ツナはいらいらと腕時計を見、もう何度目かわからないため息をついた。
 特急列車はがらがらに空いており、ツナのいるこの車両に他の客はいない。せめてもう二三人でも他の乗客がいれば「ゆったりできてよかったな」くらいに思えるのだが、こうも静まりかえっているとかえって不安になる。気を紛らわせるように携帯など取り出してみたが、することもないため、すぐに投げ出してしまった。
 高めの窓枠にむりやり頬杖をついてそうっと睫毛を伏せる。考えるのはいつだってあのひとのことばかりだ。
 ツナはこれから箱根に行く。二泊三日で幻騎士が宿を取っていて、ツナにも声をかけてくれたのだ。時間的な制限のために学校から直接行くことになってしまうが、もし来られるようなら一緒に過ごさないかと。もちろんすぐに大丈夫ですと返事をした。こんなチャンスを手放せるほど、ツナに余裕はない。
 ミルフィオーレの中でもそうだったように、幻騎士というひとはひとりきりで生きている。雲雀のように他者を拒んでいるのではない。ツナのように拒まれているのでもない。彼は六十億の人間の中で、まるでヒツジの群れに紛れたヤギのように異質なのだ。ツナがどんなに彼のことを好きでも、どんなに強く本当の意味で傍にいたいと願っても、決して相容れることはない。
 その彼が主と認め膝をついた女性が、かつてひとりだけいた。彼女を知る人は皆口をそろえて、強くて、優しくて、確固たる信念をもっていて、そしてなにより美しいひとだったと言う。死んでしまって残念だと言う。
 死者は美化され続ける。もともときれいだった彼女は、死ぬことによってますます美しくなって、幻騎士の唯一の「特別」であり続けるのだ。
 きっと彼の中で、彼女の残した鮮烈な思い出が褪せることはないだろう。失態ひとつで切り捨てられてしまうだろうツナとは違って、おそらく、永遠に。とても羨ましいことに。
(羨ましいよ。本当に……)
 好きで好きで仕方がなくて、いっそ狂ってしまいそうなほどなのに、あの人の中にはすでにもう別の誰かがいるのだ。しかも、それが普通の人間ならまだ望みもあっただろうが、ツナの場合には勝機など万に一つもない。ツナは人よりも劣っていて、競争相手は人よりもはるかに優れているのだから。彼女はすでに死んでしまっていて、逆転勝利など永遠にできないのだから。
 勝ち逃げなんてずるすぎる、ついついそんなことを考えてしまう。たとえ彼女が生きていたってきっと結果は同じだろうに、そのことから目をそらして、自分が勝てないのは彼女が死者だからだと言い訳を続ける──こんなに汚い、嫌な人間は、幻騎士の隣に立つどころか同じ空気を吸うのにすらふさわしくないだろう。わかってはいるのに、止められない。
 胸の奥がじくりと痛む。
 彼女はきっと清廉なひとで、嫉妬も、人前で泣くことも、ひどいことを考えたりも、そしてこんな醜いひきつれた声なんかを出したりもしなかっただろう。幻騎士に心配されて嬉しいだなんて最低なことを、思ったりしなかっただろう。それに比べて己のこのざまはどうだ?
