* ユニがファミリーを連れて合流しているパラレル


 


 部屋の外から、きゅ、きゅ、という、間の抜けた足音が聞こえてくる。スニーカーのゴム底が床と擦れる音だ。幻騎士たちがボンゴレに合流したその晩から、一日たりとも欠かすことなくこの部屋の前を通り過ぎるそれは、ボンゴレ十世の名と業を背負ったあの子供の、精一杯の苦しみのあらわれだ。
 いつ襲撃を受けるかという恐怖、いてはいけない世界にいるという不安、スパナやユニといった新しい知己たちといつか別れなければならない寂しさ、友人たちをいまだ危険な状況から脱出させてやれないもどかしさ、輝かしい未来を持っていたはずのものたちを裏社会に引きずり込んだという罪悪感、六道骸をいまだ水牢から救い出せていない焦り──そしてなにより、己の寿命があと十年を切ってしまっていることに対する絶望。ツナが未来を知って得たのは圧倒的に負の感情ばかりだった。吐き出す先のないそれらは、彼の小さな体の中に積もり積もって、やがてうつくしい涙の雫となってしっとりとやわらかな頬をすべりおちる。
 せめて、せめて自分たちがもう少しあらがっていれば、あの子供を泣かせることなどなかったはずなのにと、悔やまずにはいられない。
 確かにジッリョネロファミリーは、伝統や課せられた使命に対してあまりに脆弱だった。マーレリングとボンゴレリングは同格だが、ファミリー同士までもがそうであったわけではない。事実、白蘭は、マーレリングを手に入れるためにボンゴレリングを必要とはしなかった。それほどまでに侮られていた。
 だが、ジッリョネロがどんなに小さく弱いファミリーだったとはいえ、それでもできることはゼロではなかったはずだ。なすべきことがあったはずだ。家族のためにも、主と仰いだ彼女のためにもできることなどなかったが、それでは、今ここでこうして泣く子供のためにはどうだ?
 大勢の運命を背負わされたか細い子供は、いつも、この先の寒い寒い通路のすみに座り込んで嗚咽を殺して泣き、それからシャワーを浴びて、何でもない顔で仲間たちの元へと戻る。幻騎士には、誰も彼に近づかないように幻を張り巡らすことくらいしかできない。あと一年早ければ、いやせめて半年あれば、もっともっと彼のためにしてやれることがたくさんあったはずなのに。
 後悔はいつだって後からするものなのだ、そんな警句が今更ながらに突き刺さる。


 自室のドア脇の壁に寄りかかって術を行使していた幻騎士は、ふと感じた不快感に目を開けた。
 現在このブロックには、幻騎士と直属の部下、それに元ブラックスペルのうち白蘭に近い場所にいた十数名がいるだけのはずだ。だが、それにしては、妙に人の気配が多い。しかもその大半が、気配を殺そうとしているようですらある。
 もともとこの区画は、基地内の居住区のうちでも比較的外部から侵入しやすい場所で、危険性の割に重要度は低く、元裏切り者や不穏分子たちにあてがわれている。いつミルフィオーレに寝返るとも知れない者たちに、有事の際に、命をかけて忠誠を示せと言っているわけだ。幻騎士だって、ツナの慈悲によりここにこうしていることが許されているが、ボンゴレファミリーから信頼を得られているわけではない。幻騎士が毎日毎日術でツナへの途を塞いでしまうのは、半分こそ庇護欲や独占欲からだが、もう半分は、彼の身の安全を確保するためでもあるのだ。
 時間は夜の十時をわずかに過ぎたところだった。ツナはまだあの場所にいるのだろう。ボンゴレファミリーの利用している区画へは、幻騎士のこの部屋の前を通る以外のルートはなく、そしてツナはまだ戻ってきていないのだから。
 リボーンからあらかじめ指示されていたとおり、備え付けの通信機を使って、侵入者の疑いを伝える緊急信号を発信する。これでたとえ幻騎士がへまをやらかしても、あとはボンゴレファミリーの面々がどうにでもするだろう。ファミリーという集団に属する者として最低限やるべきことはこれで済んだ。
(義理は果たした)
 あとは忠誠を、彼に。緩めたシャツの襟元を正すこともなく、羽織っただけの上着に袖を通すこともなく、それどころか読みかけの本まで抱えたまま。ロックを解錠するひと手間すらももどかしく、ドアをほとんど蹴破るようにして自室を飛び出した。


