午後の仕事を終えると、駅に直行し、一番早い電車に乗る。たとえ仕事を持ち帰ることになっても残業はしない。留守中に電話のベルやインターフォンが鳴ってツナが怯えているかもしれないし、そうでなくともなにがあるかわからないからだ。
車を使えばもう少し時間が短縮できると考えたこともあったのだが、それで事故にあったりしないかとツナが不安がったために、やめた。それまでは仕事と効率がすべてだったのに、変われば変わるものだ。
そういうわけで、へたをすれば通勤時よりもせかせかと帰宅する幻騎士だが、ツナの喜ぶ顔見たさにみやげを買うことはよくある。大抵は乗換駅に直結しているデパートで菓子や酒などをひとつふたつ買う程度だが、記念日ならば更に花もつける。両手いっぱいに花束や菓子を抱えて浮かべるあの引きつった笑みが、幻騎士は非常にすきなのだ。思い出してしまえばもうだめで、結局途中でカラフルなマカロンの詰め合わせとブランデーケーキ、それに白とグリーンの清らかなミニブーケを買った。
最寄り駅からふたりで暮らすマンションまでは歩いてたったの一分だ。だがそれすらももどかしい。年甲斐もなく階段を一段とばしで駆け下り、横断歩道は信号がないのを良いことに突っ切って、閉店の準備をする顔なじみのジュエリーサロンのオーナーにくすくす笑われながら、マンションのエントランスに入った。
居住スペースへ入るためには、建物の端に目立たないように設置されたこのエントランスホールの自動ドアを開けなければいけない。もちろん幻騎士も鍵は持っている。しかし、それは使わずに、インターホンのパネルに手を伸ばした。
『はいっ』
幻騎士の帰りを今か今かと待っていたのだろう。普段はびくびくおどおどとしているくせに、このときばかりは嬉しそうな声で応対するツナが可愛くて仕方ない。毎日鍵を使わずこうしてインターフォンを鳴らすのは、ツナのこの声を聞くのが、そして、幻騎士が上がっていくまで、自宅のドアの前でわくわくと待っている彼を見たりするのが楽しみだからだ。
「おかえりなさい!お仕事おつかれさまです!」
「ああ。ただいま」
みやげにと買ってきた菓子を下駄箱の上に置き、ブーケは紙袋ごとツナに渡して、潰さないようにとそうっと抱き寄せて帰宅の挨拶をした。幻騎士自身は淡泊な性格ではあるが、長かったイタリア暮らしの影響はしっかりと受けていたようで、挨拶のハグもキスも欠かさない。一方純日本人であるツナは、いつまでもそれに慣れずにいる。名残惜しく体を離すと、ツナは、真っ赤な顔をブーケに埋めるようにして隠してしまった。
この花も菓子も、もので機嫌をとろうだとか、そういった意図で買ったわけではない。ただいつも幻騎士自身がツナにそうしてもらっているように、おいしいものを食べ、綺麗なものを見てもらいたいと、そして彼に少しでも幸せな気持ちになってもらいたいと思うがゆえだ。そして期待通り、ツナは、嬉しくて嬉しくて仕方がないけれど自分には似合わないよなというような、何とも言えない笑顔を見せてくれた。
可愛い。本当に可愛い。たとえばこの笑顔が隣にあるだけで、夜など少しも恐ろしくなくなるのだろう。朝が永遠に来ないかもしれない、そんな考えにとりつかれることなんてないに違いない。
だが、早く起きて疲れているツナにそんなことを乞えるわけもない。結局何も言えないまま、細腕いっぱいに土産を抱えてキッチンに駆け込むツナの後を追った。
*
母親である奈々を見つけるのは容易かった。彼女は日本のある病院に入院していたのだ。確かにセキュリティや個人情報保護に積極的な病院ではあったが、それでも老ボンゴレに人手か時間かどちらかがあれば簡単に見つけられただろう。幻騎士は白蘭と相談して、彼女をミルフィオーレ傘下の医療施設にうつすことにした。
一方子供の方は、奈々ほどすんなりとはいかなかった。社会生活を送っている以上どこかに痕跡が残るものなのだが、手を尽くしても何も出てこない。奈々の入院費の出所から探そうともしてみたがこちらも成果は上がらず、もしや死んでいるのではないかとすら思い始めた頃、手がかりは意外なところからあらわれた。
それは一冊の風俗情報誌だった。あからさまなグラビア写真に下卑た文句。誰かが置き忘れたのだろうそれを幻騎士が手に取ったのは、ゴミ箱に捨ててしまおうと思ったためだった。しかし、それをつまみ上げたときに、ふと、こういった世界ならば痕跡を残さずに生活できるのではないかと気がついた。
さんざん時間と手間をかけ、最終的にあがったのは、ある派遣型の違法風俗店だった。
その子供は店が寮として借りているアパートの一室に住んでいた。仕事以外にはほとんど外出せず、買い物も従業員に任せるか移動のついでにコンビニに寄る程度。クレジットカードも保険証すらも持っていない。なるほど見つからないわけだと嘆息し、それから男でも客を取れるのかと妙に感心したのを覚えている。
幻騎士が初めて会いに行ったとき、ツナは泣きも笑いもせずに、ベッドの縁にかけてぼうっと宙を見つめていた。気弱だが優しく、友達は少ないけれどとても大切にする、元気な子供。接客はできて指名も多い。幻騎士はティモッテオや沢田奈々、あるいは店の従業員からそう聞いていた。だが、そんなものはどこにもいなかった。そこにいたのは、疲れ切ってぼろぼろに壊れた一人の少年だけだった。
幻騎士はいったい何と声を掛ければいいのかわからず黙ったまま、ツナも何も言わない。奇妙な沈黙の中、静寂を破ったのは携帯電話のコール音だった。
コートのポケットに入れっぱなしだったその小さな機械が甲高い音を発した瞬間。それまでののろのろとした動きからは想像もできないほど俊敏にツナが動いた。
「っ、やだやだやだ、もうやだ!あっちにいけ!」
ぎゅうとベッドの上で体を小さくして、耳をふさいで、毛布の中に頭だけ突っこんで、ふるふると震える子供。幻騎士ははじめ何が起きたのか理解できなかった。だがそれがこの音に対しての反応だと気づき、急いでコールを止める。ふぅ、ふぅ、と荒く息をつくツナの背を宥めるように撫で、もう大丈夫だからと繰り返した。
「ごめ、ごめんなさい、本当にすみません……ごめんなさい」
「構わない。……その、俺は客ではない、だから謝る必要はない」
いつもの通りぶっきらぼうに言ってから、慌てて付け足す自分がばかばかしかった。
幻騎士は自分の身許と今回の事情をゆっくりゆっくり説明して、ここから出してやろうとツナの手を引いた。ツナは一度はそれを拒んだが、奈々のことなら大丈夫だからと言うと、今度は素直に頷いてくれた。ふらつく体を支える手は背骨の凹凸をリアルに伝えてくる。ざわりと波立つ感情の正体を、そのときの幻騎士は哀れみだと自分に言い聞かせた。