たたずんでるだけじゃ何も始まらない。そんなこととうに知っている。
それは、リボーンが愛銃と特殊弾で何度も何度も教えてくれたことだった。なにをしていいかわからなくても、絶対に無理だとわかっていても、とにかくなにかをすれば事態も動く。そうすればできることも増える。目の前にあるすべきことも、ゴールまでの道程も、いつかきちんと見つかるのだ。
だからツナは踵を上げてステップを踏む。たとえそれでほんの僅かしか進めなくとも、あの人に繋がる一歩なのだと思えば、少しも焦りなど浮かんではこなかった。
*
自身が病に冒されていると知り絶望した。涙はどれだけ流しても枯れず、また、何をする気力も涌いてはこなかった。当たり前だ。これまで磨いてきたものも、これから身につけていくものも、何もかもすべて消えてなくなるとわかっていて、今更なにを頑張れるというのだ。
目を開けるとぼやけた天井が見えた。もう何日ここにいるだろうか。あと何日ここにいられるのだろうか。思考はどこまでも後ろ向きだ。
意味もなくため息をついたところで、ドアの外に人の気配があるのに気づいた。
「何か用か?」
マフィア稼業というのは常に命の危険と隣り合わせの職業だ。だが、たとえば今殺されたとして、それはこの先病で死ぬのとどう違う?そんな、半ばやけくそとも言えるような考えから、警戒も何もせずにその人物に呼びかけた。
「用がないなら帰った方がいい。病気がうつる」
「構いません。入っても、いいですか?」
男にしては高く、女にしては低い、か細い声だった。
「ああ」
「失礼します」
いくらやけになっていたとはいえ、さすがに横になったまま客人を迎えられるほど礼節を失ってはいない。幻騎士は上体を起こしてベッドヘッドにもたれるように座り直し、それからドアの方を見て、絶句した。
ふわふわの茶色い髪にきらめく瞳。着ているのはどこにでもありそうなTシャツとジーンズなのに、まるでシルクシャンタンの豪奢なロングドレスでも纏っているかのようにさえ見える。一体どんな幻術だ。
その性別不明の生き物は、幻騎士を見るなり、生クリームか何かのような甘ったるい微笑を浮かべ、ほうっと安堵の息を吐いた。
「よかった。見つかった……」
「は?」
「あ、いや、その、何でもないです。えっと……おたずねしたいんですが、白蘭という男がここに来ませんでしたか?」
幻騎士が首を横に振ると、彼女(どちらかというと女性に近いように見えた)は嬉しそうに、間に合って良かったと呟いた。意味はよく分からない。だが、幻騎士には、そのことよりも先に聞いておきたいことがあった。
「失礼だが、あなたは何者だろうか。知り合いではなかったように思うのだが」
「はい。オレは沢田綱吉といいます」
「……ドン・ボンゴレと同じ名だな」
「あ、えっと、その、ほ、本人です。ごめんなさい」
これ証拠です。そう言って、彼(ドン・ボンゴレは男だ)は、指にはめたボンゴレリングを見せてくれた。ごつくて装飾過多なそれは、真っ白で華奢なその手には正直あまり似合っていない。歴史と伝統と重大な使命を持ったファミリーの一員であってもやすやす会えはしない、マフィア界の「神」と呼んでも過言ではないような人物を前にして幻騎士が考えたのは、そんなどうしようもないようなことだった。
一方ドン・ボンゴレは幻騎士に向かって手を伸ばし、そのふくふくした幼い手で頬を覆って、泣きそうに顔を歪めた。
「あの、幻騎士さん、聞いてください。……オレは就任してからずうっと、医療分野の研究に力を入れてきました。あなたの病気を治すための治療法も確立しているし、薬だって開発済みです。まだ認可はされていませんが、まあその辺はマフィアだからってことで」
「は?」
「オレがあなたの命を助けます。もちろん、その代わりにオレに忠誠を誓えだとか、あなたのファミリーを裏切れだとか、そんなことは言いません。見返りなんて要らないんです。ただ……ただ、治療だけ、受けてくれませんか」
ぎゅうっとせつなく眉を寄せ、大きく澄んだ瞳に涙まで浮かべて、上目遣いで「お願いですから」と繰り返す。この可愛らしいおねだりにぐらつかない男なんていないだろう。もちろん幻騎士も例には漏れず、うますぎる話を疑う暇もなく、気づけば首を縦に振っていた。
「受ける、受けるから、泣くな」
「泣いてません!」
ああ、鏡を見ろと言ってやりたい。
がくんと脱力してしまった幻騎士を尻目に、ドン・ボンゴレはうってかわって満面の笑みを浮かべて、どこかに電話をし始めた。どうやら幻騎士の搬送を命じているらしい。
(もう、どうにでもなれ……もとより失うはずだった命だ)
そうだ、前に進むいい機会ではないか。Passo a passo、たとえ一歩ずつでも少しずつでも、ただここでぐだぐだと死を待つよりも、ずっといい。
眼前が急に拓ける。どうしてか生まれ変われたような気がした。
そうして幻騎士は、もう一度、目の前の「ゴッドファーザー」というよりも「新妻」か「小悪魔」といったほうがしっくりくるような男を見やって、深い深いため息をついた。
彼に忠誠を誓うことも、ファミリーを裏切ることも、たとえ交換条件にされなくたって、さきほどの「おねだり」一発でやってしまうのだろう自分に気づいたからだ。