昼休みを知らせるチャイムが鳴った。途端に、寝不足で疲れ切っているはずの体が嘘のように軽くなる。幻騎士はいそいそと弁当の包みを出して結び目をとき、箸より先に、一緒に入っていた一筆箋に手を伸ばした。
『お仕事おつかれさまです。今日はたけのこをいれました。幻騎士さんの好きな味になったと思います。午後もがんばってください。でも、がんばりすぎもだめですよ。体をだいじにしてください』
 漢字は少ないし、ひらがなだってお世辞にもきれいとはいえない。だが、うわべだけでないこのねぎらいの手紙が、頭痛も倦怠感もネガティブな感情も、すべてどこかへ消し去ってくれる。
 ツナには仕事のことは言っていないが、勘がいいあの子供はきっとうすうす感づいているだろう。それでも、何も訊かずにただ頑張ってと、そして体を壊さないようにと気遣ってくれる彼の心遣いがありがたい。人に言えない仕事をしているからなおさらだ。
 表情に出さないまま盛大ににやけ、手紙を手帳にしまいこんでから、弁当に箸をつけた。彩りも栄養のバランスもよく、鰹節の風味も、たけのこの食感も、非の打ち所がない。慈愛を具現化したような味に、ほうっと詰めていた息を吐いた。


 ツナの手料理の味や、彼が洗ってくれた服の着心地、そして彼のいるあの部屋のあたたかさを知ってしまった今ではもう考えられないことだが、同居をはじめたばかりの頃、幻騎士は徹底的にツナのことを避けていた。
 沢田綱吉という人間は、無垢で甘ったれで弱々しくて、幻騎士には眩しすぎたのだ。
 同盟ファミリーのボス直々に預かった子供だったから、追い出すわけにはいかない。解決策として、幻騎士は、せめてできるだけツナに関わらないようにしようとした。しかしそれもうまくいかなかった。むこうからあれこれ無遠慮に干渉してきたせいだ。
 しわの寄ったシャツが着たくないなら新しいものを買えばいい。食事は栄養量さえ足りればサプリメントで十分だ。ずっとそうやって生きてきた幻騎士に対し、シャツは洗ってアイロンをかければいいのだと怒り、三食きちんと食べないと病気になると言って大泣きした。
 自分よりも上背のある男が怖いくせに、無愛想な態度にいちいち怯えるくせに、そんなことをしたところで幻騎士が態度を軟化させることなどないとわかっていただろうに。それでもツナは幻騎士に関わるのを止めなかった。料理も洗濯もうまくなどなかったので、彼の手指はあっという間にぼろぼろになった。それでもその子供はキッチンに立つのを止めなかった。
 馬鹿で愚かな子供。ずっとそう思っていた。
 その認識が覆ったのは、同居を初めてひと月がたつかたたないかの頃、彼が倒れたためだった。


 *


 幻騎士がツナのことを知ったのはある老人の依頼によってだった。
 幻騎士の勤め先は表向きは普通の商社だが、実態はマフィア・ミルフィオーレファミリーの隠れ蓑だ。そういった企業は他にもいくつかあって、老爺はそのひとつであるボンゴレファミリーのトップに立つ男だった。
「私はもう引退しようと思うのだが」
 だがその前にひとつだけ心残りがあるのだと、彼は嘆息した。
「死んだ親友の家族のことだ。奥さんと子供がひとりいたのだが、もう十年ほど行方が知れない。できるだけ迅速に探し出して、保護してもらいたい」
「ボンゴレの力を使って、ご自分で探せばよろしいだろう。なぜわざわざ俺に言う」
 自分より格下のファミリーのものをわざわざ呼びだしてまでやらせなくとも、ひとの一人や二人くらい容易に探し出せるだろうに。幻騎士がそう言うと、老爺は一瞬だけ「良い質問だ」とでもいうような笑顔を浮かべ、すぐにまた深刻な顔をした。
「友といっても遠縁でね、その子供にもボンゴレの血が流れている。だが、私も友も、あの子にマフィアなどにはなってほしくないのだよ」
「自分の息子に跡を継がせると伺いましたが。随分と都合の良いことをおっしゃるな」
「誤解をしないでほしい。あの子が十世になりたいのならそれで構わない。ザンザスとあの子と、すこしでもうまく組織を切り回せる方が継げばいい」
 跡継ぎ争いが起きても構わないのか、そう問うと、ティモッテオは意外なことを言った。
「多少のごたごたは仕方がないし、その程度で揺らぐ組織ならいっそ潰れてしまった方がいいと思わんかね……まあいい、話をもどそうか。問題はね、あの子がマフィアになどなりたくないという場合だ。私はその意思を尊重したいのだ。そのためには、少なくとも私が引退を表明する前にあの子を見つけて、隠してしまわなければならない」
 このまま、何の手も打たないままその子供の存在が表沙汰になってしまえば、彼を正当な後継者として擁立する者が必ず出るだろう。そうなれば、子供に残された道は、マフィアになるか死ぬかどちらかだ。そして、かたぎの世界で育った子供がマフィアになりたがりはしないだろうということは、ひとの感情に疎いと評される幻騎士でも容易に想像できた。
 そして、だからこそ幻騎士が呼ばれたのだと、今更ながらに納得した。同盟ファミリーとはいえボンゴレの者ではなく、秘密を守ることができ、そして子供を武器に権力を握ろうとしないもの。そういった人間を寄越すようにティモッテオは白蘭に依頼し、そして白蘭は幻騎士をここへ遣ったのだろう。
 数秒の黙考の後、幻騎士はティモッテオに了承の意を伝えた。事情に得心のいったこと、白蘭からくれぐれもよろしくと念押しされていたということも勿論あったが、なにより、この老獪で知謀に長けたボンゴレ九世にそこまで言わせるその子供の顔を、一度拝んでみるのも悪くないだろうと思ったのだ。
 ──あの日の己によくやったと言ってやりたい。あの時首を横に振っていれば、この穏やかであたたかな生活はなかった。これほどの幸福を得ることはできなかった。
 たとえこれらが今だけのものであったとしても、幻騎士は、この思い出だけを糧に生きていくことができるだろう。それほどまでに満たされている。たったひとりの子供がもたらしたあたたかな生活、きっとこれこそが幸せと呼ばれるものなのだ。