クーロンは雨だった。
もともとカラッと晴れる街ではなかったが、ここ数日切れ間もなく降り続いている。
普段ごった返している大通りは、今は人影もなく、跳ね返った水滴で白く煙っていた。

 通りから外れた場所にあるその建物は、金にうるさい知人が格安で見つけてきた物件だった。
その一角、テーブルランプに照らされた薄暗い部屋に、紙を捲る音だけが響く。ソファに座って、代わり映えのしない記事を何度も読み返す。
出かける気にもなれず、さりとて特にやることもなく、ただ活字を追うことで時間を消費していた。
することがないのは、隣に座る同居人も同じなのだろう。湿った空気に押しつぶされでもしたように、だらしなく背もたれに体を預けている。
「何か面白い記事でもあった?」
黙っているのにも飽きたのか、気だるげに上体を起こすと、今度は肩に顎を乗せて新聞を覗き込んでくる。
「特にはないな」
肩の重みは、ふーんと言いながら、倣うように上から順に目で追っていく。
事件、事故、失踪、殺人、猫貰ってください――いつもと同じ。面白くはない。
 ある一点で、ふいに動きが止まる。触れている体が強張ったのが分かった。
一字一句暗記するほど読み返した記事。
肩越しに顔を覗き込むと、新聞を取り上げられた。紙の束が耳障りな音を立てて床に落ちる。
おい、誰が片付けるのかと抗議するが、相手はお構い無しだった。新聞のなくなった空間に割り込んでくる。
「暇なら、さ」
膝の上に跨って、そのまま覆いかぶさってくる。狭いソファの上に逃げ場はない。逃げる気もなかったが。
目が合うと、紅い目を細めて口の端を上げ、笑みの形を作った。
「僕と遊んでよ」
口調こそ軽かったが、今にも泣き出しそうな気配だった。新聞を拾うのは諦め、手を伸ばして、垂れ下がる銀糸に囲われた頬に触れる。
明かりを消すと、雨の音が大きくなったような気がした。

 夕刻、外からの明かりで、重なった輪郭がぼんやりと浮かび上がる。
暗がりの中、膝立ちになったまま動きを止めた相手の様子を伺った。ぎゅっと目を瞑って、痛みに耐えるように震えている。
慣らすのもそこそこに、性急にことを進める彼に、無理はするなと声を掛けると、うるさいと返ってきた。嘆息する。
外では温厚で通っているらしいが、気心の知れた相手には、やることは大胆で口も悪い。それが孤独と不安の裏返しなのを理解するまで、随分と振り回された。
(……いや、今もか)
本人がそれを望んでいないのは分かっていたが、傷付けるのも本意ではない。あやすような手付きで背中を撫でてやる。
 ややあって、幾らか痛みが和らいだのか、息を吐くと、再びゆっくりと腰を落としていく。
時折くぐもった呻き声を漏らしながら、どうにか全てを収めた頃には顔面蒼白だった。肩口に額を押し付け、荒い息を吐いている。
「平気、だから」
頭に手を回して暫くの間撫でてやっていると、落ち着いたのかようやく顔を上げる。子供じゃないんだから。切れ切れになりながらも、強がりを言うのは忘れない。
そうか、とだけ答えると、薄く開いた唇に口付ける。涙に滲んだ目が軽く見開かれるが、角度を変え、優しく何度も与えられる感触に、徐々に力を失っていった。
青褪めていた顔は赤みを取り戻し、本人は気付いているのかいないのか、喉の奥から息の抜けるような声を漏らす。
そんな様子を見て取ると、脱力した体を腕で支え、繋がったままソファに横たえさせた。
「うぁ、ちょっと、待っ……!」
先程とは逆に相手を見上げる格好になり、慌てた声が上がった。自分は好き勝手やっているくせに、こちらが動くとは露程にも思わなかったらしい。
「遊んでくれるんだろう」
「う、それは……」
口篭る様子に、意地悪く笑う。ここまで我侭に付き合ってやったのだ。この忍耐強さは賞賛に値すると思う。呆れるほどに。
「君がそういう冗談を言う奴だとは思わなかったよ」
ふっと空気が緩み、咎めるような、安堵したような複雑な表情で、首に腕を回してくる。
「お前に似たんだろうな」
乾いた笑いと共に、引き寄せられた。

 首を巡らすと、床に散乱する新聞が視界に入った。
『校舎の瓦礫から遺体――IRPOによると、見つかったのは学院の責任者と見られ――』
「あいつらは卑怯だ」
何もかも押し付けて、自分達の信じる女神に会いに行ってしまった。
「次に会ったら、一発殴ってやろうと思ってたのに」
腕に収まったまま、悪態をつく声はどこか弱々しい。
自分の意思でやったと思ったことでさえ、計算のうちだった。
結局最初から最後まで彼らの思惑通りに動かされたのだ。資質の所有者を手にかけ、兄弟で殺し合い、封印の向こうの敵を倒した。
回した腕に軽く力を入れて抱き直すと、存在を確かめるように、力の入らない手でしがみついてくる。
 最後に見た故郷は酷い有様だった。
整然とした町並みは完膚なきまでに破壊され、焼け焦げた建物からは、死の臭いしかしなかった。
時間の問題だとは思っていたし、聞いたところでどうということはないと思っていた。
あの状態で生きている可能性は限りなく低かったが、こうしてはっきり突きつけられると、やはり全てが終わってしまったのだと思い知らされる。
これが天罰が下ったと言うやつだろうか。そんな考えに至って苦笑する。あそこは地獄だ。
自分達は帰ってきた。三女神とやらに当分会いに行くつもりはない。そして腕の中の体温を手放す気も。
触れた体が緩く上下しているのに気付く。妙に静かだと思っていたら、いつのまにか眠っていたらしい。穏やかな寝顔を晒している。
雨は当分止みそうにない。それならば。
無防備な温もりを抱いて、自分も目を閉じた。