満たされれば満たされるほど、それは深く昏く。
得体の知れない焦燥感に襲われて、掻き毟るように自分の体を抱く。
震えが止まらない。爪の跡が付くほど掴んでいるというのに、感覚は不確かで、まるで自分の体ではないようだった。
全てが終わり、少しずつ新しい日常にも慣れて、もう大丈夫、そう思う度。
嘲笑うように浮かび上がってくるそれに、自分は未だ囚われているのだと思い知らされる。
とうに塞がったはずの傷跡が、思い出せとでも言うように疼いた。
ソファで読書中の片割れの膝に跨って、咎めるような視線にもお構いなしに、本と相手の間に潜り込む。
自分のものではない体温。微かな石鹸の香りが鼻腔を擽った。
触れた場所から染み込んでくる温もりに、ほんの少し落ち着きを取り戻す。
自分が割り込んだせいで碌に見えないだろうに、それでも尚、無理な体勢でページを捲り続ける相手の顔を覗き込んだ。
「今度は、何借りてきたの」
「『α化理論』と『ガイズ=ベルオーク現象』のメカ製作応用の実際」
一旦本を閉じて、こちらに表紙を見せてくる。
そこそこ立派な装丁の本だが、保存状態が悪かったのか、日に焼けた上あちこち剥げており、著者の名前も辛うじて「エデューソン」の文字が分るくらいで、後は判別不能だった。
ページが捲られるたびに、劣化した補強用のテープがパリパリと乾いた音を立てる。ここからでは見えないが、床には細かい破片が沢山落ちているのだろう。
片割れは用の無いときは図書館に入り浸り、興味の有る無しに関わらず、目に付いた本を片っ端から借りてきてはこうして読み耽っていた。
「また、良く眠れそうなタイトルだね」
内容にそそられるものは無いが、枕に丁度良さそうな厚みではある。
「眠れないのか」
ちらりと視線を寄越した相手の寝間着を、勝手に寛げていく。
「眠れるように、相手をしてくれると嬉しいんだけど」
前が全部開いたところで片割れは諦めたように溜息を吐くと、本を閉じてテーブルに載せた。
空いた片手が頬を撫で、唇に触れてくる。触れた指を舌で誘い、口内に差し入れられた指先を絡めとると、
唾液を塗りこむように音を立てて舐った。
「ふっ……んんっ」
片割れは片手で舌を愛撫しながら、もう一方の手を足の間に潜り込ませてくる。弄る手にそこを握りこまれ、擦り上げられて吐息を漏らした。
引っ切り無しに与えられる刺激に喘ぎながら、すんでのところで踏み止まる。
「んっ……ぅ」
呻きつつ下半身をぐいと密着させると、寛げたそこから彼自身を引っ張り出して自分のものに擦り付けた。
添えた手に相手の指が触れ合って、絡み合う。二人の間で高められた熱は混ざり合い、やがて弾けた。
体を震わせて背を仰け反らせた後、一拍遅れて濡れた手は力なく垂れ下がり、ソファの表面を撫でた。
虚無感に脱力し、ぐったりと相手に凭れた体は自分の意思と乖離して、指一本動かすこともできない。
そもそもこれは自分の体なのだろうか。息苦しさに頭の芯が痺れる。
「もう、止めるか」
尋ねられて、返事をしようにも呼吸すらままならない。
片割れはこの状態に慣れた風で、肩口に顔を埋めたまま反応を返さない自分の背中に腕を回し、こちらが動けるようになるのをじっと待っていた。
「……どうしたらいいのか、分らないんだ」
たっぷり間があって、咳き込んだ後、漸く絞り出した声は酷く嗄れていた。
今までは、教師に教えられた通りにやっていればよかった。言葉遣い、振舞い方、受け答え、交渉の仕方。無難で無害な人間を装い、
余計なことに関心は持たず、目的のためなら手段は選ばない。悩むことも、疑うことも無く、ただその為だけに。
それで、万事上手くいっていた。それなのに。
自分を縛るものが無くなった今、しばしば深淵から湧き上がるこの感情は止め処なく溢れ出て自分を苛むのだ。こんなものは知らない。教えて貰えなかった。
そのうち、耐え難いそれを体を埋めることでやり過ごすことを覚え、溺れていった。
繋がって、満たされて、空っぽになる。結局不完全なまま、何も変わりはしないのに。
「君は――」
平気なの、と、言いかけてやめる。
一度一つになったときに垣間見た片割れも、同じように国の仕打ちに怒り、苦悩し、絶望していた。
平然としているように見えても、受けた衝撃は大きい。彼は彼なりに折り合いをつけているのだ。
そして、彼が自分をその話題からなるべく引き離そうとしていることも知っている。
「何も考えるな」
見透かしたように、抱きしめる腕に力が篭った。忘れろ、と背中を撫でられて、込み上げてくるものに喉が震える。
腕の中で繰り返し囁かれるたびに、暗示にでも掛けられているのだろうか、思考に靄がかかり、深く沈んでいく。
今までも、幾度となくこういうことがあったような気がするが、思い出せない。自分は一体何を知っていたのか。
そうこうしている内に、押し倒されて天地がひっくり返る。見下ろされるのは好きではないが、抵抗する気力も最早なかった。
下を脱がされ、外気に晒された下肢を指が這う感触に身動ぎする。
「はっ……ぁ」
滑った指に後孔を探られ、熱の篭った吐息を漏らす。もう、何も考えなくていい。ただその先を求め、自ら足を開いて招き入れた。