「お久しぶりです、ジョットさん」
名を呼ばれてゆっくりとそちらに目を向けた。
ここでこうして声をかけられたことは以前にもあった。だから、とうとう幻聴まで聞こえるようになったかと思ったのだ。だが、視線をやったその先には、ちゃんと最愛の女の姿があった。
「……あぁ、貴女か」
本当は駆け出したいくらい焦がれていたくせに、体が動かない。中途半端に立ち上がろうとしたまま固まっていると、ツナの方から近づいてきてくれた。
まるで気の早い紅葉のような猩猩緋の和服に薄いショールをはおり、そして、生成りのおくるみを抱えている。雨具はなにも身につけていないから、そのアンバーの髪はしんなりと湿り、ぽたりぽたりと滴まで垂れていた。
ツナは力なく頭を下げた。
「ごめんなさい。お、オレ、あんなことまで言ったのに、結局こんな」
「構わない。むしろこうして、会ってもらえて、嬉しい」
笑顔になっているのが自分でも解る。ずいぶんと久しぶりに笑えた気がした。
ジョットの返事に彼女は安心したように微笑して、隣にちょこんと座った。その腕の中で、子供は泣きもせず、大きな目でジョットをじいっと見つめている。瞳はやわらかな茶色、歳の割に豪奢な髪はブロンドに近く、どうみてもジョットの血を色濃く引いている。
「俺の子供か?」
「はい」
確認するように訊くとツナは俯き、ごめんなさいと言ってうつむいた。
「お願いがあってきたんです」
「部屋で聞こう。立てるか?」
問いかけに彼女は首を横に振った。
「ここでいいです」
そう言って頑なに動こうとしないので、仕方なく、マントを外して二人をくるむようにかけてやった。撥水加工されているから彼女も子供もこれ以上濡れはしないし、体温を奪われることもないはずだ。
「子供の名前は?」
「『吉宗』です」
「由来を聞いても良いだろうか」
「あなたの日本名が『家康』だからです」
息をのむジョットの横で、俯いたツナはひっそりと目を伏せて続ける。
「ボンゴレは会社なんかじゃなくて、イタリアのマフィアなんでしょう?」
「……どうして貴女がそれを知っている」
「信じられないかもしれないけれど、オレその十世の候補です。オレはもともと未来の世界で暮らしてるんです。どうしてここにきちゃったのかはわからないけど、本当は、あなたの来孫で、お、おとこで……どうして気づかなかったんでしょうね。こんなに似てるのに」
その言葉に、ジョットは深く深くうなだれずにはいられなかった。そうだ、うすうす感づいてはいたことだった。よく似た顔のパーツ、いっこうに見えてこない暮らしぶり、そしてありえない技術で作られていたハンカチ。別れがたいがために見ぬふりをしていたが、それがまさかこんな形で仇となろうとは。
ふと、膝のうえで白くなるほど握りしめられた繊手に目がいった。華奢な指、傷跡ひとつないすべらかで美しい甲。この手があんなに無骨な炎を纏って戦うだなんて、信じられない──信じたくない。
しかしツナは言葉を止めてはくれなかった。
「あっちの世界のオレは男です。どうして子供なんか産めたのか、それすら不思議なくらいなんです。時間が来たら元の世界に帰らなきゃいけなくて……でも、吉宗から目を離すわけにいかないのに、向こうにあの子は連れて行けないんです。それで」
「俺を頼ってくれたのか」
「都合、いいって、わかってるんです。でも他にオレにはどうしようもない……!」
大きな茶色い瞳からほろりと涙が零れおちる。死にかけのマフィアを見たって泣いたりしなかったくせにだ。目の前の小さな彼女のことを、改めていとおしいと思った。己の血を引く者と知った今でもなお、変わらずに、そう思った。
彼女にとってはどうなのかわからないが、プライドをかなぐり捨てて、罪悪感に押し潰されそうになって、それでも大切な子供を守ろうとする姿は、本当にうつくしいとジョットは思うのだ。ましてそれが、一度は妻にと望んだほどの女なのだからなおさらだ。
「貴女はすぐにそうやって自分を貶める。以前にも言っただろう、あまり俺の恩人をけなさないでくれ」
そうっと滑らかな頬を拭ってやる。
「俺はこうして頼ってもらえて嬉しいと思っている。一度失ったと思ったものだから、なおさら」
「ジョットさん……っごめ、な、さいっ」
「泣かないでくれ。あなたに泣かれるとどうしていいか解らない」
ジョットが言うと、きっと無表情なのに困った声音なのがおかしかったのだろう、ツナは涙声混じりではあったがくすくすと笑ってくれた。まるで雲間から差した陽のようなあたたかな笑みに、吉宗までもがどこか嬉しそうな顔をした。
赤子はおくるみの中ですやすやと眠っている。ただの赤子ではない。ボンゴレ・プリーモとデーチモ両方の血を引き、そして大空の炎を内に秘めた子供だ。
「吉宗」
ジョットは彼を抱き上げ、その名を呼んだ。
「ボンゴレは、代を重ねてもなお姿を受け継いでいく貝の名だ。過去から未来へ記憶を継承する。おまえがあれを継ぐことはないだろうが……」
いつかママンに会いに行こうな。言葉の意味などわからないだろうに、吉宗は、声を上げてそれを喜んだ。