 *


 泣いちゃダメだ、不安になるのもダメだ。だってみんなオレのせいでこんなところにいるんだから。
 ここにきてから何度も何度も繰り返し、自分に言い聞かせてきたことだ。どうしようもなく苦しくなるたび、帰りたいと叫びたくなるたびにそう唱えて頑張ってきた。けれどもやっぱりだめだった。
 誰も見ていなければなかったことになる。誰もいないところで、誰にも気づかれないのならば、思う存分感情を吐き出せるのだということを、ツナは知ってしまった。そして味を占めた。きっかけなどもう覚えていない。ただ、広大なこの地下基地の隅っこで、蹲って、声を殺して、涙と弱音と未来の自分への恨み言を思う存分こぼして。そして、何食わぬ顔で部屋へと戻るのが、すっかり習慣となってしまった。今日もそうだ。
「っ、ぅ……」
 食事後はみんなそれぞれバラバラにしたいことをしてすごす。だからきっと、ツナがいないことに気づいても、どこかで自主トレーニングでもしているのだろうくらいにしか考えないだろう。何ともありがたいことに。
「も、やだ、帰りたい……こんな、の、やだ、嫌だよ……」
 二十四歳のツナは死んでいた。ローティーンの頃の、まだ何の力もないツナによくしてくれた人たちまで道連れにして。後で生き返れるのだから死んでも構わないではないか、だなんて、今のツナには絶対に思えない。ボンゴレのトップであった大人のツナが、肩書きだけではなく、根っこまで「本物の」マフィアになってしまったのだと実感してしまい、未来が本当に恐ろしくなった。
 だが、そう考えた後だと、自分自身も死んでいることが、少しだけツナの気を軽くする。死の瞬間の恐怖だなんておそろしいものを、他人だけに押しつけずに済んだからだ。そして、たったそれだけで救われたような気持ちになるあさましい自分に、また絶望するのだ。
 冷たい廊下に三角座りをして、額を膝にくっつけて、パーカーの袖を口に当てて声を殺して。ボンゴレもミルフィオーレも、リングや匣のことも、アルコバレーノの呪いも、修行も、襲撃があるかもしれないということもみんなみんな忘れて、自分が十四歳の男であることもどこかに放り投げて。まるでちいさな子供に戻ったかのように、ツナはただただ泣き続けた。袖が重くなるほど濡れても、喉がひりついて嗚咽すら枯れ果ててもなお、涙が止まることはなかった。


