自分であるはずなのに、あの時と同じ、他人の体を間借りしているような、奇妙な居心地の悪さがあった。
元に戻るのなら引き取っていけばよいものを。一つの体に二人分の記憶。混ざり合って、どこからが自分で、どこまでがそうでないのか分からなかった。
不確かな人格。外見、仕草、思考、嗜好――掻き集めて、切り捨てていく。完全に元通りとはいかないが、どうにかそれらしい形に繋ぎ合わせた。
違和感はあるが、致命的ではない。これが自分なのだと言い聞かせていれば、そのうちに馴染む。
だが、こいつはそうしなかった。全部受け入れることは、実際放棄に近かった。
「……何をしている」
「どっちだったか、と思って」
感情の篭らない声が降ってくる。覗き込んでくるそいつを睨みつけた。
真夜中に息苦しさを感じて目を覚ましてみれば――そいつは自分の腹の上に跨って、首に手を掛けていた。
不本意ながらも、行く当てのないもの同士、一緒に暮らすようになって暫く経つ。
こいつの奇行には慣れたし、驚きもしなかったが、後を付いて回るこいつに面倒になって、好きにしろ、などと言ったことを流石に後悔した。
「天国に逆戻りは御免だ」
手を払いのけると、息を吐き出す。
「どっちか、だと?」
そいつは相変わらず自分の上に腰掛けたまま、何をするでもなく、冷ややかな目でこちらを眺めている。自分もこんな顔で見下ろしていたのだろうか。あの場所で。
同じ顔をした男。唯一の肉親。双子の。自分が殺した――のか殺されたのか。
嫌な感触が蘇りかけて、かぶりを振る。折角作り上げた形があっけなく霧散する、そんな感覚だった。
「俺、には、」
絞り出すような声。これは自分ではない。
「何もない、――」
後に続く言葉は聞こえなかった。聞き返す前に塗り潰される。
「君は、誰」
いつからだろうか。幾度と無く繰り返される問い。
「俺は俺だ。そしてお前は俺じゃない」
そいつの目に感情の色が浮かぶのが見える。落胆、失望、喪失――恐らくその類の。
こいつの望む答えでなかったことだけは、伝わってきた。
「仮にだ、私が君の正気を保証したとしよう。では私の正気は誰が証明してくれるのかね」
基準などあってないようなものだ。日常生活に支障がなければ――
大有りだ。先日など首を絞められた。半眼で呻くと、生きているならいいじゃないかと返される。
「刺されたとか毒を盛られたというならいつでも来たまえ、歓迎するよ」
それは死んでいるだろう。件の捜査官ならいざ知らず。
「自分探しがしたいのなら、京辺りはどうかね。修行僧体験ツアーなんていうのもあるが」
どこから取り出したのか、大量のパンフレットを押し付けてくる。
まともな答えが返ってくるとは端から思っていなかったが、やはり話す相手を間違った。嘆息する。
「藪医者め」
人のようで人でないそいつは肩を竦めて見せた。
クーロンは身を隠すのに絶好の場所だった。犯罪者、逃亡者、放浪者、何がしか訳ありの人間――だけでもないが、集まって来る。
お陰で身元を詮索されることはないし、混沌とした町並みは、多少目立つ格好をしていても簡単に紛れた。
今のところ追っ手が掛かる気配はない。そんな余裕も無いだろうが、面倒事は避けたかった。
肩を剥き出しにした女が声を掛けてくるが、無視して通り過ぎる。スカしやがって。罵声が投げつけられる。
電球が中途半端に切れた看板の前で男が手を振っているのが見えた。今度は立ち止まる。
「よう」
「またサボりか」
こうして時折訪ねてくるこいつや、イタ飯屋の連中から入ってくる故郷の情報は、大方予想通りの内容だった。
あれだけ派手に崩壊したのだ。人員不足で復旧はままならず、市街地はロープが張られ、未だ立入を禁止している。
辛うじて生き残った魔術士たちは、関わった計画の全ては知らされていなかった。自分が知っている以上のことは分からないということだ。
「お偉いさんも資料もみんな瓦礫の下だ。報告書を書く身にもなって欲しいもんだね、全く」
がりがりと頭を掻く。
「珍しく仕事をしているじゃないか」
「俺ほど勤勉な人間はいないね」
勤勉かどうかはともかく、慣れないデスクワークで憔悴しているのは見て取れた。
薄汚れたジャケットの内ポケットを弄るが、目当てのものは見つからなかったらしい。溜息を吐いてから、
「ああ、そういえば」と思い出したように付け加える。
「マンハッタンであいつを見かけたぜ。あの女に山ほど荷物を押し付けられて半べそかいてたけどな」
気の毒なこった。意地悪く笑う。
「何にせよ、相変わらずで安心したよ」
「……変わっていなかった?」
「……そりゃあ全然変わらないって事はないだろ。色々あったし」
聞き返されるとは思っていなかったのだろう。怪訝な顔をする。
あいつが出先で、誰と何をしているかは知らないが、どういうわけだか――
(外では上手くやっている?)
