リビングのソファでくだらないやりとりに夢中になるうちに、気づけばもう日付が変わっていた。
 幻騎士の夜更かしはいつものことだが、ツナはそうではない。すでにうとうとと船をこきはじめている。
 仕事と、それからほんの少しのプライベートな時間を除いて、ふたりはいつでも一緒にいる。それらの時間は幻騎士にとって、本当にあたたかくて幸せで大切なものだ。だからこそ、この後訪れる、それぞれの寝室に引っ込んでから朝までのひとりきりの時間が辛かった。
 希望の光であるツナが隣にいてくれるのはとてもありがたいことだ。いまこうして、幻騎士にもたれてツナが眠ってくれるのは、安心するし、嬉しいし、幸せだ。だが、だからといってこんなところで彼を寝かせる気にはなれなかった。またいつかのように倒れたら。考えただけでぞっとする。
 今ではもう傷ひとつない白い手からワイングラスを抜き取り、幻騎士はそっとツナの肩を揺する。
「沢田、ベッドに行け」
 しかしツナは幻騎士の服の袖を遠慮がちに引き、目をこすりながら駄々でもこねるかのように首を横に振る。
「オレ、幻騎士さんに、お話があるんです」
「明日でもいいだろう?時間はたくさんある」
「だめ、だめです!今日じゃなきゃ!!」
 興奮のあまりかツナは涙目だ。
 ツナが部屋にひっこんでしまえば幻騎士はひとりになってしまう。いつものことではあるが、何度繰り返しても、それはあまりに寂しくおそろしい。いつもはこの明るい部屋でツナの手紙を読み返すことで耐えている。そして、疲労に負けて眠りに落ちるのだ。
 だからツナがここにこうしていてくれるのは嬉しい。嬉しいのだが、しかしツナの体のことを考えると、ただ喜んでばかりもいられない。怪我ひとつさせてはいけないが、たとえ無理矢理にでもベッドに押し込んでしまわなければ。
 そんなことを考えている間に、ツナはふらふらと立ち上がって、幻騎士の手をつかんでベランダに続くガラス戸へと歩き出した。
「ね、外、出ましょう」
 こうなるとツナはどこまでも頑固だ。そのことを知っていたから、幻騎士は仕方なしに頷いた。
 ベランダは線路側にある。終電の時間を過ぎたために、耳障りな騒音はない。うるさいのは嫌いだし、ツナの声がかき消されるなんて許し難いことだ。だからそれはとてもいいことだ。
 だが、駅舎の明かりが消えることで生まれた、まるで川のように不自然に蛇行する闇、あれはだめだ。衣服のはためく音に混じって、死霊達の哄笑がこだまする。
 背筋を悪寒が走った。
(人殺し)
(人殺しめ)
(おまえが大切にしているやつを連れて行ってやるぞ)
(おまえだってそうやってきたじゃないか)
(今度はお前の番だ)
(おまえのようなやつが幸せになどなれるものか)
(ざまあみろ)
(ざまあみろ!)
「幻騎士さん!!」
 まるで悲鳴のような声に我に返った。目の前には暗闇、だが視線を少し下げると、ぎゅうっと幻騎士にしがみついて心配そうな顔で自分を見上げるツナが見える。
 なんだかほっとして、詰めていた息をそっと吐いた。
「幻騎士さん、今の……」
「何でもない」
「何でもなくないですよ!なんで、なんでオレに隠すんですか!なんで何も言ってくれなかったんですか!!幻騎士さんが夜あんまり寝られてないの、オレちゃんと知ってるんです!なのにどうして言ってくれないんですか……オレ、そんなに、そんなに嫌われてるんですか?せっかく仲良くなれたって思ってたのに、あれ、本当は無理してたんですか……?」
 自信なさげにさまよった手は、結局幻騎士から離れてしまった。声のボリュームもだんだん下がっていって、最後の方はほとんど音になっていない。それでもしっかり聞き取れてしまった幻騎士は、慌てて、今度は自分からツナの痩身を掻き抱いた。
「そんなことはない!」
 滅多にない大声にツナがびくりと身を震わせる。
「そんなわけがあるか……俺は、お前がいてくれるから……」
 だから幸せでいられるのに、どうして伝わらないのか。黙っていたのだって、ただ、ツナに余計な重荷を背負わせたくなかっただけなのだ。
 うまく説明できる自信などなかったが、それでもこれ以上ツナを思い煩わせたくはない。重たい口を開き、ぽつりぽつりと話を始めた。
