彼は不思議な犬だった。
 初めてあったのはツナがまだ幼児だった頃で、そのときツナは、近所のチワワにのし掛かられて大泣きしていた。チワワはもっとも小さな愛玩犬だ。気性は活発でありたいへん勇敢、忠義心ゆえに飼い主を守ろうと奮闘するものもいるが、小柄すぎてあまり警護能力はない、そんな犬だ。それでも、小さなツナには、まるでゴジラかなにかのように見えていた。
 そこへやってきたのが彼だ。ウゥと唸るチワワを鬱陶しそうに一別した彼は、たったひと吠えで、ツナの天敵、小さな怪物を追い払ってしまったのだ。
 呆然としながらも体を起こすと、そこには一頭の大型犬がいた。細いが骨格のしっかりとした、しなやかな体つき。被毛は短く黒い。野犬なのか薄汚れてはいるが、それでも威厳と気品は損なわれていない。幼子の、しかも涙でかすんでいる目でも、ただの犬ではないとすぐにわかった。
「あ、」
 ツナは奈々の教えを思い出した。誰かに助けてもらったら、ちゃんとお礼を言わなきゃダメよ。それから、今度その人が困っていたら、つっくんが助けてあげましょうね。
「わんちゃん、ありがとう!」
 それからポケットをごそごそやって、きらきら光る包み紙を取り出した。中身はチョコレートだ。チワワと戦っておなかが減ったのではないかと思ったのだ。
 しかし彼は、数度頭を振ると、ツナの手の中の包みを、鼻先で器用にポケットに戻してしまった。
「いらないの?」
 犬はチョコレートを食べてはいけない。そしてチョコレートは、たいていの子供の好物だ。彼がそんなことを知っていたかは知らないけれど、それはまるで、自分には食べられないものだからおまえが食べろと言われたようだった。ツナは破顔して、それならばと、その精悍な顔にお礼のキスをひとつ落とした。少しだけ、彼の纏う空気が柔らかくなった気がした。
 ふらりとあらわれた彼はふらりと去っていった。こうして、ツナと彼のファーストコンタクトは終わったのである。


 彼との二度目の邂逅は、ディーノたちとの修行で、巨大化したエンツィオから逃げる途中だった。
 皆が全力で走っている中、どんくさいツナは、ひとり置いて行かれてしまったのだ。幸いエンツィオは集団の方を追って行ってしまったので、ツナが踏みつぶされることはなかった。
 とりあえず目先の危機は回避できたものの、遭難しているという現実に変わりはない。いや、皆とはぐれてしまった分、より状況は悪化しているとも言える。
「あーもー……リボーンのばかやろー……」
 ぼやいた声は、響きもせず、木々に吸い込まれて消えてしまった。
 装備は何もない。食料も道具も。ついでに、着ている服さえ自前のものではないのだ。素肌に擦れるジャージの感触が痛くて痛くて、なんだか泣きそうになってしまった。
(……ん?)
 ボンゴレの血だとか超直感だとか、名称はこのときはまだ知らなかったが、それでもそれはすでにツナの中にあった。なんだか猛烈に嫌な予感がしたのだ。
 ゆっくりとあたりを見回す。目につくところに変化はない。ないが、視覚以外の感覚は、異変を確実に伝えていた。
 空気がぴりぴりと張り詰めている。なにかのうなり声が聞こえる。そして、とどめに、なんだか獣くさい。まさか熊かと身構えるツナの前に姿をあらわしたのは、数頭の、
(い……犬!?うそー!?)