 この感情は恋ではない。そんな生易しい言葉で片付けられるようなものではない。
 今この瞬間にあのひとをひとりきりにしてしまっていることがひどく悲しく、また悔しかった。


 特急は箱根湯本の駅止まりで、宿へ行くにはそこから更にバスに乗り換えなければならなかった。方向音痴ぎみのツナははじめての土地で少しだけ迷ったが、懇切丁寧な案内板のおかげで、どうにか予定していた便に間に合った。ここが観光地でよかった。
 学校から直接来たために、ツナはまだ制服だ。コートも着ていないのでとにかく目立つ。酔っぱらいたちの好奇の視線に耐えながら、明かりも暖房も満足に届かない座席で、ツナは心細さに冷えた指をきゅうっと握りしめた。
 幻騎士がわざわざ郵送してくれた宿のパンフレットには、湯本の駅から最寄りの停留所まで、バスでおよそ四十五分とあったはずだ。しかし、ツナがバスに乗ってからもう一時間が経とうとしている。バスが遅れるものだと知ってはいるが、普段使う機会のないツナには、十五分の遅延というのが普通なのかそうでないのか判断できない。
(オレ、乗り間違いとか、乗り過ごしたりとか、してないよね、大丈夫だよね……)
 乗客たちは停留所に着く度に減っていき、いつの間にか車内はツナと運転手の二人きりになっていた。それがまた不安を煽る。
 一月の夜は寒い、山の中ならなおさらだ。だが「バス停で待っている」と言った以上、きっと幻騎士は、約束の時間をどれだけ過ぎたってツナが着くまでそこで待っているのだろう。そんなのは絶対にいけない。そう思うのだが、ツナ一人が焦ったところでバスが速くなるわけもない。
 結局、目的のバス停に着いたのは、予定より三十分も遅れてのことだった。
 どうやらこのあたりでは雪が降ったらしい。歩道には、夜闇にも眩しいそれが、ツナのふくらはぎほどの高さまで積まれている。雪慣れしていないツナは、まるでペンギンのようによたよたとバスから離れ、あたりを見回した。
「幻騎士さん」
 小さく声に出して呼ぶと、停留所から少し離れた商店の脇の闇がごそりと動いた。
「幻騎士さん!」
「ああ、ボンゴレか、」
「はい、えっと、ごめんなさい、お待たせしちゃって……こんなに寒いのに」
 転びかけながらもどうにか近寄ると、幻騎士はわずかに顔をしかめ、自分のコートを脱いでツナに着せてくれた。彼の長身にあわせて仕立てられたロングコートは当然ツナには長すぎて、へたをすれば引きずってしまいそうだ。しかし幻騎士はそんなことはいいのだと首を振る。
「コートは買えばすむが、おまえはそうではないだろう」
「ぅ、あ、ありがとうございます」
 肌触りのよいコートには体温がはっきりと残っていて、ツナは少しだけ泣きたくなった。
 幻騎士は厚手のセーターを着ていたが、それでも外套なしでは寒いだろう。けれど彼はいつも通り、なんでもない顔をしてみせる。せめて末端だけでもあたためてあげられないだろうか、そう思って繋ごうと伸ばした手は、しかしやさしく振り払われた。
 このひとはいつだってそうだ。肝心なところでツナをかえりみてくれない。それなのに、煮詰まっているのを察して旅行に誘ったり、こうした気遣いを見せたりする。
(わけわかんない。好きじゃないならこんなことしないでほしいよ)
 否、きっと、好かれてはいるのだろう。それが「そういう意味」でないだけで。しかしツナにとっては「そういう意味」でないのなら何にもならないのだ。
 いつだって捨てられる覚悟はできている。でも本当は辛くて辛くて仕方がないのだ。大丈夫と自分をごまかしてきたけれど、うまくいかない日だってある。たとえばそう、今日のように。
(期待なんてさせないで)
 心の内でそうっと呟いて、先を行く幻騎士の後を追った。


 幻騎士がとったのは、古い古い純和風の旅館の離れだった。バス通りから小径を入った先にあるのだが、生い茂った木々のせいで、まるで隠れ宿といった風情が漂っている。
 修学旅行くらいでしか旅館というものに泊まったことのないツナは気後れしたが、先を行く幻騎士がさっさと入ってしまったので、慌てて後を追った。
「わ……」
