雪が舞う中を、白い息を吐きながらひたすら歩く。
頻繁に人の行き来があるわけではないが、山道はしっかりと地面を露出していて、歩きにくさは然程感じない。山頂付近になれば、雪で覆われてこんな風には行かないが。
時折強く吹きつける冷風を襟を立てて防ぎ、首を縮めた。
「なあに、すぐ終わるって。ちゃっちゃと片付けて帰ろうぜ」
なるべく軽く明るい口調で、後ろに話しかける。返事はなかった。その代わりに、突き刺すような視線を背中に感じる。
「どうせ暇を持て余してふらふらしてるんだろ。たまには世間様の役に立つのも良いもんだぞ」
働け若人よ、勤労は美しい。立ち止まって振り返る。同じく立ち止まった金髪の青年――ブルーの肩を叩くと、あからさまに嫌な顔をされた。
「こっちも人手不足でな。ドールとサイレンスは別の事件で手が離せないし、ラビットはメンテ中だし、コットンは……最近見かけないけど毛皮剥がれて吊るされてるんじゃないだろうな。あと、レンは無謀にも虎女と喧嘩して全治二ヶ月の怪我だそうだ」
「そいつは気の毒にな。一人でやれ」
肩に乗せたままだった手を、乱暴に払われる。
「ここまで来て連れないこと言うなよ。もう、すぐそこだって。ほんの少し手伝ってくれるだけでいいから」
「知るか」
引き返そうとする相手に手を合わせて頼み込むが、そっぽを向かれる。外出などするんじゃなかった、しかめっ面をますます不機嫌に歪ませて、ぶつぶつと愚痴を零す。出会い頭にちょっと手伝えと言われて、連れて来られたのが雪山では怒るのも仕方ない。
そして雪山は雪山でも、ムスペルニブルの通称『朱雀の山』。盾のカードの試練に使われる場所なのだ。モンスターがうじゃうじゃいる場所でピクニックなどありえない。ここで用があるといったら面倒ごと確定である。自分だったら今すぐ帰る。
「まあまあ、帰るのは話を聞いてからでも遅くないんじゃないかな」
すっかりへそを曲げたブルーを宥めるように、銀髪の青年――ルージュが割って入ってくる。兄貴より話の分かるやつだ。地獄に仏とはこのことか。
普段は肩にかけている毛皮をマフラー代わりに首に巻いて、毛玉のような容貌が一層もこもこになっている。そいつは値踏みするような視線を寄越して口を開いた。
「で、いくら出すの」
「何がだよ」
「これ」
お駄賃。ルージュは親指と人差し指で円を作って見せた。
「俺とお前らの仲じゃないか。堅いこと言うなよ」
「『お前ら』って俺を数に入れるな」
「親しい仲だからこそ、そこら辺ははっきりさせておかないと。今後も延々『お願い事』に付き合わされる羽目になるのは御免だからね」
ぴっと立てた指を、鼻先に突きつけられる。
「別に、有り金全部出せとは言わないからさ。金欠なのは知ってるし」
「クーロンのゴロツキより性質悪いぞ、お前」
前言撤回。どうやら付き合う仲間が悪かったらしい。世間の荒波は、純真――かどうかは知らないが温室育ちの青年を、友情を損得勘定で考えるような薄情なやつに変えてしまったようだ。
「世の中には金よりも、もっと大切なものがあるのではないだろうか」
「ただより高いものはないよ?」
これはビジネスだ。いけしゃあしゃあと言ってのけるそいつに、胸のでかい情報屋の姿が重なる。そういえば何故だかあいつに可愛がられてたっけか。余計なことを。
出すのか出さないのか、と迫られて渋面を作る。行く先に何があるのか分からないし、一人で行ってやっぱり何もできませんでした、では格好が付かない。天秤に掛ける。逡巡の後、長い溜息を吐いた。
「……仕方ねえな」
「まいどあり」
軽い財布が益々軽くなる。必要経費で下りるだろうか。給料日までの食生活に思いを馳せて、乾いた笑いを零す。
なけなしのクレジットを巻き上げてご満悦なそいつとは対照的に、兄の方は自分の意思を無視されて勝手に話が纏まったことに不服そうな顔をしていたが、言っても無駄だと思っているのか、口を挟まなかった。目が合うと、ただ、疲れたような諦めたような溜息を吐く。
その様子に、何となく弟との力関係を垣間見たようで、ほんの少しだけ同情した。
「何かが詰まっているそうです」
「便所にか?」
事の発端は、遡ること数時間前、IRPOに掛かってきた一本の電話だった。
日頃からペットがいなくなった、電球が切れた、蜂が巣を作ったなどと、便利屋か何かと勘違いしているような通報は多い。口説いている最中、対応に出た受付嬢の微妙な顔を見て、てっきりその類だと思ったら――。