 野犬だ。大型犬から小型犬まで、体格こそまちまちだが、みな一様に薄汚れ、その目はもう人など信じるものかと訴えている。飼い主に捨てられ辛酸をなめた犬たちなのだ。恐ろしいのと同じくらい、悲しかった。
 だが、だからといって、黙って襲われてやるわけにもいかない。ツナだってまだ死にたくはない。リボーンがいないから死ぬ気にはなれないけれど、せめて抵抗くらいはしてやろう。前向きなのか後ろ向きなのかわからない覚悟を決めて、ごくりと喉を鳴らし、くるだろう攻撃に備えた。けれどいくら覚悟を決めても恐ろしいものは恐ろしいから、目だけはかたく瞑っておいた。
 噛まれるのか、引っかかれるのか。身を固くするツナを前に、しかし犬たちは、尻込みしているようだった。
「……え?」
 ツナに手を出せば後々が恐ろしい、しかしツナをあきらめるのも惜しい。人であればさぞ忌々しい顔をしているのだろう。薄目を開けて確認すると、野犬たちは唸りながらじりじりと後退しているようにさえ見える。
「な、んで?」
 疑問はすぐに解決した。ツナの脚に寄りそる熱。ぬくいそれを見下ろすと、そこには真っ黒い犬がいた。その体高はツナの腰ほどまである。体格と、凜とした眼差しから、幼い日に自分を救ってくれた彼なのだと、ツナにはすぐにわかった。
 彼が一声ウォウと吠えただけで、いつかのチワワのように、野犬たちはしっぽを巻いて逃げ出した。情けない悲鳴が木々の奥から聞こえてくる。あんなに恐ろしかった存在が、今では少しばかり哀れにすら思えた。
「ありがとう」
 目線の高さを合わせて礼を言うと、彼は、いいのだと言うようにツナの頬を舐めた。生暖かいが不快ではなかった。
 せめてもの恩返しになればと、近くの小川でジャージを濡らして、毛並みの汚れを落としてやった。彼は気持ちの良さそうな顔をして、ぱたぱたとしっぽを振った。かわいい。かっこいいのに、かわいい。ツナはすっかり彼に夢中になっていた。
 しゃがみ込んで、座った彼の毛並みをそうっと撫でる。すっかりきれいになった被毛はつややかで漆黒。癖毛で色素の薄いツナにはまさにあこがれそのものだ。抱きつくと温かく、鼓動が肌越しに伝わってくる。
「おまえ、本当にきれいな犬だなあ」
 褒めると、彼はまたツナを舐めた。くすぐったいよとツナは笑う。
 のし掛かられたらきっと重かっただろうが、彼はそんなことはしなかった。わかっているというようにきちんと地面にお座りをして、ツナにもたれたり、ぐりぐりと鼻先を押しつけたりするだけ。その気遣いがツナには嬉しかった。
 しばらくそうやってじゃれあった後で、彼は、ついてこいというように歩き出した。
「ん?どこ行くんだ?」
 あわてて後を追う。
 小川を渡り、茂みを抜け、道なき道を進んでフェンスの破れ目を抜けると、そこには懐かしくすら感じる並盛の風景が広がっていた。彼はツナが迷子であることまでも見抜いていたのだ。


 彼はそれからも、あの山の近辺でツナが困っていると、ふらりとやってきては助けてくれた。
 リング戦に備えて修行をしているときも。未来に飛ばされる直前、リボーンやランボを探し回っているときも。その存在にツナはひどく救われ、また、彼もまんざらでもないといった様子でしっぽを振って甘えてきた。
 犬の寿命はそう長くない。ひとの庇護下で健康管理をされていないのならなおさらだ。だから、幼い日にあったあの犬と、十四のツナを助けてくれた彼が、同じ犬であるわけがない。けれど、そう、彼ならば、どんなありえないことでもひょいとやってのけてしまうような気がした。そんな神秘性を持った犬だった。
 彼は一体なにものなのだろう。その疑問は、ずっとツナの中にくすぶり続けた。
 たとえば犬種だ。記憶を元に調べてみても、まったく該当するものがない。シルエットはハウンドのサルーキに似ていたが、体格はもう少し大きく、耳はぴんと立っていて、被毛は短く黒かった。ツナと彼が出会ったあたりは野犬が多い。その野犬同士が自然交配して生まれた雑種ということも考えられる。そうするともうツナにはお手上げだった。
 また、大学で勉強していて、どきりとしたこともあった。記号論だとかポストモダンだとか、そんなことに関する講義を受けたときのことだ。
 ツナが好きなのは、あこがれているのは、「黒くて、大きくて、あの山にすむ、ツナを助けてくれる、大型の野犬」なのではないだろうか、ということだ。それは必ずしも彼自身ではなくともかまわない。色が、ねぐらが、行動が、体格が似てさえいれば、それはツナの中ですべて「彼」に変換されてしまうからだ。そして、それならば、彼の寿命の問題にすら説明がついてしまう。
