「帰れ」
「いやです」
 剣の手入れをする手を止め、ツナを見やって幻騎士は僅かに眉根を寄せた。だがツナにも引けない理由がある。
 あと三十分ほどで未来が変わる。この人はいなくなってしまう。告白はしないで行こうと決めていたが、だからこそ思い出だけはどうしてもほしかった。後ろ手でドアを閉めて、涙を堪えるように目に力を込めた。
「あなたと話がしたいんです」
「俺には話すことなど、」
「オレにはあります」
「斬られてもか」
「はい」
 ツナの決意を見て取ったのだろう、幻騎士は音を立て剣を鞘に収め、視線でベッドの縁──自分の隣を示した。生活感のない部屋には椅子の一つもないから、代わりにそこを使えということだ。こくりと喉を鳴らしてツナは足を進めた。
 掌はうっすら湿っているし、頭は真っ白、声はきっと枯れている。好きな相手と狭い密室に二人きりなのだから当然だ。緊張のあまり黙り込んでしまったツナを見かねたのか、どこから見ても寡黙そうな幻騎士が先に口を開いた。
「一体何の用だ?」
「え゛、ぅあ゛っ」
「……水だ。飲みかけで悪いが、ないよりはましだろう」
 言いながら彼はミネラルウォーターのボトルを渡し、労るように髪や背中まで撫でてくれた。
 この世界は消えてしまう。この人はいなくなってしまう。だからここでますます好きになったってどうしようもないのに、一挙一動にいちいち反応してしまう。やっぱり好きだ、改めて認識してしまうともうダメだった。
 ささやかな努力はあっという間にむだになって、ぼろぼろ涙がこぼれ落ちる。弱くてみっともない、ダメツナの姿なんて見せたくないから、せめてもと俯いた。だがそんなツナの決意を知ってか知らずか、幻騎士はツナのおとがいに手を添え、そっと自分の方を向かせてしまう。
「ボンゴレ」
「な、なんですか」
「さっきはすまなかった」
「はい?」
「帰れなどと言って悪かった。もう少し、少しでいい、ここにいてくれ」
 口調はいつもと変わりなかったが、ツナの肩に額を当て、薄い体を抱き込むように腕を回す様は、必死で寂しそうで、まるで縋るようだ。
(ああ……この人は、これから自分がどうなるか、わかってるんだ)
 どんなに強くても、頭が良くても、固い信念を持っていても、やっぱり消えてしまうのは怖いのだ。そう思うと目の前の男が妙に可愛くなってしまって、ばれないように笑いながらそうっと彼の耳に唇を寄せた。
 つい先ほど墓まで持って行こうと決めたばかりの気持ちを、どうしてか今なら言ってもいい気がした。
「オレ、あなたのことが好きでした。ほんとうです。あなたはきっと消えちゃうけれど」
「過去形か」
 ツナの言葉に幻騎士は顔を上げた。相変わらず表情は乏しいが、これはきっと悲しい顔なのだなと何となくわかった。慌てて訂正する。
「いや、あ、その今でも好きです。もちろん」
「……ならばボンゴレ、頼む、頼むから、諦めないでくれ」
「え」
「過去でも現在でも俺は俺だ。会えばきっとお前を好きになる。それに、お前が十年待ってくれれば、今のこの俺になる」
 だから過去の世界で俺を探し出してくれ、諦めないでくれと、幻騎士は呻くように繰り返す。
 何か言わなければと思うのに、ツナの喉元には重苦しいなにかが詰まったようになって、結局黙り込んでしまった。代わりに、一度は落ち着いたはずの涙がまたあふれ出した。
 静まりかえった部屋に、嗚咽と洟を啜る音だけが響く。貴重な時間を無駄にしているのは解っているが、とんとんと優しく背を叩いてくれる手を諦めることもまたできない。
「っ、き、です」
「どうした?」