 *


 ツナがいつもどこで泣いているのか、幻騎士はちゃんと知っていた。ほとんど全速力に近いスピードのまま減速することなく角を曲がり、無人の部屋は近道とばかりに通り抜けた。物置部屋の壁は蹴破るか、剣を使ってぶち抜いた。
 今現在、この区画は、あるはずのないところに壁があり、ふりむけばつい数瞬前まであったはずの壁がなくなっているという、まるで仕掛け迷路のような状態になっている。だが、それも、そうしている本人には少しも障害になどならない。ただ一秒でも早く早くと床を蹴り続けた。
 そんな状態だったものだから、ただでさえ端の方にある区画の更に隅、行き止まりの暗がりで、小さく身を丸めて泣くツナを見つけたときには、安堵に座り込んでしまいそうなほどだった。
「ボンゴレ」
 呼ぶとツナはゆっくりと顔を上げ、壁に手を突いて立ち上がった。泣きはらした瞼は痛々しいが、襲われた様子はない。ああ間に合ったのだ、そう実感すると、今度は焦りがこみ上げてきた。早く、早く、ここを離れ、仲間の元へ送り届けなければ。危機は直ぐそこまで迫っているのだから。
 まずは事情を説明するところからか。そう考え、ツナのいる暗がりに向かって一歩を踏み出した。
 その時だった。
「な……うわ!」
 ツナの声に反応したのは、頭ではなく体だった。持ったままだった本を捨て、上着が落ちるのも構わず、一足飛びにツナとの距離をつめて、その小さな体を壁との間に隠すように立つ。コツ、とブーツの底が床に着くのとほとんど同時に、幻騎士の右腿に大ぶりのナイフが突き刺さった。錘を入れて威力を底上げしたナイフを投げられたのだと、すぐに見当がついた。
「て、敵!?」
「ああ。ボンゴレ、そこにいろ。すぐに片を付ける」
「え、でも、怪我が……」
「大事ない」
 言いながら刺さっていたナイフを引き抜き、握り直して、一息に襲撃者の懐にとびこんだ。
 別に何を意識したわけでもない。戦闘時にいつもしているのと同じように、自然な動作で移動しただけだ。無理というなら先ほどツナを庇ったときの方がよほど無理な動きだった。
 だが、侵入者の男にとっては、それは極限まで達した緊張と焦りをふつりと切ってしまうだけの力があったようだ。まるで気圧されたように少しだけのけぞって、新しいナイフを抜き、近寄るなとばかりにがむしゃらに振り回す。
「う、わあああああああああ!!!」
 良いのはどうやら武器だけらしい。訓練も何も受けていない、素人まるだしの攻撃だ。多少やりにくくはあるが、それでも、その刃先をかいくぐって相手を気絶させるのなど、幻騎士にはたやすい──はずだった。
「ち、くしょ、」
 苦し紛れに突き出されたナイフを避けようと、傷を負った足で一歩下がったときだった。ずるり、嫌な感覚と同時に体が傾く。血だまりに足が滑ったのだ。体勢を立て直そうにも、思ったよりも傷が深かったようで、力が入らない。
「幻騎士さん!」
 ツナの悲鳴がひびく。
 殺すのならばもっと簡単にできた。最初から幻騎士がその気だったならば、この男が二本目のナイフを抜く前に、簡単にとどめを刺せていただろう。
 それでもそうしなかったのはツナがいたからだった。綺麗で純粋で、マフィアというどす黒い血溜まりにまだ小指のさきすらも浸けていないような子供。その彼に、人の死ぬところを見せたくなかった。そしてそのためになら、たとえどんな傷を負うことになっても、病が再発してふたたび絶望の淵に立つことになろうとも、構わないと思ってしまった。
 だが、あんな、悲痛な声を聞いてしまうと、そんな決意は簡単に揺らいでしまう。怪我をしたのは幻騎士なのに、まるで自分自身が痛いかのような悲鳴。すまないと苦々しく思う。
 かつてあれほどまでにあった生への執着は、とうにあの小さな子供への執着へと変わっている。しかし、それなのに、実際には悲しませるしかできないだなんて。
(まったく、俺は、仕方のない男だな)
 情けなさと痛みに顔を顰める。
 極限の状況で、時間はまるで永遠のように引き延ばされていた。感覚はどこまでもとぎすまされていた。
 視界の隅に見覚えのあるけばけばしい印刷物が入る。脚を伸ばしてそれを蹴り上げ、手に取り、突き出されたナイフの刃先をそれで受け止めた。
 それから後のことはほとんど覚えていない。
 気づけば氷づけにされた男の横で、座り込んだままツナに泣きつかれていた。


 *


 ツナは幻騎士の後ろ側、二三十メートルほど離れた場所にいた。ほとんど真後ろだから、幻騎士自身の背中に遮られ、二人が何をしているのかがほとんどわからない。
 だから、幻騎士が倒れたときに、それは彼が刺されたせいだと思った。
 目の前が真っ白になった。ふつうならば、幻騎士ほどの人が、こんなちんぴらみたいな男に負けるはずがない。ならばいつもと違う状況をつくった要因、つまり彼の負傷の原因はツナの存在だ。幻騎士は、ツナを庇ったゆえに、負わなくていいけがを負ったのだ。
(オレのせいで、この人まで……!)
 たとえ少しでも何かを返さなければ、きっと死んでも死にきれない。
 グローブも死ぬ気丸もない。それでも何か、と、ぎゅうっと拳を握りしめる。その瞬間、どこかで銃声が聞こえた、気がした。