 本館を通り抜けて外に出たところで、眼前に広がる光景に思わず足を止めた。
 庭の要所に設置された角灯や灯籠のやわらかな明かりが、闇の中にいくつも浮かんでいる。大小さまざまなそれらが緑や雪を照らし、息をのまずにいられないような幻想的な風景をつくりだしているのだ。
 しばらく呆然と立ち尽くしていたが、幻騎士に促され、屋根付きの通路を通って離れへと向かった。離れの入り口は通路より数段高いところにある。石段は雪の名残で湿っていて、ツナは注意深く足をかけた。
「すべらないように気をつけろ」
「だ、大丈夫ですよ!」
 差し出された腕をとることはできなかった。
 幻騎士は明かりも暖房もつけっぱなしにして出たらしく、室内は十分に暖められていて、コートを着たままでは汗ばむほどだった。脱ぎたくはないが仕方がない。名残を惜しんで指先しか出ない長い袖を持ち上げ、すん、と小さく息を吸った。
「コート、ありがとうございました」
「ああ。そこの奥に適当にかけておいてくれ。荷物もそこに置いている」
「え?……あ、ここか」
 入り口から見て本間の左奥に、三畳ほどの小部屋がついていて、そこに旅行かばんが無造作に置かれている。海外からの旅行者のものにしては小さすぎるそれは、あまりに幻騎士らしくて、思わず笑ってしまった。
 幻騎士に倣って自分の通学かばんを下ろし、和服用の衣紋掛けにどうにかコートをかけたところで、ついでに制服も着替えてしまおうと思い立った。せっかく旅行に来たのだ、どうせなら浴衣でくつろぎたい。
 浴衣は二人分きちんと並べて置いてあった。だが、どういうわけか、それぞれ柄も帯も違う。
(浴衣が選べる宿、とか、そんなのかな?それともサイズによって違うとか?)
 ツナはその点についてはあまり深く考えず、小さそうな方を選んで手に取った。白地に藍色で藤が描かれている、一瞬女物かなと疑ってしまうような優美なデザインにごくりと喉が鳴る。こんな高そうな浴衣があったって、どうせまともに着られはしないのに。
「ん、あれ、ええと……わっ」
「どうした?」
「あ、ごめんなさい、帯がうまく結べなくて」
 案の定、ダメツナに浴衣はハードルが高すぎた。惨めすぎてごまかすように笑うと、いつの間にかすぐそばまで来ていた幻騎士は、どうしてか表情を硬くした。
(呆れられた……!)
 理解した途端に指先から力が抜けて、握りしめていた袷も、ぐしゃぐしゃながらようやっと留まっていた裾も、だらしなく広がってしまった。そのせいで肉付きの悪い貧相な体が幻騎士の眼前に晒されている。
 もしツナが女だったら、色仕掛けになっただろうか。抱いてもらえただろうか。体だけでも気に入ってもらえただろうか。そうなったらそうなったできっとまた苦しむのだろうに、そんな馬鹿馬鹿しいことをつい考えてしまう。
 幻騎士の裡には、もっと大人できれいで強い女性がちゃんといるのだ。こんな子供に欲情するだなんてありえない。なのに一体なにを期待しているんだ。馬鹿だ、どうしようもない。所詮自分はダメツナなのだ、どれだけ欲しい欲しいといって手を伸ばしたところで、どうせ届きなどしない。そんなこと、とうにわかっていたことじゃないか。
「……レ、ボンゴレ、大丈夫か?」
「え?」
 ぼんやりそんなことを考えている間に、幻騎士はさっさとツナの浴衣を直し、淡い紫の帯を結んでくれていた。なんだか情けなくなってしまって、今度こそ涙がにじんだ。
 幻騎士はまだセーターを着たままで、暖房の効いた部屋の中ではきっと暑いだろうに、着替えるそぶりもない。足音も立てずに窓際の板の間に置かれた椅子に戻って、窓の方を向き、できるだけこちらに意識を向けないようにしている。
 そんなに嫌ならどうして誘ったりしたんだ。みっともなく泣きながら詰問してしまいそうな自分を、拳を強く握りしめることでどうにかおさえこむ。幻騎士から表情を隠すために、意味もなくかばんを整理したり、備え付けの新聞を見たりした。当然少しも頭になんか入らなかった。
 程なくして仲居たちが夕食を運んできてくれたが、俯いたまま会話もなく食べたのでは、味などすこしもしなかった。勿体ないだなんて考える余裕もなかった。