最初のうちは神経質なくらい周囲の様子に気を配り、息を潜めるような生活をしていた。この街を選んだのも身を隠しやすいからに過ぎない。
それでも何事もない日々が続くと警戒心も薄れる。それなりに愛着も湧き、移動ルートが固定され、顔見知りもできる。
ごった返す人波にも慣れ、すり抜けるように早足で通りを歩いていると、視線を感じた。
「君が、表か」
雑踏の中、さして大きくもないそれは、妙にはっきりと耳に届いた。振り向くと、二三人隔てた先に、お忍びのお偉いさん然としたコート姿の人物が目に入る。
却って目立つような気もするが、あるいはわざと気付かれるようにか――この街では気にする者などいないが。
フードを目深に被り、顔は見えなかったが聞き覚えのある声。若いような年を取ったような。忘れるはずもない。
立ち止まったまま凝視していると、ゆっくりと近づいてくる。
「――を殺せ!」
囁くように発せられた言葉に、ぎくりと身体を強張らせた。足は地面に縫い付けられたように動かない。全身の毛が逆立つのを感じる。
何故ここにいると言おうとしたが、喉の奥が張り付いて言葉にはならず、引き攣ったような呼気を吐き出すに留まった。
「亡霊でも見るような顔だな」
面白がるような声音に、顔を険しくさせて睨みつけると、形の良い唇が笑みの形を作った。

 自分の知る表側はかなり神経質で厳格な人物だった。しかし目の前にいるのは口調もぞんざいで大雑把、どうやら正反対の性格らしい。
だからといって相手に好意を感じるわけではないが。立場を考えれば、最も関わりたくない人間の一人である事に変わりない。
「しがらみというのは、どこまで行ってもついて回るものさ」
逃げたつもりでも、こうして出会ったように。促すように通りの脇に移動すると、ショーウインドウの前でくるりと身を翻した。コートの裾から特徴的な意匠の布が見え隠れする。
見つかったのならさっさと逃げ出すべきだと分かっていたが、そうはしなかった。故郷のその後が気になったのと、片割れ以外で初めて会う裏側の人間に対する興味が半々。
周囲を窺うが、連れがいる気配はなく、おそらく単独行動だろう――そう判断し、警戒は解かないまま距離を取って、ショーウインドウに背中を預けた。
「元々閉鎖的なリージョンだから、外部機関では身元の照会は難しかろう。その上我々は表向き存在しないことになっていたからな、間違えても仕方あるまい。そうがっかりするな。ああ、表の死体は本物だ」
同じ教育機関のはずだが、裏側に関しては機密として厳重に隠され、その存在を知るものは上層部のごく一部と、それを告げられた本人達しかいなかった。
その機密性の高さゆえに情報も少ないため、そちら側の捜査はあまり進んでいないようだった。実情を知っている相手とは特にその話をすることもなく、寧ろ意識的に避けさえしている。
「今日は一人か」
「何が言いたい」
「私の生徒は元気にしているか」
「……あいつは死んだ。俺が殺した」
殴ってやりたい、と言っていたあれを引き合わせるのは得策ではないだろう。やっと落ち着いたのだ、死んだと思い込んでいるならそれでいい。
「そうか」
信じたわけではないだろうが、溜息を一つ吐くと、それ以上は追求してこなかった。
「まあいい。人手が足りなくてな、戻って来る気はないか」
「ない。それに生きている方が都合が悪いだろう」
これが本題だろう。正面を向いたまま即答する。用が済めば、強い力を持つものは厄介者でしかない。手を離れてしまえば脅威になる。
「あれほど出口は閉じておけと言ったのに、困ったやつだ。それとも最後の最後で罪滅ぼしのつもりだったのか」
やれやれといった風に肩を竦め、あっさりと肯定する。
リージョン移動を取り上げられて、やっとのことで戻ってきた自分達の目に飛び込んできたのは、捩れた空間からこちら側に手を伸ばす、もはや虫の息の術士の姿だった。
彼がいなければ崩壊する地獄と仲良く心中するところだったのだ。思い出してぞっとする。
「せっかく生きて帰ったんだ、国を救った英雄として祭り上げられるのも悪くはないぞ」
「手足を切り落として、薬漬けにでもして、か」
復興の旗印として破格の待遇で迎えてやる、という相手に不快感を露にして、ふんと鼻を鳴らす。
「必要ならな。教授会の連中からはその案も出ている。誰がキングダム最強の術士を捕まえてくるんだ、と言ったら慌てていたがな」
大口を叩くくせにとんだ腰抜けだ、その様子を思い出したのか、クツクツと笑う。あの惨状にも関わらず、思っていたよりは生き残っていたようだ。余計なことを考える程度には元気らしい。
こちらは死んだ振りをしているのだから、放っておいてくれれば良いものを。片割れのことが頭に浮かぶ。面倒だが暫くここから離れた方がいいだろう。
 現在は不在の表に代わり、これが中心になって指揮を執っているのだと相手は語った。
「救助の名目であのような警察まがいの組織の介入を許してしまったが、彼らにはそろそろお引取り願う。見られたくないものがまだ山ほどあるのでね」
女神達、処置室、地獄。お前の知っていることはほんの一部でしかない、もっとおぞましいものが埋まっているのだと、そう言っていた。
未だ大半は瓦礫の下だが、上層部が完全に機能するようになれば強引に居座ることもできまい。彼らにそこまでの権限はないのだ。
調査は打ち切られ、適当にでっち上げられた資料を渡されて体よく追い出される。件の隊員が地団太を踏むのが目に見えるようだ。全ては地獄と一緒に闇に葬り去られる。
「国の人間は全て被検体だ。双子もそうでないものも。勿論我々も例外ではない」
適合すれば処置を施され、二人は一人になる。そして戻って来ることはない。伝統の名の下に続けられた生贄の儀式。
隠し続けた秘密は大きくなり過ぎ、手に負えないものになっていったが、それでも続けるしかなかった。
「生憎君達のようには適合しなかったが。失敗作というわけだ」
「自分達も被害者だとでも言いたいのか」
強くなった語調に、裏側は皮肉気に笑った。
「多大な犠牲を払って術士を作り続けても、壊すまでには至らなかった。君達には感謝しているよ」

人の波は途切れることなく流れていく。自分達の時間だけが止まっているようだった。
「まさかあんたが出てくるとはな」
「これは私の独断だ。彼らは知らない。ただの気紛れだよ。ここにいるとは聞いていたが、こんなに簡単に会えるとは思わなかった」
苦笑いを浮かべる相手に顔を顰めた。平和惚けしていたのは確かだ。
失敗作だと自嘲する相手も、術士たちの上に立っているだけあって実力者なのだ。初めからその気で来たのなら、捕まらないにしても無事では済まない。苛立ち紛れに言葉を紡ぐ。
「一人でこんなところまで来て、俺が復讐しようとしているとは考えないのか」
「それもよかろう。復讐する相手がいるのは羨ましいことだ。亡霊じゃ殴れないからな。気が向いたらいつでも訪ねて来い」
コート姿が一歩踏み出す。話はこれで終わりらしい。ゆっくりと歩き出す。
「……気まぐれと言ったが、誰かに聞いて欲しかったのかしれんな」
そう呟く声は一気に老け込んだようだった。
「縁があればまた会うこともあるだろう」
そのまま振り向かずに雑踏に飲み込まれていく。その後姿を暫し見送る。
見えなくなったところでようやく緊張が解け、深々と溜息を吐くと、自分も街の混沌に紛れた。