俺の奥底で眠りに就いていた最愛の女がそこにいた。
「久しぶり……じゃないわよね。だって、ずっと側にいたんだから」
「ルシオラ…」
「ようやく、来たな」
「で、この間男は誰だ?」
「誰が間男じゃ!」
「見ての通り、『貴方』よ」
確かに俺だ。容姿は兎も角、芸風はごまかしが効かない。我ながら間髪を入れぬ見事なツッコミ。
俺と俺と彼女以外誰もいない世界は、まるで俺達を突き放したかのように静寂を保っている。
時間という概念が空間と同程度に意味を失った世界に響くのは、支配者の託宣のみ。
彼女が口を開いた。
わんっ! 〜輝く季節へ〜
第9話
「解離性同一性障害、って解るかしら?」
「多重人格の事だろ。漫画やドラマに出てくる程度の知識しかないけどな。確か、児童虐待が原因だと聞いたけど」
「痛みから逃れるため、別の人格を創って痛みを押し付ける。そして、押し付けた方の人格は、過去の外傷の事実すら記憶から抹消して楽になる。要するに防衛機制の一種ね」
「確かに美神さんからはしょっちゅう虐待受けてたけど、俺は子供じゃないぞ」
「児童虐待はあくまでも典型例よ。心を押し潰す程重いトラウマがあれば大人でも起り得ると考えていいわね。無論、個人差もあるけど」
「トラウマ…」
ルシオラは……
俺のことが好きだって……
命も惜しくないって……
なのに……
俺……
あいつに何もしてやれなかった!!
ヤリたいのヤリたくないのって、てめえのことばっかりで!!
口先だけホレたのなんのいって、最後には見殺しに!!
俺には女のコを好きになる資格なんてなかった!!
なのにあいつ、そんな俺のために……
うわああああああああっ!!
「解ったか? 俺が何故存在するかが」
「多重人格って奴は所詮脳の中の諍いだろ。それがどうしてここに」
「そんなの俺の知った事か。どうしてコインロッカーにいたの?と赤ん坊に聞くようなもんだぞ」
「それに俺はルシオラを決して忘れてない」
「だが辛い記憶には蓋をした。違うか?」
「俺は俺らしく生きようと努めただけだ!」
「『俺らしく』とは、道化師のように仮面を被って生きる事を言うのか?」
「………」
「被ってない、と言い切れるか?」
「仮面を被らないで生きられる訳ないだろ」
「俺にとって『俺らしく』とは『自分を偽って』と同じ意味なのか? 俺は嫌だ」
「『ルシオラが愛した俺』として生きる事の何処に偽りがあるというんだ!」
俺同士の諍いに彼女は介入しようとしない。
ん? ちょっと待て?
今目の前にいる俺が俺の別人格だとしたら、彼女は……。
「『ルシオラと共にいたい俺』を押し潰して生きるのは、偽りじゃないと言えるのか?」
「押し潰してない。未来を見据えているだけだ」
「未来に希望を繋ぐと言えば聞こえはいいが、要するに今を捨てる勇気がないだけだろ。俺にとって、あいつは『世界を引換えにしてでも手に入れたいモノ』だった筈だ。それを否定する気か?」
「否定する訳がないだろ。でも、『両手に花が好みの俺』がいて、あいつは、それをひっくるめて俺を愛してくれた。それを切り捨てる事があいつへの愛に殉じる証とでも言うのか? それは違うだろ。『俺の形をした俺でないモノ』をあいつは決して望んでいない。それに」
彼女を一瞥し、再び俺の方を向いて一言。
「彼女はルシオラじゃない」
彼女の触角がピクリと動いた。
「俺がルシオラを見分けられないとでも思ってるのか? 彼女の魂は明らかにルシオラそのものだ」
「違う。確かに大部分はルシオラだが別のモノも混じってる」
「混じってるって………あ」
「ようやく気付いたようだな」
「『彼女』もまた、『俺』だ」
ルシオラの姿をしたベスパを一目で見破った俺だ。魂に別の物が混じっていれば、それに気付かない訳がない。
しかし、不純物が俺自身の魂となると話は別だ。他人にとって不快なレベルの体臭であっても、自分自身はさほど気にならないのと同じ理屈だ。俺だって、パピリオの発したあの言葉が心に引っ掛かってなければ、見過ごしていたかもしれない。
『ポチ、ルシオラって……誰でちゅか?』
あの時は、単なる記憶の辻褄合わせだと思っていた。
だが、ルシオラの存在を消し去る事が不可欠かといえば、そうではない。むしろ、あいつの存在を消す事で世界の記憶の矛盾はますます複雑になる筈だから、方法としては理不尽のみならず不合理と断じる以外にない。そこがどうしても腑に落ちなかった。
あいつは既に俺の一部であったから、俺と共に忘れ去られた。こう考えれば、疑問は氷解する。
「たとえ女の姿をしていても、俺自身が相手じゃ全く興醒めだ。俺はナルシーじゃないぞ」
「ユニコーンの一件はどう説明するの?」
「それはそれ、これはこれだ」