「ひとりで闇の中に立っていると、過去の所行を責められている気がする。昔は何ともなかったのだが。……その、お前が倒れてからは、なおさらひどくなった。おそらく、お前がそういうことを忘れさせてくれるからなのだろう。お前が寝てから朝部屋に来るまで、このまま朝が来なかったらとずっと考えている。お前といる間は、そのときだけは大丈夫なのだが、な」
 自嘲する幻騎士にツナは何と言っていいかわからないようだった。ぱくぱくと口を開いて閉じて、視線を泳がせて。それからこくりとつばを飲み込んで、ようやっと言葉を出した。
「幻騎士さんは、夜が嫌いなんですか……怖いんですか」
「……ああ」
 少しばかりためらったが、今更ごまかしても仕方ない。正直に頷いた。
「その、なんていうか、なんて言っていいかわからないんですけど。ほら、」
 腕の中でもぞもぞと向きを変えて、ツナがその真っ白い指で闇の先を指す。それを追って顔を上げ、幻騎士は息をのんだ。
 闇の中におびただしい光が浮かんでいる。住宅街であるこのあたりはぽつぽつとだが、繁華街のある地平線ちかくは青みを帯びた光に満ちていて、まるで街自体が発光しているかのようだ。地上が明るいせいで、空も漆黒ではなく紫色に見える。
 ツナはそっと幻騎士にもたれて、うっとりとつぶやいた。
「夜は暗いだけじゃない。夜景はこんなにきれいです。ただ怖いだけのものじゃないんです。幻騎士さんだって、ひどいこといっぱいしてきたこわい人かもしれないけど、それだけじゃなくって、その……オレを幸せにしてくれる人、でも、あるんです。ひとを幸せにする力がちゃんとあるんです。……オレ、そんなに綺麗な人間じゃないですけど、でも、幻騎士さんがいてくれるから、幻騎士さんが怖いもの、忘れさせてあげられるんです。幻騎士さんがいてくれなかったらなんにもできないんです」
 一度言葉を切ったツナは、ふたたびくるりと幻騎士の方を向いて続ける。
「ひとりで苦しむなんてダメです!幻騎士さんの隣にはオレがいるんです!!いっしょにいれば夜だってこえられます。そうじゃないなら、オレがここにいる意味、なくなっちゃう……」
 だからそんなにこわがらないでください。人殺しめと糾弾し、幻騎士を二度と目覚めない眠りに引き込もうとする闇をすべて浄化してしまうような、そんな凛とした声が言う。
 いつの間にか止めていた息をゆっくり吐き出して、幻騎士はまたそろそろとツナの背に腕を回した。春めいてきたとはいえいまだ夜は寒い。脂肪の少ない細い肩はすっかり冷え切っていた。すこしでも彼の風よけになれればいいと、抱き込む腕に力を込める。
「沢田」
「はい?」
「今日から一緒に寝てくれないだろうか」
 幻騎士の懇願に、ツナは一瞬固まり、それから赤面してばたばたと暴れ回った。
「え、ええ!?ななななんでそんな話になるんですか!?」
「俺を救ってくれるのも、幸せにしてくれるのも、おまえだけだからだ……おまえだけだ」
 今そうしてくれたように、あの怨嗟を断ち切って、大丈夫ですよと笑ってほしいのだ。懇願するように肩に額を寄せると、ツナは髪を撫でて、わかりましたと言ってくれた。
「本当に?」
「はい」
「ずっとか?」
「はい!えーと、空が落っこちるようなことがあっても、山が崩れて海のもくず?になっても、やめません」
 ツナは恥じらうように俯き、幻騎士の頭にするりと頬を寄せた。この空気にはそぐわないなとわかっていても、そのかわいらしい言い回しに笑わずにはいられない。
「なんだ、それは」
「たぶんなさそうなことのたとえだって。イタリアではこういうってテレビでやったんですけど……」
 ちがうんですか?表情は見えないが、きっと不安そうな顔をしているのだろう。誤解も良いところなのだが、幻騎士はそのまま黙っておくことにした。
「幻騎士さんが寝るまで、ううん、寝ちゃっても、オレがずうっと一緒にいます。朝もちゃんと起こしてあげます!おいしいご飯とお弁当用意して。そうすれば、こわいものなんか、ないんですよね?」
「沢田……つな、綱吉」
 幻騎士はひりつく喉から絞り出すように感謝と愛の言葉を述べた。
「Grazie sempre. Io L'amo」
 辛く長い、暗いだけの夜はきっともうこない。