 結局その晩、ツナは泣き明かした。自分がひどく愚かでエゴイズムに満ちたいきものに感じたのだ。
 けれどそれでも、渡伊してマフィアのボスになってからも、ミルフィオーレとのごたごたが片付いてからも、そして恋人ができてからも、ツナは彼を慕い続けた。
 できればまた会いたいと願っていたが、彼はもう生きてはいないだろうとも思っていたし、それを確認してしまうのはたまらなく恐ろしかった。だから結局あの山には近づけないままだったし、彼を飼い犬にしようとも思わなかった。
 代わりにできたことといえば、そうたいしたことはない。あの山一体を買い上げて、犬たちが十分な食料が得られるように植樹や木々の手入れをする。野犬が人に害を与えないよう、頑丈なフェンスを巡らせる。これで野犬たちは人里へ降りてこない、人と犬の間のトラブルは起こらない。裏社会で絶対的な権力を持ったって、一生かかったって使い切れないほどの金を得たって、できることなどたったそれだけしかなかったのだ。
 ツナの行動を嗤う者も当然いた。その名の通り、まさしく犬公方だと。でも、そんなことはどうでもよかった。
 本当に、どうでもよかったのだ。


 秋になって、恋人とともにツナは日本へと戻ってきていた。両親を説得するためだ。恋人とのことを認めてほしいということ、子供をあきらめてほしいということ。家光と奈々にそれらを乞うと、彼らは少しだけ寂しい顔をしたけれど、おまえが本当にしたいと思ったのならそうしなさい、と言ってくれた。
 滞在予定は三日間。初日に大仕事を終えてしまったツナと幻騎士は、暇を持てあまし、とうとう奈々からおつかいを頼まれてしまった。特にすることもなかったので、ふたりは快く引き受けた。
 手をつないで、色とりどりの落ち葉を踏みしめて歩く。そういえば、彼と再会を果たしたのもこんな季節だったなと思い出した。最初に出会ったのはいつだったか。冬のような気もするし、春だったかもしれない。
 そんなことをつらつら考えていたが、恋人と一緒にいるのにこれはあんまり失礼だと、ツナは視線をあげた。視界に、三車線の広々とした車道と、その中程にうずくまる塊が飛び込んでくる。
「……あれ」
「どうかしたか」
「あ、ええと、……ごめんなさい、ちょっと待ってて!」
 まさか、まさか、いやこんな偶然などあるわけがない。鼓動がどくどくうるさい。幸い信号は青で、ツナはすぐにその塊までたどり着くことができた。
 彼だ。間違いない。体格も毛づやも纏う空気も何もかもが、象徴化されただけの犬なんかではない、まさに彼本人だと主張している。ただ、彼を抱き上げた腕に感じたその体重だけが、信じられないくらいに軽かった。
「お待たせしました。やっぱり、昔何度もオレのことを助けてくれた犬です」
「犬か。いや……」
「何ですか?」
 だが幻騎士は、そっと彼の背に触れただけで、それ以上何も言わなかった。ただ、ツナの分まで買い物袋を持ち、そっと歩調を早めてくれた。
 一方ツナは半ばパニック状態だった。いつもしゃんと背筋を伸ばして、凜とした空気を纏っていた彼。その彼が、今やぐったりと体を丸めているのだ。何かがあったことは間違いない、だが、一体何があったというのだろう。思考は空回りするばかりで、四肢と脳の伝達回路もまるで切れてしまったようだ。隣の幻騎士が歩いているから、それにつられるようにかろうじて足だけは動いているけれど、それがなければきっと何もできなかっただろう。
 沢田家の門扉をくぐり、ただいまの挨拶もそこそこに、ふたりはリビングへとなだれ込んだ。下着姿でくつろいでいた家光が目を丸くしている。
「な、おまえら、そいつ、どうしたんだ……」
 だがツナはそれどころではない。恩人である彼があきらかな異常を来しているのだ。病院に連れて行けばいいのか、だが獣医師になんと説明すればいいのか。ぐるぐるぐるぐる考え込んでしまって、何ひとつ行動に移せない。
 結局、半泣きのツナより先に動いたのは、彼本人だった。
「イタッ」
 それはあまりに唐突で、ツナは、噛まれたのだと気がつかなかった。だが神経は正常だったようだ。痛みとともに、ぱっと彼を抱きしめていた手を離す。
 彼はツナの膝を飛び降り、わずかに空いていたガラス戸をすり抜けて庭に出、そしてふるりと身を震わせた。
 唖然とするツナたちの前で、毛並みのつやは失せ、肉は落ち、骨は細くなって、皮はたるんで、被毛は抜け落ちて──まるで無理矢理止めていた時間が元に戻ろうとするように、あるいはたちの悪い早送り映像を見ているかのように、彼はあっというまに年老いていって、
