潮騒とラジオから聞こえるジャズを聞きながら身支度をする。
 ほぼ拉致されるように連れてこられたから、持ってこられた荷物などほとんどない。服も化粧品もみなジョットに渡されたものだ。だから、自分ではぜったいに買わないようなものばかりが入っていて、最初に見たときには少しだけくらくらした。そして欲が出た。
 普段は化粧などほとんどしないが、せっかくのリゾートだから少しだけお洒落しようかなと思ったのだ。それがまずかった。化粧自体は不慣れな割にうまくいったのだが、鏡の中に佇む自分はどうしたって見窄らしい。
 真っ白なワンピースはとても肌触りがよく、ディティールまで凝っている。間違いなく高級品だ。だが、その裾からのびる脚も、細い肩紐のかかった肩も、どうにも貧相でいけない。なにより南国のリゾートには不似合いなほど白い。髪だって跳ね回ってみっともない。
(あーあ……)
 だがもう時間だ。早く行かないと、モーニングがブランチになってしまう。せっかくジョットと昼食の約束をしているのだから、どうせなら空腹でおいしく食事がしたかった。そのためには朝食は早めに済まさなければならない。
 鏡に向かってひとつため息をつき、小銭入れと鍵、それにアンティーク調の小さなラジオだけを持って部屋を出た。どこもかしこもみっともないのだから、せめてミュールだけは爪先の出ないものを選んだ。ペディキュアなしでオープントゥの靴を履くことほどエレガントでないことはないと、ビアンキに聞いて知っていたから。


 最寄りのカフェには水上デッキがある。天気のいい今日はそこにたくさんのテーブルが並べてあって、ツナはその一番端の席についた。すぐそこは海だ。
 ラジオをテーブルに置いて、また番組に耳を傾ける。時折Jazzという単語が聞こえるからきっとジャズの番組なのだろうが、今かかっている曲はあまりジャズらしいとは言えない、リゾートで聴くのにぴったりな爽やかな曲だった。残念なことに異国の番組なので、詳しいことどころか、誰の何というき曲のかすら分からなかった。
 フルーツとパプリカのミックスジュースを啜りながら、ぼんやりとジョットのことを考えた。最近どうにもいけない。暇さえあれば彼のことを考えている。
 ツナとジョットの関係は非常に奇妙なものだった。付き合っているわけではない。少なくとも、ツナにその認識はない。することはしているし会えば甘やかな雰囲気にもなるけれど、血の繋がりがある以上、ふたりが共にある将来などないだろう。あったとしてもそれは決して幸福なものではないはずだ。
 両親にも友人にも言えない関係に、ツナはもう限界だった。だから、この名も知らないリゾート地での思い出を最後のものにしようと決めていた。


 気持ちは沈んでいても、美味いものは美味い。そして美味い食べ物は人を幸せにする力を持っている。食事を終える頃には、ツナは少しだけ明るい気持ちになっていた。
「食事はいかがでしたか?」
 ウェイターに声を掛けられ、ツナは微笑んだ。この店の店員は日本語ができる。ツナはそのことを昨晩ジョットに聞いて知っていた。
「とっても美味しかったです!ちょっと量が多かったけど」
「朝はたくさん食べないと、一日のエネルギーに足りませんよ」
「はは、そうですね」
 ちょうどそこで、ラジオでまた新しい曲が流れ出した。女性が明るく強く歌うアップテンポのジャズは、ツナの心をぎゅうっと掴んで放さない。ふと、この店員ならラジオの内容がわかるのではないかと思い、尋ねた。
「もしこの後で曲の紹介が入ったら、なんて言っているか教えてもらえますか?」
 ほかに客もいないためか、サービスも仕事と心得ているのか、ウェイターは快く頷いてくれた。
「曲はサラ・ヴォーンのThere Will Never Be Another Youです。これからきっとたくさん恋をするだろう、でもあなたほどの人はおそらくもう二度といないでしょう、と……ああ、これは歌詞の説明ですね。」
 なるほど道理で。ツナは苦く笑い、ウェイターに礼を言った。彼は一礼して仕事に戻っていった。
 まさに今の自分ではないか。これから先の人生で、どれだけの人と出会うかしれないが、その誰もが間違いなくジョットに遠く及ばない。
 行儀が悪いのを承知でぺったりとテーブルに頬をつけ、指先でラジオを弄る。アンティークといっても、昭和の日本にあったような無骨なものではなく、西洋の古い家具のような装飾がなされた木製のラジオだ。これもジョットから贈られたものだった。仕事の間退屈するだろう、でもテレビではあまりに風情がないからと。
 中も外も持ち物さえも彼で一杯。これで離れてしまったら、いったいどうなるのだろう。きっと落ち込んで、しばらくは恋愛なんてしないと思うだろう。けれどいつか違う誰かを見つける。そしてきっとThere Will Never Be Another Youと実感するのだ。