「好きです。ほんとに、好きなんです。離れたくなんかないです……ちがう、二度と会えなくなったっていいから、消えてほしくないんです!十年待てばって言ったけど、それって今のあなたが頑張ってきた十年が無駄になるって事じゃないですか!そんなのは絶対ダメですよ!大事なもの裏切って、皆に冷たいこと言われてまで頑張ってきたのに」
 幻騎士はぴたりと手を止め、ツナの顔を見つめたあと、奔放に跳ねる髪をぐしゃりと撫でた。もしかしてこれは驚いているのだろうかとツナはぼんやり思った。
「俺の十年を惜しいと言ってくれるのなら」
 ツナを抱く腕に力がこもる。
「それが無駄でなかったと思えるように、俺にひとつ餞別をくれないか」
「せんべつ?」
「そうだ。『ボンゴレ』ではなく、本当の名前でお前を呼びたい。教えてくれないだろうか」
 本当はそんなものとうに知っているくせに。基地内で守護者達やリボーンが呼んでいたのを何度も聞いているくせに。だが幻騎士は、どうしてもツナ自身の口からそれを聞きたいのだと、教えてくれと繰り返す。
 なんだか恥ずかしくなってしまって、ツナは何もない壁に視線をやりながら、ぼそぼそと名乗った。
「沢田綱吉、です。沢田が名字で、綱吉が名前。みんなはツナって呼びますけど」
「……さわだ、つなよし、か」
「はい」
「良い名前だ」
 教えてくれてありがとう、幻騎士は丁寧に礼を言い、ツナの頭に載せたままの手をゆっくり動かした。父親やディーノよりも丁寧で、幼い頃奈々がしてくれたよりは幾分乱暴な手つきに、ツナは目を細める。
「オレにはあなたの名前、教えてくれないんですか?」
「そうだな。十年前の俺に聞いてくれ」
「ズルいですよ」
「拗ねるな。あんまり何でも俺がやってしまうと、今度は昔の俺が可哀想だろう」
 幻騎士は顔を上げて微かに笑った。ツナは目を見張る。
 ほんの少し目を細めて口の端を上げただけだから、ツナが彼に好意を寄せていなければ、きっと解らなかっただろう。そんなささやかな表情の変化に気づけた己が誇らしい。
 そして同時に、この人を裏切り者にしてしまいたくないと思った──ボンゴレの基地まで礼を言いに来たユニと彼女のファミリーたちの中に、幻騎士の姿はなかった。当然だ、マフィアは決して裏切りを許さない。
 ただ、ユニとファミリーを守りたかっただけなのに。ボンゴレのように死者を出したくなかっただけなのに。彼がああしなければユニたちは皆殺しにされていたはずだ。だが彼は決してそのことを誰にも言うことなく、逆賊の汚名を着たまま消えていく。
(そんな悲しいこと、二度とさせませんから)
 決意を新たにツナはゆっくりと幻騎士の腕から抜け出した。リミットだとリボーンに念を押された時間が十五分後に迫っていた。
「幻騎士さん、ありがとうございました」
「ああ。元気でいろ。……餞別にこれをやろう。危なくなったら迷わず使え」
 ツナの礼に幻騎士は頷いて、霧の匣と指輪を取り出してツナの手に載せてくれた。使える気はしなかったが、気遣いと、彼がいたという物証が手元に残るのは純粋に嬉しい。きっといつもずっと持ち歩き、たまに開けて、一日と空けずに眺めやるのだろう。
「ありがとうございます」
 最後にぺこりと頭を下げ、思いを断ち切るようにツナは駆けだした。リノリウムの床にスニーカーの擦れる音が響く。枯れたとばかり思っていた涙はちっともそうではなくて、頬どころかパーカーの襟ぐりまでが濡れていく。
 甘くなどない、苦いばかりの関係だった。出会ったときには既に敵同士だったし、別れまでの時間が短すぎた。なにより二度と会うこともできない。それでも、まるでボーナストラックのように、最後にほんのちょっとだけ良い思いができた。
 きっとこの先何があったって、この思い出を抱えて頑張っていけるはずだ。もらった餞別をその角が食い込むほどに握りしめ、己の部屋へと駆け込んだ。寝慣れたあのパイプベッドがひどく恋しかった。