自分以外の知り合いとは。あれだけ人を振り回しておいて、だ。
(何なんだそれは……)
眩暈がする。
「おい――顔色が悪いぞ、大丈夫か」
名前を呼ばれたのだ、と理解するまで随分時間が掛かった。
あいつの名前を呼んだことがないことに不意に気付く。気に食わないのもあったが、その必要もないと思っていた。
聞こえなかった言葉。
(君以外は)
「呼んでやればよかったのか?」
ぽつりと漏らす。
「具合でも悪いのか」
何なら医者に、と言いかける相手を制止する。ついでにパンフレットの束を、こいつのポケットに捻じ込んだ。
「大したことじゃない」
その程度のことかもしれない。
話を打ち切ると、呆気に取られるそいつを残してその場を後にした。
半分は自分の記憶でないとしても、それが自分に残された全部だった。
形を失っても、それは自分が望んだことだ。
どちらでもあって、どちらでもない、不自然に満たされたあの時間から進めずにいる。
呼ばれて気付いた。いや、気付かない振りをしていた。決めてしまえば片方を手放さないといけない。
あいつが自分を呼ばないことに、安堵もしていた。
(結局、意気地がなかったんだ。自分には)
あいつはあいつだと言って先へ進んだ。なら自分も選ばないといけない。呼ばれるままでなく、自分の手で。
――、呼ばれて引き戻される。
どうかしたの、と振り返った相手に何でもないと返すと、そう、じゃあこれもお願いねと荷物をもう一つ載せられた。
同じ顔をしたそいつからは、拍子抜けするほど、あっさりとした答えが返ってきた。
「……それでいいのか」
「いいのかって、君がそう呼んだんだろう」
そいつは、至極当然といった風だった。ソファに身を預けたまま、悠然とこちらを見返してくる。
はいお土産、と、買い物に付き合わされたついでに買ってきたのだろう、紙袋を投げて寄こされた。
釈然としないものを感じる。
「そういうものなのか?」
「そういうものだよ」
脱力する。
どちらでもあって、どちらでもよくて、不都合がなければ。
「それに僕は僕だ。君でもよかったけどね」
眉をひそめる。そいつは明らかに面白がっていた。強がりもあるだろうが、かつての危うさはそこにはない。
「……配役が被るとまずいだろう」
「一人二役よりはいいじゃないか」
まあ、それも面白いかもね。悪びれることなく、にやりとする。ここにいるのは、こいつなのだ。
(勝手なやつだ)
本当に取り戻したのかどうかは分からないが、とにかく、これからは、こいつは自分の前でもこいつでいることになる。
そして自分も。
こいつじゃない自分。自分じゃないこいつ。違わないと言われれば、簡単に揺らぐ。
一度壊れたものは元には戻らない。それでも、同じ記憶の上に違う時間を積み重ねていけば、いつかそれが自分の形になるだろう。
それまでは。
「確認くらいはしてもいいかもしれんな」
もう一度呼んでやる。そいつも応える。一対の名前。
何だかそれがおかしくて、顔を見合わせて笑った。