 ツナの背中が日に灼けて熱を持ちだした頃、ようやっとジョットが戻ってきた。
 今朝になって急な仕事が入ったのだった。その連絡をもらったジョットはツナに何度も何度も謝罪し、それから苛立ったように部下をののしった。ジョットがツナの前で誰かをそんなふうに言うのは初めてだったから、とても驚き、そしてショックだった。
 自分も、知らないところではあんなふうに言われていたのかもしれない。ちょっと優しくしただけで勘違いする馬鹿な親戚の子供。本気で好きになるわけなどないだろうに、頭の中まで可哀想なやつだ、なんて。
「ここにいたのか。待たせて済まなかったな」
 疑い出すと謝罪すらも白々しく聞こえてしまう。そんな自分が嫌で嫌で、誤魔化すようにツナは笑った。
「ううん、全然待ってないよ」
「そうか。ならばいい」
 ジョットはどこかほっとしたように表情を緩めて、それからツナを促してカフェを出た。
「まだ食事には早いな。したいことはあるか?」
「海に入りたい。足だけでもいいから」
 もらった荷物に水着はなかった。うっかり忘れるような男ではないから、ジョットははじめからツナを泳がせるつもりなどなかったのだろう。でもツナは海に入りたかった。冷たい海水で、このもやもやする心をきれいに洗い流してしまいたかったのだ。
 多少の仕事はあったものの、今は休暇中と言うことで、ジョットもさすがにスーツ姿ではなかった。ラフなチノパンにノーアイロンのシャツ。あまり見ないリラックスした服装にどきどきする。
 ツナとジョットのことをよく似ているという身内もいたが、ツナ自身はそんなことはないと思っていた。ジョットは軟弱で不細工なツナとは比べものにならないくらい、凛とした強い目をした、とても綺麗な男だから。もしかしたらふたりはきっと、親戚なんかではなくて、本当にどこにでもいるカップルに見えているかもしれない。それを思うと、どうしてか、泣き出してしまいそうなほど胸が痛んだ
 ふたりはカフェのすぐそばのビーチへ足を運んだ。日本のものとはまるで違う、白い白い砂浜に青い海。ツナは小さく歓声を上げ、ミュールを脱いだ。ジョットは最初は複雑そうな顔をしていたが、ツナが喜ぶと彼もまた嬉しそうに笑った。
「冷たい!あ、魚!ジョットさん、綺麗な魚がいる!」
「あんまりはしゃいで転ぶなよ」
「はーい!」
 波は穏やかで、水量はせいぜいふくらはぎほどまでしかない。いくら運動神経皆無のダメツナでも、転んだりはしない。
 裾を揺らして水を蹴り魚を追うのは、まるで幼い子供に戻ったようだった。悩みなんてちっぽけなものしかなくて、さしのべられる優しい手にただ甘えていれば良かったあの頃に。
 だがジョットはそれすら簡単に奪ってゆく。
「綱吉」
「はい?」
「もう行こう」
 その声がどこか切羽詰まっているように聞こえたのは、ツナの気のせいだろうか。まだ十分も立っていなかったから、少しどころかまったく遊び足りていなかったが、それでも従順に頷いた。ここで自己主張して嫌われて、最後の思い出を汚してしまいたくはなかった。


 昼食を終えるとすぐに部屋へと戻り、ふたりでベッドに横になった。べつにいやらしいことをするわけでもなく、ただだらだらと過ごしている。こんなに天気のいい午後は外で過ごしたかったのだけれど、結局ここでもツナはジョットに従った。
 ふと先ほどの曲が口をついた。覚えていたのは最初の一節だけだったけれど、ジョットがそれを聞き逃すはずがない。
「聞き覚えのある曲だな。もう一度歌ってくれ」
 それでツナが拙いながらももう一度口ずさむと、ジョットは悲しい顔をして、ああThere Will Never Be Another Youかと言った。
「知ってるの?」
「ああ。名曲だからな」
「歌える?」
「もちろん」
 目を丸くするツナをまるでガラス細工でも扱うような手つきで抱き寄せ、ジョットは低く掠れた声で一曲を歌い上げた。サラ・ヴォーンのものとはまるで正反対の曲調になったが、それでも彼の歌は素晴らしかった。今でなければ、ここでなければ、惚れ直したかもしれないくらいには。
「珍しいな、ジャズなんて」
「朝ラジオで聴いたの。いい曲だなって」
 そうでもなければジャズなんて聴かない。ツナが好きなのは、ゲームの主題歌か、せいぜいポップスくらいだ。それだってこうして口ずさむほどではない。
 ジョットは安堵したようにため息を吐き、そっとまつげを伏せ、心臓が止まるかと思ったと呟いた。
「おまえはこの曲の歌詞の内容を知っているか?」
「ううん……知らない」
 どうしてかツナはとっさに嘘を吐いた。それに気づいてか気づかずか、ジョットは苦しそうに教えてくれた。
「これからきっとたくさん、別の誰かとキスするだろう。でも、誰一人夢中にさせてくれる人はいない。たくさんの夢は見るだろうけれど、それをどう実現すればいいんだろう。あなたのような人はもう決してあらわれないのに。……そういう曲だ」
 ジョットの胸にすり寄ってそっと耳を当てる。鼓動は早く、そのわりに肌は冷たい。心臓が止まるかという彼の言葉は、きっと少しも誇張などではなかったのだろう。
 きっと彼は彼なりにツナのことを大切にしてくれているのだ。だから、ツナが自分の元を去ることをこれほどまでに畏れている。
 けれどそれだけではだめなのだ。ツナはもう疲れてしまった。誰にも言えない、そしてきっとこの先少しもうまくはいかない関係に。ジョットのことは本当に好きだけれど、そんな夢も未来もない関係はもうごめんだ。
「夕方になったらまた外に行きたいな」
 きっと夕焼けはとても美しいだろう。空も海も山も、この地にあるすべてを、ツナは一つ残らず覚えておきたかった。
「そうだな。そうしよう。丁度お前に話さなければならないこともある」
 ジョットもそれに同意し、更にそんなことを言った。
 なんだ、オレ捨てられちゃうのか。ならば自分から言い出すのではなく、ジョットに捨てられるのを待とう。滞在二日目の夜にそんな話をされるだなんて悲しかったけれど、自分から話を切り出してジョットが傷つくよりは、その方がずっとずっといい気がした。
 傷つくならばジョットじゃなくてオレがいい。ツナの健気な想いを知らないジョットは、お前の代わりになりうる者なんてどこにもいないんだよとふたたび目を伏せた。