『彼女』からの鋭いツッコミは魔法のキーワードで軽くいなし、話を進める。
「さっきの多重人格の話に戻るけど、俺がオリジナルで、トラウマを押付けて楽になるためにもう1人の俺を生んだと言ってたよな?」
「趣旨的にはそうなるわね」
「だが、こういう解釈もできるぞ。仮面を被って生きるのは嫌だからその役目を俺に押付け、自分はこの世界に逃げ込んだ…」
「俺が逃げてるだと?」
「自分を偽るのは嫌だと言ってたじゃないか。つまり、俺と違い、そっちの俺には明確な動機がある」
「違う! 俺は逃げてなんかいない!」
「逃げて何が悪いの? 貴方が逃げる事を選んだから、私は再び貴方と逢えた。それでいいでしょ」
「全然良くないさ。俺自身と心中だなんて、ブラックユーモアにもなっていない」
『私、おまえが好きよ。だから……おまえの住む世界、守りたいの』
「あいつは、俺の意思などお構いなしに、俺を生かす事を選んだ。ところが、そこにいる『ルシオラの形をした俺』はあいつの想いを踏み躙っている」
「私はルシオラよ」
「あいつは俺が住む世界を護るために死んだ。俺にそこで生きていて欲しいからだ。だが、俺の中の一部はそれを直視しなかった。ある者は自らを断罪する事を口実にあいつのいない現実から逃げ、また、ある者は自らの破滅を望んだ」
「私は…」
『彼女』の姿が徐々に別の者へと変わる。
それは、いつか見た自分自身。バンダナの美少女。俺のアニマ。
「どうやら、決着はついたようだな」
「生憎だが、俺はまだ納得できてない」
「ここにはあいつはいない、或いは、あいつはいつでも俺と共に在る。それでも、この世界に残りたいと言うのか?」
「何処にいても同じなら、ここにいても同じさ。俺のために世界が犠牲にならず、世界のために俺が犠牲にならないのなら、俺がどんな選択をしてもあいつは許してくれるだろう。じゃあ逆に聞くが、あの世界に俺が戻る意味はあるのか?」
「あるさ。何でそんな判りきった質問をする?」
「戻る意味なんかないからさ。俺はここから俺自身を含むあの世界を見つめながら、ずっとその事だけを考えてきた。当然、俺と周りの連中の絆があっさり切れていくのも目の当たりにした。何故絆が切れたか? 理由は簡単だ。向うにとって、俺は不可欠な存在じゃないからさ。俺がいなくても日常は滞りなく進む。必要とされてない所に戻る意味なんてあるのか?」
「向うが俺を必要としてなくても、俺は向うを必要としている。なくなった絆は取り戻せばいい。それに」
『拙者は……先生を信じるだけでござる。それが……それが………1番弟子の務めでござる…』
「馬鹿弟子が帰りを待っているからな」
「絆なんてモノは所詮は幻想だ。シロも例外じゃない」
「俺はシロを信じる。第一、これ以上失いようがない程に空虚な世界にいて、何が楽しい?」
「この程度の世界の方が、俺には相応しいのさ。それに、考える時間だけは無限にある」
「『下手の考え休むに似たり』とは当にこの事だな」
「ほっとけ。そうだ、1つ賭けをしないか?」
「何だ?」
「1年たってもシロが俺を忘れてなければそっちの勝ち。もし忘れたら…」
「その賭け、乗った!」
こんな分のいい賭け、乗らない方が馬鹿だ。
「よく1年も待つ気になれたわね。本当は今すぐにでも戻りたいんじゃないの?」
「どっちみち、戻る方法が判らんからな。それに、俺1人だけ戻っても元の木阿弥だろ」
「私も連れて帰る気?」
「と言うより、俺の中に戻ってもらう事になるんだろうな。いや、オリジナルが俺じゃないなら、俺と共にもう1人の俺に吸収されるのか? まぁ、どっちでも同じか。どーせ俺なんだし」
「賭けに敗れる可能性は微塵も考えてないのね」
「当然だ。……あ、そうそう、1つだけ頼みがあるんだが」
「何?」
「……脱いで♪」
「はぁっ?」
「てゆーか脱げ。見せろ。ヤらせろ」
「何でそんな命令に従わなけりゃならないのよっ!」
「いいじゃないか、俺同士なんだから何の問題もない♪」
「大ありよっ! 『俺自身が相手じゃ全く興醒め』じゃなかったのっ!」
「恋愛対象にはなり得ないが、煩悩の対象としては問題ナッシング! ナニしても許されるのだよ〜☆」
『彼女』は俺から逃げようとする。そこをすかさず、
がしっ。
もう1人の俺が羽交い締め♪
「流石は俺だ、息はピッタリだな」
「当然♪ 俺に遠慮する必要がどこにある」
「こらぁ〜っ!! 揉むな! 舐めるな! 指入れるなぁ〜〜〜〜〜っ!!!」
……シロ。
暫く待たせてしまうけど、俺を信じて待っていてくれよ。
俺は必ず戻ってくる。
必ず……
戻って……。
「いやぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん♪」
[平成16年9月25日更新]