朱雀の山の管轄は盾のカードの管理の都合上、形式的にうちのものになっている。電話は、秘術の取得のために山に入った修行者からだった。
頂上への道は、ほぼ一本道。迷うことはまずないのだが、逆にそこ以外にまともに通れる場所がない。内容は、通り道である頂上近くの洞窟の入り口が塞がれていて、先に進めないから何とかしてくれ、というものだった。
いつまでも通行止めにしておくわけにはいかない。生憎全員出払っていて、手が空いているのは自分だけ。受付嬢に送り出されて仕方なく現場に向かい、腹ごしらえに寄ったファストフード店で偶々双子の術士を見つけ、助っ人としてここまで強引に連れて来たのである。コーヒー一本くらいで誤魔化すつもりが、すってんてんにされてしまったが。
「かくかくしかじかというわけでな。そこを塞いでいるものの調査と、できればそれの撤去が今回の仕事だ」
「まるまるうまうまというわけだね。で、これって何なんだろう」
件の洞窟の入り口に到着した自分達の目に飛び込んできたのは、何とも奇妙な光景だった。
人二人分の高さはゆうにありそうな入り口を、テラテラと光る物体がぴっちりと蓋をしている。三人で寄って集って触ってみると、これがまた不思議な感触だった。
弾力のある表面は粘液で覆われており、どことなく生温く、緩やかに蠢きすらする。
指をぐいと押し込むと少し凹むだけで、離すとすぐに盛り上がって、元通り平らになった。
「ふん」
ブルーは謎の物体から手を離すと、粘液で滑る手を傍らの赤い法衣に擦り付けた。彼のせいで付き合わされていることに対する腹いせだろう。
「人の服で拭くなよ!」と涙目になって抗議するルージュを無視して、暫し思案する素振りを見せる。
徐に二三歩下がって腕を上げると、手を前方に突き出すように構えた。術法の発動を待つ魔力のうねりが辺りの空気を振るわせ、ちりちりと耳障りな音を立てる。
「要は、こいつを退かせば良いんだろう」
「洞窟ごと吹き飛ばすつもりか!!」
結局力づくかよ。
と、周りの騒ぎに反応したのか、粘液に覆われた壁が大きく撓んだ。低く聞こえてくる地響き。足元の揺れと共にそれは徐々に大きくなっていく。
慌てて二人の首根っこをひっ掴み、できるだけ遠くへ転がるように退避する。
「俺が手を下すまでもなかったな」
轟音と共に洞窟が崩れ落ち、辺りにもうもうと粉塵が舞い上がった。
未だ治まらない煙の向こうに、ゆらりと立ち上がる影が一つ。強く吹いた風に切り裂かれるように煙が晴れ、その姿があらわになる。
洞窟を塞いでいたそいつの正体に、あんぐりと口を開けた。
「イカだー!!」
「イカだな」
「イカだね」
悠然と聳え立つ巨躯に、口々にイカを連呼する。
「通常の三倍はありそうだな」
ブルーが妙に感心した声を上げる。
「そこまで大きくないし、赤くもねえだろ。それにしても、何だってこんな雪山に」
首を傾げる。こいつは基本的に沼地や湖といった水辺に好んで生息するモンスターなのだ。近辺にそんな場所はないが、地下水脈でも辿ってきたのだろうか。
「この大きさだ、大方どこかの実験動物が逃げ出してきたんだろう」
「飼えなくなって捨てたペットが、野生化したのかもしれないよ」
「こんなの誰が飼うってんだよ」
以前、放流されたペットのワニが下水で巨大化して、そいつを捕獲する作業はあったが――一般人に到底飼えるとは思えない巨体を見上げる。性格は凶暴凶悪獰猛。捕まえたものは何でも食うときたもんだ。紫色の触手をくねらせてケケケと嗤うそいつに、可愛げなんてものは微塵も感じられない。
「世の中には水妖を飼って喜んでいる人もいるし、似たようなものじゃないの」
オウミの領主のことかー。
「正体は分かったんだ、あとは撤去するだけだな」
ふん、と鼻を鳴らしてブルーがイカに向かって、ゆっくりと歩を進める。
「いつまでも寒いところにいるのも何だしね」
さっさと終わらせよう、とルージュも後に続く。そこで、はたと気付いたようにこちらを振り返った。
「追加報酬を請求してもいいかな。分割でいいから」
先程巻き上げた分では労力に見合わない、と言ってくる。
「出るかアホ」
ケツの毛まで毟るつもりか。じゃあボーナス払いで、と言いかけたルージュのケツに蹴りをくれてやった。
