ほっこりと湯気をたてる料理をつつきながら、たくさんの話をする。テレビはあるが、二人でいるときにつけることはほとんどない。そんなものなくとも、弁当の感想や互いの友人たちのこと、くだらないやりとり、連休の過ごし方の計画と、話題が尽きることはないからだ。それに、もし会話がなくなってもそれが苦痛になるような仲ではない。黙り込んだままふたりくっついているのは、寡黙な幻騎士にも人付き合いの苦手なツナにも、なかなか心地の良いものだった。
 保護したときには、ツナは心身ともにひどい状態だった。ビタミン欠乏で立つほどもできず、また仕事を告げるコール音を彷彿とさせる電話やインターフォンの呼び出し音に怯え、幻騎士以外の男が近づくだけで泣きだす。医師の診察の際にも、幻騎士がそばで手を握っていないと、暴れてどうにもならなかった。唯一よかったと言えたのは、とりかえしのつかない病気をもらっていなかったことくらい。そんな酷い状態だった。
 だが一年が経ったいまでは、料理に掃除にと、ツナはとろいながらもくるくるぱたぱたと家中を懸命に動き回っている。今も、キッチンに立ってふたりぶんの食器を洗っているところだ。
 栄養状態がよくなるまではと入院させることが決まったとき、幻騎士はティモッテオに最終報告をした。奈々とツナの病状と入院先を告げ、経費の請求書を提出すれば、幻騎士のするべきことはそれですべてお終い。あとはティモッテオ本人がどうにでもするだろうと思っていたのだ。だから、それから一週間が経って、白蘭から再度連絡があったときには驚いた。幻騎士以外の誰もツナに近づけないのだという。困り果てたふたりはまた幻騎士に丸投げすることにしたのだった。いい加減なとも思ったが、他に手の打ちようがないのだと言われてしまえば、もうどうにもできなかった。
 いざ同居となると、途端にどう接して良いかわからなくなってしまった。それで避けて避けて、ツナが懸命に幻騎士のためにと頑張ってくれていたことに気づけなかった。
 同居を初めてひと月が経つか経たないかのころ、ツナが倒れた。具合が悪いのをおして家事をこなしていたためだった。しかし幻騎士は心配などほとんどせず、ただ、死なれてしまうと厄介だとだけ思った。食べさせてさえいれば死にはしないだろう、食事を出してやろうと考えた理由もそんなものだった。
 久々に入ったキッチンはまるでよその家のもののようになっていた。買い置きのサプリメントも栄養補助食品も缶詰類もきれいになくなって、それらがあったはずのスペースには、大量の食材や調味料が雑然としまわれている。違いがさっぱりわからない何種類もの豆類、どう見てもカビとしか思えない緑色の粉末に茶色いペースト。花や草の芽まであった。野菜室にしまわれていなければ食用とは気づけなかっただろう。
 ほとんど料理などしたことのない幻騎士には、一体それらをどうすればいいのかもわからない。それで、やむを得ず、リビングの隅にちんまりと置かれていたツナの料理本に手を伸ばした。目的があったわけではないから適当に一冊選んで、適当にページを開いて──そして固まった。
「……なんだ、これは」
 本に掲載されている大量のレシピ、そのひとつひとつに付箋紙が貼ってあって、少年らしいつたない文字でびっしりと書き込みがしてあったのだ。
『鯖のみそ煮。しょうががうまく切れなかった。味はよし。でもほとんど手をつけず』
 次のページにも、その次のページにも付箋はあった。慌てて別の本を開いてみる。それらも同様で、掲載されているすべてのレシピに、感想と幻騎士の食べた量や反応が書かれていた。
『オニオングラタンスープ。味が濃かった。三割ほど残す』
『ボンゴレビアンコ。完食!はじめてだ うれしい』
『カポナータ。半分ほど残す。ずうっと眉が寄ってた。おいしくなかったみたいだ。イタリア料理ってむずかしい。でも半分はたべてくれた』
 紙がぶれて読みにくい、そう思ってよくよく見ると、震えているのは自分の手だった。あの子供は自分のためにここまでしてくれていたのだ。ようやく気づいて、胸が痛んだ。
 食事はどれも美味しかったのだ。食べなかったのはどうしていいかわからなかっただけ。だが、付箋には、おいしくなかったみたいだとか手をつけなかっただとか、そんな言葉ばかりが並んでいる。完食とあるものは片手で数えられるほど少なかった。
 一体どれだけ彼を傷つけてきたのだろうか。当の幻騎士の前では平然と笑いながら、彼は一体、あの小さな体でどれだけ傷ついていたのだろうか。幻騎士には想像すらできなかった。
 それから幻騎士は好みを言葉にしようと決めた。食欲のない日や、残業や、つきあいなどで夕食の摂れなくなった日は、職場から電話をかけてでもそのことを伝えるようになった。たとえつけ合わせのひとかけら、ソースの一滴でも、ツナの作ったものを残すことだけはするまいと決めたのだ。
 床上げして最初にツナが作ったのは鶏肉のコンフィだった。幻騎士は飾りのチコリーまできれいに食べてツナを驚かせ、さらにつたないながらも「ありがとう、うまかった」と伝えた。ツナはそのときはあいまいに笑っただけだったが、片付けを全て終えたあと、キッチンの隅でほとほとと歓喜の涙をこぼしていたのを知っている。
 弁当を作ってくれないかと頭を下げたのは、それからひと月がたった頃だった。
 キッチンの引き出しにあった大量の付箋紙はいつの間にかなくなり、代わりに、昼の弁当に同封するための一筆箋が常備されるようになっていた。


 *


「幻騎士さん、あの、ちょっとだけ食べませんか?」
 食器を洗い終えたツナが、ぱたぱたとサイズの合わないスリッパを鳴らしながら持ってきたのは、幻騎士が買ってきたブランデーケーキと空のペアグラスだった。カットされたケーキは薄っぺらだから、もうとうに腹はいっぱいなのだろう。ようするにこれは一緒にいるための口実なのだ。察しをつけて内心で苦笑した。
「太っても知らんぞ」
「え、ちょ、オレ男ですから!そんなの気にしませんよ!」
 それもそうかと妙に納得して、それからどきりとした。この一年間、あまりツナの性別というものを意識してこなかったが、どんなに小さく細くても、どんなにやわらかな顔で笑おうとも、確かに彼は男なのだ。
 隣にちょこりと座ったツナにごまかすようにグラスを渡し、ワインを注いでやると、幻騎士の内心に気づかないツナは嬉しそうに口を付けた。
「わ、おいしい!」
「……酒だけか?」
 ケーキはそうではないのかと言外に問うた幻騎士に、ツナは心底呆れたような顔をした。
「だけかって、まだケーキ食べてないし!もうちょっとまってください!」
 まったく、この子供といると感情が休まっている暇がない。だが、悪くはないなと、ようやっと認められるようになった。変革、進化、いずれにせよすばらしいことだ。そして、それらをもたらしてくれた存在をなによりも大切にしたいと、いつもいつでも思っている。