ツナは雨の日が嫌いだ。
彼の両親が死んだのは雨の日だった。ツナを迎えに行くために家を出て、交差点で信号待ちをしていたふたりを、濡れた路面でスリップした車が襲ったのだ。あっという間のできごとだった。
雨はそれから一週間降り続いたために、棺に収められたふたりを見送ったのもまた、ときおり遠くに稲光の走る、灰色の夕方だった。荼毘に付された死者は煙になって天国へ行くのだと当時のツナは考えていたから、逆説的に、濡れてしまえばふたりは地獄へ行くしかないのだと信じこんだ。それで余計に雨を忌まわしく思うようになった。
また、ツナは月曜日も好きではない。ほとんど憎んでいると言ってもいいほどだ。
もともと学校は嫌いだった。ツナはとろく、なにひとつ人並みにこなせたためしがなかったからだ。しかし、それでも、成績で人間の価値が決まるわけではないと考える父親や、つっくんはつっくんのペースで頑張ればいいのよ!と言ってくれる母親がいるうちは、まだ、無気力ながらも休むこともサボることもなく学校へ行っていた。
状況が一変したのは、やはり両親が死んでからだった。
新しいツナの家族は、ツナに、とにかく「普通」を求めた。テストならば平均点を、通知表なら五段階の「三」を。身長でも体重でも五十メートル走のタイムでも、とにかく「平均」や「標準」をまるで錦の御旗かなにかのように振りかざしては、それに届かないツナを、「寛大さ」に見せかけた「諦め」の真綿でしめあげるのだ。一位をとれと言わないだけましだなんて、そんなの、ツナにとっては、これっぽっちも救いになどなりはしないのに。
彼らと暮らしはじめてひと月も経たないうちに、ツナにとって、月曜の朝というのは、まるで死刑台に上がる直前のような、最悪な気分を味わう時間になった。そして、自分自身と戦えるほど強くなかったツナは、ごくごく自然に、逃げ出すということを覚えた。
ツナは雨の日と月曜日が嫌いだ。それはツナの性格であり、過去であり、育った環境であり、十四年というツナのすべての時間のあらわれなのだ。
ジョットはそのことを、十分すぎるほどよく知っている。そしてツナが、ジョットのもとにやってきてから、それらをどうにかしようと精一杯葛藤しつづけていることも。
だから、六月最後の月曜日に、ツナの担任教師から無断欠席の連絡を受けたときも、驚かず、腹も立てず、ただただ静かに「理由は把握しているし、本人とも話をする。必要ならば学校側にも相談をする。だから本人には何も言わないでいてほしい」と、落ち着いて応えることができたのだ。
「……さて」
ジョットは子機をスタンドに戻すと、膝にのせていた子ライオンを抱き上げ、微かに笑った。
「あの子を迎えに行こうか。きっと今頃泣いているから」
生まれ育ち、そして今はジョットとともに暮らす町のはずれに、小さな小さな空きテナントがある。最後にここに入っていたカフェも潰れて久しいが、ウッドデッキもモスグリーンの日よけもそのまま残っている。ただ、あくまで日差しを遮るためものなので、雨に対してはあまり意味がない。結局ツナは、ほとんど道路に立ち尽くしているのと変わらないくらい、びしょびしょに濡れていた。
ここは、ツナがまだ幼かった頃、母親に手を引かれて通った店だった。ここでパパと出会ったのよと笑っていた彼女は、まるで幸せを具現化したみたいにきらきらしていて、その姿を思い出すだけでじわりと涙がにじんだ。
親戚中をたらい回しにされていた頃も、祖母の妹の養女の死別した結婚相手だという男性の家に身を寄せるようになってからも、ひとり電車に乗ってここへきて、こうして声を殺して泣くことはよくあった。最初はふた月に一度。それがあっというまにひと月に一度になり、二週おきになり、気づけば月曜が来る度にここでこうするようになっていた。
それでも、この悪癖は、ジョットに引き取られてからは止んでいたのに。
(オレは欲深い人間です)
ジョットはツナにとって、これまで世話になった親戚の誰よりもいい保護者だ。