近づいてくる人間に気付いて、巨体がこちらを睥睨する。本当なら背後から急襲したいところなのだが、回りこむ場所も無く、それは叶わない。男らしく正面から挑む。
殺気を感じたのか、はたまた食えるものだと判断したのか、先に動いたのはイカの方だった。
撓った触手が一気に伸びて、こちらを捕まえようと飛んでくる。思ったよりも射程距離は長いらしい、反射的に身を捩ったすぐ側を、弾丸のように掠めていった。ホルスターからオートマチック拳銃を引き抜いて、応戦する。蜂の巣にする勢いで触手に鉛玉をお見舞いしてやるが、肉の壁に阻まれて効きが悪く、勢いは止まらない。
横目で様子を窺うと、ブルーは滑る触手に苦戦しているようだった。剣で果敢に切りかかるが、手、というか足の数で負けている。前後左右、縦横無尽に襲い掛かる触手を捌ききれず、徐々に追い詰められていく。
ルージュが触手を掻い潜って回し蹴りを叩き込み、相手が一瞬怯んだ隙に大きく後退した。
「もう息が上がってるぞ。隠居生活が長すぎて、体が鈍っているんじゃないか」
「あんまり外に出たがらないもんね。買い物も人任せだし」
「……む」
運動不足を指摘されて、ブルーは口をへの字に曲げた。
「何だったら、後ろで見学しててもいいぜ。体操座りで」
軽口を叩きながら弾倉を入れ替える。
「抜かせ。お前こそ弾切れには精々気をつけるんだな」
必要最小限の動きで、伸びてくる触手を片っ端から切り飛ばしていく。
「こんなところで喧嘩しないでよ」
ルージュが、飛んできた触手の勢いを利用して、イカを投げ飛ばした。一回転して瓦礫の山に突っ込むが、巨体に見合わぬ俊敏さで起き上がり、またすぐに押し寄せてくる。
「うわっ」
狭い山道では逃げ場も限られる。かわしたつもりが、足元を払われてバランスを崩したところで足を掴まれ、逆さまに吊り下げられてしまう。
「良い眺めだな?」
鈍っているのはどっちだ。さっきのお返しとばかりに、ブルーが意地悪く笑った。
「見てないで何とかしろ! あっこらやめろ、パンツを下ろすな!!」
あらぬところに潜り込もうとするぬらぬらとした感触に、悲鳴を上げた。銀の閃きと共に拘束する触手から解放され、背中から落ちる。
触手は切り落としたところから次々と再生してキリがなかった。相手の体力も無尽蔵なわけではない。的がでかいのは結構だが、決定的なダメージを与えられず、先にこちらがへばりそうだった。
疲労の色が隠せなくなり、顔から余裕が消える。
一度に受けるダメージは小さくても、蓄積すれば動きは鈍る。そして、それは致命的な隙を生む。
視界が紫色の塊で埋まった。
「しまっ……!」
勢いを付けて大きく振り回された触手に薙ぎ払われて、吹き飛ばされた。腹に受けた衝撃に咽る。倒れたところに、今度は上から振ってきた紅い法衣の重みに押し潰される。攻撃を避け損ねて触手に捕まり、投げ飛ばされたらしい。
兄の方は膝をつきこそはしていなかったが、肩で大きく息をしているのが視界の隅に映る。
急いで起き上がろうとした視線の先で、イカが巨体を揺らすのが見えた。笑ったのだろうか。
弱らせた獲物を料理しようと、捕食者は厭らしい笑みを浮かべ、両の触手を高く翳す。
ああ、これで一巻の終わりか。でっかい津波に押し流されて海の藻屑になるのだ。山なのに。思わず目を閉じる。
永遠のような一瞬。――が、いつまで待っても音は聞こえなかった。波が打ちつける痛みも、濡れた感触も無い。
恐る恐る目を開けると、さっきと同じ状態のまま。双子もきょとんとしている。遅れてポトリ、と鼻先に水滴が落ちてきて、それだけだった。
三人で顔を見合わせる。
運がよかったな。今日は水分が足りないみたいだ。
とイカが言ったかどうかは定かではないが、津波が出てこないことに焦ったように、僅かに後ずさる。
『脅かすなーーーーー!!!!!』
湧き上がった怒りに身を任せ、一気に畳み掛ける。お互いに合図はしなかったが、これ以上ないくらいに綺麗に連携が決まった。
急所一点に強烈な攻撃を叩き込まれて、流石に堪えたらしい。派手な破裂音を立てて巨体が吹き飛ぶ。もんどりうって倒れると、暫く触手をピクピクと痙攣させていたが、そのうち動かなくなった。
「死んだか」
ブルーが剣を鞘に収めて、警戒は解かないまま、弟の側に歩み寄ってくる。
「気絶しただけみたい。頑丈だなあ」
ルージュはイカの体をペタペタ触って、感嘆の声を上げた。
