐいと押し込んだ。
「面妖じゃのう……」
モデル通りの、すっかり平らになった胸を目にして、相手は気味悪そうに呻いた。
「大体、何故わらわが、わらわとお茶をせねばならんのじゃ」
「気に入りませんか」
「気に入らぬの。わらわの可憐な容姿はわらわであってこそじゃ」
どこから取り出したのか、扇子をパッと開く。
「名前も無い、姿も無いでは不便じゃな。わらわがお主にぴったりの姿を与えてやろう。ふむ……」
暫し考え込む素振りをした後、扇子をまたパチリと閉じる。
「馬が良い。うんと足の速い奴じゃ」
「馬、ですか」
自分の写し身とは嫌でも馬なら良いとは。突拍子も無い案に、何でまた、と首を傾げる。
「嫌か?馬の姿でもお茶は出来よう。そして、もしもの時は、わらわを乗せて逃げるのじゃ」
「それは一体どういう……」
不穏なものを感じて聞き返す。
「実は訳あって、わらわは逃亡中の身での」
「犯罪でも犯したんですか」
「違うわ、馬鹿者。縁を切った元夫が、縒りを戻せと煩くての。これがまた、納豆みたいにしつこい男なのじゃ」
人は見かけによらないとはこの事だろうか。こんなに若いのに離婚経験があるとは、これまた随分な苦労人らしい。
その元夫というのが、やたら足の速い馬の引く馬車に乗って追いかけてくるのだとか。
追っ手を撒くのに、偶々この空間を見つけて潜り込んだのだと彼女は語った。
彼女の他に入ってきた気配は無く、相手は気づかなかったのだろう、上手くやり過ごせたようだった。
「あれより早い馬で引き離して、お尻ペンペンなのじゃ」
「ペンペン……まあ、いいですけどね」
自分の姿に特に拘りも無く、リクエスト通り、少女から馬の姿を形作っていく。スラリとした体躯に、強靭な脚、艶やかな鬣。一日千里を駆ける姿を想像する。
「ちょっと待て」
「今度は何ですか」
「もっとこう、強そうなほうが良いのう。威嚇して追っ払えるような。逃げるばかりでは能が無い」
「はあ」
それから何度も、ああでもないこうでもないと駄目出しを受けては修正していった。どのくらい時間が経ったのだろうか、漸く合格点に達したらしい。
自分の姿をぐるりと見渡す。
「で、これは何なのでしょう」
馬のようであり、鹿のようでもあり、竜のような頭からは角が生え、五色に彩られた鬣が靡くたびに輝く。
当初の予定から随分と掛け離れた派手な姿。
「美しさと強さを兼ね備えた、獣類の長と言われる、伝説の霊獣じゃ」
不思議な色の毛並みを撫で付けると、少女は満足気に微笑んだ。
「今日から麒麟と名乗るが良いぞ」
この小さな友人ができてからというもの、自分の棲家は随分と賑やかになった。
元夫の追跡を振り切るためと暫く逗留した彼女に、陰気すぎると模様替えを提案されたこの空間は、今ではお菓子で飾り付けられ、かなりメルヘンチックな場所になっていた。
少々子供っぽすぎたかと彼女は苦笑いしていたが、実は気に入っているのも知っている。そして自分もすっかり馴染んでしまった。この場所は勿論、与えられた姿と名前も。
毛並みに沿って櫛で梳かれるのが、特に楽しみだった。
時折迷い込んでくる客をもてなし、空術を教え、時には行く宛てのない子供のお守りをする。そうして日々は過ぎていった。
季節が何巡かして、それは近付く。
そろそろ面倒な客が来る頃だった。
随分昔のことだが、気紛れに来客の一人に空術を教えたことがある。
自分はこの力の名前は知らなかったが、術を嗜むという相手に「空間を支配する力だから」と言われ、なるほどと、以降そう呼ぶことにした。
それからというもの、どこからか噂を聞きつけて、それ目当てで訪れるものも現れるようになった。それ自体は構わない。
ここに辿り着けるのは極僅かであったし、外の話も聞けて暇潰しにもなる。大きな術は自分にしか使えないらしく、教えられるのはほんの少しであったが、貴重らしいこの術を行使して目を輝かせ、
あるいは術を使う自分を仲間にしたいと誘った。そして、大抵のものはそれで満足した。
そう、大抵のものは。
「お前を倒して、資質も含めた空術のすべてを私が譲り受ける」
飽きるほど繰り返された問答に、心底うんざりする。相手は毎回違うが、格好、思考、口から出る言葉はいつも同じだった。
ほぼ一定の周期で現れ、空術の資質を寄越せと詰め寄ってくる。
初めのうちは、どうにか引いて貰えるよう話し合おうとしたが、相手は全く聞く耳を持たなかった。
それならばと迷路を作って、入り口でお帰りいただこうとしたが、この迷惑な連中はしっかりとここまで辿り着き、全ては徒労に終わってしまった。
結局いつもと同じ。奪って、奪われる。
「仕方ありませんね」
深々と溜息を吐く。何度も付き合わされたこの茶番の行く末を、自分は知っている。用が済めば自分はここに戻ってくるが、彼らは――。
「しかし、私もあなたに資質を譲る気はありませんよ」
眼前に立つ若い術士を、ただ哀れだと思った。
ドヴァンの片隅にある小さな神社を訪れると、竹箒で枯葉を集める小さな背中が目に入った。今は自分ではないのだから、訪れた、というのは正確ではないのだが。
傍らに歩み寄った人間が声を掛けると振り返った。着物の飾りが、遅れてついてくる。こちらの姿を認めた彼女は全てを悟ったらしい。
みるみる顔が曇っていく。
「麒麟は死んだか……」
ぽつりと呟き、項垂れる。小さな体が、さらに小さく見えた。胸が痛む。その頬に触れて、寄り添うことができないのがもどかしく、悲しかった。
彼女を見下ろし、声にならない声で囁く。届かないと分っていても。
何のことは無い、仮初の器が壊れただけ。自分を縛るこの人間の体も、そう長くは持たないでしょう。今までと同じ。ほんの少しお別れするだけです。
あなたの時間は長い。人間よりずっと。瞬きほどの間、待っていてください。
そうしたら、またあの場所で、あなたと。
だから、悲しまないで。
私は麒麟。空術そのもの。