初めて彼に会った日、ジョットは、恐怖と緊張に震えるツナを自分のマントでくるんで、ぎゅうっと抱きしめてくれた。迎えに来るのが遅くなったせいで辛い思いをさせてしまってすまなかった、これからは幸せにするからと、ほんの少しではあったけれど声を震わせてくれた。そんなことを言ってくれたのは彼だけだった。
細く小柄な割にしっかりとした体は、スーツ越しでもあたたかくて、優しくて、しかも彼はツナが安堵に泣くのを黙って許してくれた。何ひとつとして無理強いすることはなく、かといって見限ることもなく。今よりたった一歩先に進めればそれでいいのだと、他人のことなど気にすることはないのだと、教えてくれた。そうっと背中を押してくれた。
そう、良い「保護者」なのだ。それだけで十分でだったはずなのに。満足しなければいけないはずなのに。
(だって、あなたのことが、こんなに)
すきなんです。だが想いはかすかすと空気をふるわせただけで、音にはならないまま消えてしまった。
不意に、ぱしゃりと水たまりに足をつっこんだような音がした。おそるおそる顔を上げて視線を巡らせる。雨のせいではっきりとは見えなかったが、それは、紛れもなく子ライオンの前足だった。
「ナッツ?」
ペットにサンバイザーをつける飼い主を、ツナは、自分の養父以外にしらない。またこんな住宅地に野生のライオンがいるはずがない。迷うことなく名前を呼ぶと、どうしてか子ライオンは首を巡らせて後ろを向き、一声吼えた。
「うわ!ちょ、おまえ」
「ああ、ナッツ、見つけたか」
「……ジョット、さん」
呆然と呟いたツナにすこしだけ表情を緩めて、ジョットはナッツを抱き上げ、ツナに歩み寄った。
ライオンは目も耳も鼻もさほどよくないはずなのになんでジョットさんより先にここに来られたんだろう、と、ふわふわして落ち着かない頭でそんなことを考えた。だって、まともに思考なんか、できっこない。
ジョットがここにいる、それはすなわち、ツナが学校をさぼっていることがばれてしまったということだ。怒られる、追い出される。なにより失望させてしまうかもしれない。そんな現実を直視するのは、まだ十代半ばのツナにはつらすぎた。
しかし、ぎゅうっと目をつぶり身を固くしたツナの予想に反して、ジョットは普段通りの平坦な口調で、おまえのせいだと言っただけだった。
「おまえのせいだ。おまえが傘を差し掛けてくれないから、私はこんなに濡れてしまったじゃないか」
言葉面だけならばまるでツナを責めているようだが、目が、口調が、そうではないのだとつよくつよく語っている。
「……おまえが、早く立ちあがってどうにかしてくれないと、本当に風邪を引いてしまいそうだ」
ジョットはいつものマントもジャケットも身につけていなかった。傘もさしていないため、全身しとどに濡れて、ワイシャツなどは肌に張り付いて透けてしまっている。それなのに、その左手には、バッグと一緒に長傘がしっかりと提げられている。
「自分でさせばいいじゃないですか。その、オレなんかいなくたって……」
「私は傘を持っていない」
「は?え?じゃあ、それはなんなんですか?」
ジョットの手には、一本とはいえたしかに傘がある。だが当の本人は、静かに笑って、ツナに向かって手を伸ばした。
「これは、綱吉、おまえの傘だ」
ツナは、泣きたいのをこらえながら無理矢理笑ったようなぶさいくな顔をして、ジョットの手から傘をとり立ち上がった。その手は氷のように冷たいのに、かじかんだツナのそれをとろとろに融かしてしまうくらいに優しかった。
銀のパイピングがほどこされた紺色の傘は、ほとんど体ひとつでやってきたツナのために、ジョットが買ってくれたものだった。近所のスーパーマーケットで千九百円。ジョットはもっといいものを買ってやると言ってくれたが、ツナはこれがいいんだと譲らなかった。ジョットと初めて出かけた日に、初めて入った店で見つけたものだったからだ。
これのおかげで、ほんの少しだけではあるが、雨の日が好きになれたのだ。それがべつの悩みや月曜日と重なりさえしなければ、笑顔で行ってきますと言えるくらいには。
ばすんと間の抜けた音を立てて傘を開くツナをじいっと見ていたジョットが、ぼそぼそと続けた。