 *


 フィジカル面でもメンタル面でも、実のところ自分に大した力などないのだ、ということを、幻騎士はとてもよく知っている。つい最近思い知らされたばかりだからだ。病にあれだけ絶望し、中学生を相手に敗北を繰り返し、さらには二度も情けをかけられて。自分が強い人間だなんて幻想を打ち砕かれるには、それらの経験は十分すぎた。
 幸い幻騎士には幻術という才能があったし、血の気の多いマフィアの世界では、この沈着冷静な性格だけでも作戦立案から事務処理まで広く重宝されてきた。弱くはあっても使い物にはなるというのがせめてもの自負だ。そう、使い物にはなるのだ。
 体格はツナの盾になるには十分。そして反射神経だって、彼が怪我を負う前に自分の陰に隠してしまえるくらいにはいい。ツナにはかすり傷ひとつ負わせることも、薄汚いものを見せることもなく侵入者を捕らえることができた。氷づけになったということは最終的に手を下したのはツナなのだろうが、その前に無力化はできていた。幻騎士自身が男を捕らえることも容易かったはずだ。
 十分満足のいく結果だ。それなのに、ツナの震えは止まらない。
「そんなに怯えなくとも、敵はもういない。近くに人の気配はもうない」
 安心させようと口を開くと、ツナははっとしたように幻騎士の胸元や脇腹を確かめて、腿に目をやって、それからもう一度腹のあたりのシャツの布地を撫で、そうっとそこに額を寄せた。
「よかったぁ……」
 声には心の底からの安堵が籠もっていた。
「幻騎士さんがほんとうに刺されちゃったかと思った、……死んじゃったら、どうしようって、思いました」
 脚だけで済んで良かったですと、引きつりながらも笑おうとするツナの大きな瞳から、銀色の雫がひとつぶ、つうっと流れて幻騎士の膝に落ちた。
 貴重で繊細で、邪なものを浄化する力を持つ、聖なる白銀の光や冬の空に凛と輝く星々に喩えたくなるほど清廉な涙。それがいま自分のためだけに流されている。
 心配をかけてすまないとはもちろん思っている。だが、申し訳のないことに、それよりも喜びのほうが大きかった。だってそうだろう。泣いているのは羞恥やプライドを捨ててでも力になりたいと思った相手で、その彼が、幻騎士たったひとりのために、これだけの激情をみせてくれるのだから。
 きらきら輝く宝石に生まれて初めて触れる子供のように、こわごわツナの背に腕を回し、抱き寄せる。抵抗はなかった。だから少しだけ欲が出る。
「おまえのおかげだ」
「え?」
「これだけの負傷で済んだのは、あの本があったからだ。あれはおまえのものだろう?」
 ちらりと件の本に目をやる。それは、つい先ほどまで自室で読んでいて、そして最終的に幻騎士の命を救った、日本の少年コミック誌のバックナンバーだった。幻騎士の部下のなかでも特に若く、ツナたちとうまくうち解けまるで連絡係のようになっている男が、守護者たちの嗜好を知るためにとわざわざ借り受けてきたものだ。
「ジャンプ……読んでたの!?」
「悪いか」
「い、いや、悪くはないですけど。っは、ジャンプ、幻騎士さんが、」
 似合わねー!とツナはとうとう吹き出した。すっかり緊張が解け、うち解けたような口調が嬉しい。幻騎士の強ばった表情筋も思わず緩もうというものだ。
「好きなんですか?ジャンプ」
「いや。ついさっき初めて読んだ」
「え?」
「……おまえが愛読していると聞いたからだ」
 今度は目をまん丸くしたツナに、少しだけいたたまれなくなって、幻騎士はそっと視線を逸らした。
 背割れしたうえに血を吸ってしわしわになったジャンプは、もう読めやしないだろうに、どうしてか誇らしげに見えた。それが羨ましいと思ったのは幻騎士ひとりの秘密だ。


 泣きやんだツナを司令室へと送ることにした。侵入者がひとりではない以上、今のようなことがまた起こらないとも限らないからだ。
 幻騎士は普段は許可なしに基地の中心部へは入れないため、非常に居心地が悪い思いをした。ツナの肩にかけてやった幻騎士の上着だとか、ツナの小さな手がちょこんと握っている幻騎士のシャツの裾だとか、そういったところを集まった面々が凝視するのでなおさらだ。
 何でそんなやつと一緒にいるんですか!十代目!とひとり騒ぎ立てる獄寺の後ろで、リボーンがにやりと笑うのが見えた。ああ彼は一部始終を見ていたのかと、今更ながらに気がついた。
「ダメツナ、これが片付いたら部屋替えだぞ」
「え?なんで?」
「論功行賞だ。賞罰をちゃんとしねー組織はすぐに潰れちまうからな。今回はご褒美だぞ。よくやったな幻騎士」
「……いや」
 ツナを助けることなど、今となっては当然のことだ。かつて幻騎士は、生きるためだけに生きていた。死にたくないと叫びあがいていた。けれど今はツナのために走り、知識を蓄え、考え、そして剣を抜く。生きることすらこの子供のために。そう言い切れる。
 利用されても、その果てにすべてを──立場や財産も、誇りも、剣や幻術や匣も、いやたとえこの命を失うことになったとしても。きっと、最期の瞬間にツナが笑ってさえいるのならば、きっと満足してしまうのだろう。
 幻騎士はそうっと手を伸ばして、シャツを握っていたちいさな手をとり、指を絡めた。