「な、うそ、うそだ、」
 そして、ふたたびぐったりとその場にうずくまった。その姿は、彼とは思えぬほどに小さくなっていた。
 ツナは裸足のまま、彼の後を追って庭へと降りた。
「何、なにこれ、なんでこんな……」
 ぶつぶつ呟きながら、ふたたび彼をだきしめる。彼はもう抵抗しなかった。いや、できなかったのだろう。垂れたまぶたからのぞく瞳にもはや光はない。呼吸は浅く不規則で、今にも途切れてしまいそうだ。よぼよぼのおじいちゃん、そんな表現がぴったりと当てはまる。
 ツナの後を追って出てきた幻騎士が言った。
「寿命も力も尽きて、なお、おまえが来るのを待っていたのだろうな」
「え」
「これは誰かの作り出した幻だ。強い力を持った術師だったのだろうが……おそらくとうに死んでいる。主人から与えられた力を使い果たし、新たに供給されることもないまま、ただおまえを待っていたのだろう。気づいてもらえるよう、どうにか昔の姿を保ったままで」
 そしてツナと再会を果たしたことで、その反動が一気にきたのだ。淡々とした幻騎士の説明を聞きながら、気づけばツナは自分の手に目をやっていた。ついさっき噛まれたはずのそこには、かすり傷ひとつない。彼はもう、現実世界に干渉するだけの力を残していないのだ。
 彼は、その犬は、ぼろぼろと崩壊するように死んでいく。皮と肉、内臓、そして最後に骨。尻尾が消え去る瞬間、ゆるりと一往復それが振られたのを、ツナは確かに見た。
 すべてが終わってしまった時にはもう、そこにはもう骨のひとかけすら、毛の一本すら残っていなかった。彼がいた証は、今となっては、世界中のどこにもないのだ。ただひとつ、ツナの記憶の中をのぞいては。
「う、うわぁあああぁあ、っく、うぅ」
 忘れないこと、彼の死を悼んで泣くこと。ツナにができる恩返しは今やもうそれだけだ。
 まるで子供のように声を上げて泣くツナの背を、幻騎士の大きな手がそっと撫でた。


 沢田家の庭の片隅にはキンモクセイが咲いている。この土地を購入したときにはすでにそこに在って、家光たちが家を建てるときに、わざわざ望んで残しだのだという。
 ツナはその根本にちいさな塚を作った。遺骨も遺髪もないが、土中にきれいな箱を埋め、その上に更に土を盛ったのだ。幻騎士も、その白い手を爪の間まで汚して手伝ってくれた。
 箱は紙製だからいつか土に還るだろうけれど、それでもいい。そのほうがよっぽど、痕跡ひとつ残さずに逝った彼らしいと思うのだ。
 もっと早く会いに来ていれば、そう自分を責めるツナに、幻騎士は、珍しく微笑を浮かべながら、これまた珍しい長台詞でツナを慰めた。
「役目を果たし、主に先立たれた時点で、消えるはずだった存在だ。それが、思いがけず長生きをして、更におまえという存在まで得た。おまえの記憶に鮮烈に灼き付くことができた。あれも満足だっただろう……少なくとも、俺があれなら、そう思う」
 家光も、よくわからないながら、落ち込むツナに言う。
「いや、もう本当に何が何だかよくわからないんだけどな、あの犬、ずっとしっぽ振ってたんだよ。おまえが連れてきたときから消えるときまで、こう、ゆーっくりとだけどな。よっぽど嬉しかったんだろうな。最期におまえに会えて、看取ってもらえて」
 ツナはゆっくりと立ち直った。ふたりの言葉をもらって、さんざん大切にしてもらって、これでまだうじうじしているようならば、天国の彼にあわせる顔がない。
 そんなツナを支えながらも、幻騎士は少しだけ複雑なようだった。ツナにこれだけ影響を与えた存在が、自分でも、自分の作り出した幻でもなかったから。でも、ツナは思うのだ。
「あれが幻騎士さんだったり、幻騎士さんのつくった幻覚だったりしたら、オレ、今頃、おかしくなっちゃってます。あの犬が幻騎士さんと関係なかったからこそ、こうしてダメージが半分で済んだんですよ」
 うつむいて言うツナの髪をくしゃくしゃにして、幻騎士は表情を消した。嬉しすぎて、どういう顔をすればいいのかわからなくなってしまったのだ。
「そうか」
「そうですよ」
 そして今日もまた、ふたり身を寄せ合って、塚に手を合わせる。
(オレ、もっとちゃんとやるよ。おまえが安心して眠れるぐらい。でも、だから、もうちょっとだけ天国で見守っててください)
(おまえができなかった分まで俺が綱吉を護ろう。だから、どうか安らかに)
 しゃがみ込んだふたりの足下を風が抜ける。それはまるで、賢く美しい毛並みの彼が駆け抜けていったかのようだった。