「なあ綱吉、私は困った男なんだ」
「はい?」
話題の転換についていけないツナが、コテリと首を傾げると、ジョットはくすくす笑った。珍しいこともあるものだ。一緒に暮らすようになって半年が経つが、これまでジョットが声を上げて笑うところを見たことはなかった。
「私はひとりでは傘もさせないような人間なんだ。おまえが隣で傘をさしかけてくれなければ、雨の日に外に出ることもできない。おまえがいなければ、大概のことはなにもできないんだ。おまえでなくてはだめなんだ……ふふ、おまえが同居をOKしてくれた日は、子供みたいにはしゃいで眠れなくて、ナッツにさえ馬鹿にされたな。それくらい、本当に本当に嬉しくて仕方がなかった」
なあナッツ。ジョットが言うと、ナッツは困ったように目を細めてツナを見上げた。まるで、ひとりじゃ手に負えないんだ助けてくれよと、ツナに訴えるような仕草だった。
「だから、おまえがどんな人間だって……狡くても、愚かでも、欲深くても。私にとって、大切な存在であることに代わりはないんだ」
まるで、ツナが今どうしてここにいるのか、わかっているかのような物言いと微笑に、気づけばツナは口を開いていた。
「お……おれは、ものすごく欲張りなんです。それでも」
「おまえは十分遠慮を知っているように思うが」
「そんなことない!」
確かに金銭や物質の面ではジョットの言うとおりかもしれない。けれど、ツナの言いたいのはそんなことではないのだ。
ジョットはツナを大切にしてくれる、いいお父さんだ。実の父親ではないし、生活能力は激しく欠如しているし、無表情だし言葉も足りない。けれどもツナの良き「保護者」であることに間違いはない。
だが、いまや、ツナにはそれだけでは足りないのだ。父から子に対する愛情は惜しみなく与えられている。本来はそれで満足しなければいけないはずだ。それなのにツナは、親子のそれだけではなく、恋人や夫婦の愛情までほしい。いつか、ツナ以外の誰かがそれを得るのだと考えただけで、いてもたってもいられないような気持ちになる。
「まあ、おまえがどんなに欲張りでも構わないさ。私……いや、俺たちは、もう家族になったのだから」
そう言ってジョットはゆっくりと、ツナにも十分追いつけるような速さで歩き出した。なにがあったってただついてくればいいのだと、そう言っているかのような背中に、泣き出してしまいそうなほど深く深く安心した。
「でも、ジョットさんはお父さんには見えませんよ」
からかうように、でもほんの少しだけ本当の気持ちを込めて、悔し紛れにそんなことを言ってみた。お父さんには「見えない」のではなく「見られない」のだけれど、そんなささやかな差異は涙を拭う手の下に隠して。泣いている理由はただ安堵だけなのだと思ってもらえるように、むりやり口許だけ歪めて笑顔を作った。
それなのにジョットは足を止めて振り向き、ぎゅうっと眉間にしわを寄せてしまった。
「ジョットさん?どうしたんですか?」
「いや、なに、父親に見られないというのならば……」
言い終わらないうちに、灰色の世界のなかでくっきり浮かぶ白い白い幼いツナの手をとって、おもいきり引いた。
「夫婦と思えばいい。家族であることには変わりないだろう?この年になって、しかもこんなに可愛い幼妻をもらえるとは男冥利に尽きるな。なぁナッツ、おまえのママンは可愛いな?」
そうしてジョットは腰を屈め、男のものとは思えないツナの唇を、自分のそれで塞いでしまった。
「な、な〜〜ッ!ジョ、ジョットさん、何を、」
「欲張りというのなら俺の方がよほど欲張りだ。もとより親子で終わるつもりなどないし、気持ち悪いと思われても、手放してなどやるつもりはない」
「……え」
「隠したりなどしたせいで、おまえに辛い思いをさせたな。もう何も我慢しなくていいぞ」
驚きに固まってしまったツナを腕の中におさめて、にんまりとジョットは笑う。二人の間に挟まれて、まるで本当に愛の結晶にでもなったかのように、ナッツがガオ、とひと声鳴いた。
雨はいつの間にかやんで、雲間からあおく澄んだ空がのぞいていた。