自分も爪先で小突いてみるが、ピクリとも動かない。念の為、麻酔銃を打ち込んで縛り上げると、縄の先を二人に手渡した。
「……おい」
「持って帰るの、これ」
更なる肉体労働を要求されて、不満の声が上がる。
「……僕、体力に自信ないんだけど」
「撤去までが仕事だって言ったろ。復活してここに居座られても困るし。主に俺が。さあ、シップ乗り場までキリキリ運んだ運んだ」
本当、世の中って割に合わないことばっかりだよな。三人で山のような巨体を引きずって、えっちらおっちら下山を始めた。
「ああ、無事だったんだね!!」
息も絶え絶えになりながらも、どうにかIRPOの本部に戻ってきた自分達を出迎えたのは、感動の再会だった。
イカと、その飼い主の。
「三日前に急に姿が見えなくなって、ずっと探していたんです。もしかしたら、ここに迷子の届け出があるんじゃないかと思って」
麻酔から目を覚ましたイカの触手に揉みくちゃにされながら、そいつは眩いばかりの笑顔を見せた。
出入り口を塞ぐように立つイカの向こう――大きさが大きさだけに、さすがにロビーには入らなかった――に、恐怖に引き攣った笑みを浮かべる受付嬢が見える。
出てきたのはまさかのオウミの領主。絵本に出てくる王子様の如く、カボチャのように膨れたパンツに白タイツといった出で立ちをした金髪碧眼の美青年である。
イカレポンチな格好はさておいて、黙っていればさぞかしもてるだろう。しかし惜しむらくはその残念なオツムであった。
噂によると、漁師の網にかかった水妖に一目惚れして引き取り、しつこく求愛していたが、人間嫌いの相手に素気無く袖にされたらしい。
御執心の人魚姫に逃げられてしまい、日長一日橋の上から湖を眺め、虚ろな目で「帰ってきてくれ」と未練がましく呟く姿を、近隣住人にかなり気味悪がられていた。
先日オウミに寄ったときは、橋にその姿は無く、失恋の痛手からようやく立ち直ったのだろうと思っていたが。
「振られたときは、湖に飛び込んで泡になってしまいたいくらいでしたが、地下室で話を聞いてもらっているうちにすっかり癒されて。今では、もう彼女なしでは生きていけないんです」
水妖の次はデビルテンタクラーとは、よくよく水棲動物が好きらしい。
心配したんだぞ、とイカを軽く小突く姿に寒気を覚える。イカは甘えでもしているのか、ぶっとい触手を腕を組むように領主に絡ませた。意味が分からない、というか分かりたくない。
「そんな心優しい彼女が、一人で孤独と空腹に身を震わせているかと思うと、夜も眠れなくて」
一匹逞しく生きていましたが何か。周りのモンスターを食ってキングサイズに成長しました。しかも彼女彼女って、モンスターに性別はないだろ、と突っ込みたいのを辛うじて堪える。
双子の術士は皮肉を言う気力も体力も無いのか、イカと領主がいちゃつく様を、少し離れた場所から死んだ魚のような目で眺めていた。
「あなたがたには感謝しても、し足りません。この気持ちをどうやって伝えたら……そうだ歌を」
いそいそと竪琴を取り出す。いつも持ち歩いているのかそれは。
「いいからそいつを連れて、とっとと帰ってくれ。頼むから、二度と逃がすなよ。絶対に、だ」
念を押すと、ぐいぐいと背中を押して、色惚けならぬイカ惚けを追い出しにかかる。
「本当にありがとうございました。このご恩は一生忘れません。では、せめてこれを」
心ばかりのお礼です、と四角いものを懐から取り出し、手渡してくる。仕方なく受け取って送り出す。
何度も振り返りながらお辞儀をして、イカを連れて領主は去っていった。
「じゃあ、僕らはこれで帰るから」
話が終わったのを見て、疲れた顔をしたルージュが、覚束ない足取りでふらふらと寄ってくる。
「ご苦労さん」
「足の一本でも貰っておけば良かったかな……イカ焼きイカ飯イカフライ」
空腹を訴えながら歩き出す弟に付いて、ブルーも後に続く。去り際にこちらの手の中を一瞥して、皮肉げに笑った。
「大事にしろよ」
言われて、改めて手の中のものを確認する。
少々厚めの紙に印刷された、艶かしくも美しく紫色に輝く肢体。
「いるかーーー!!!」
すっかり小さくなった領主の背中目掛けて、力いっぱい投げつけた。
この一件の後、時候の折にはIRPO宛に領主から葉書が届くようになった。
――幸せに満ち溢れた文章に、イカと戯れる写真つきで。