ふと己のベッドに目をやる。あわててそらす。これで何回目だろうかと自問して、ため息をつく。そうしてまた視線がベッドへと向かっていることに気づくのだ。
 いっそ仕事にでも逃避できれば良かったのだが、イタリアで始末がついた以上、隠居の身ではするべきことなどそうそうない。
 先日、至福のひとときをそこで過ごした。少なくともジョットにとっては、あの時間はそう呼べるだけのものだった。至福、そう、この上ないほどに幸せな時間だった──だがツナにとってはどうだったのだろう。
 それは本当は考えるまでもないことだった。事後のあの、声を殺し顔を隠して泣いた姿を忘れることなど、この先百年経ったってできないだろう。だがしかし、彼女の行動を見、本心を知って、それでもなおジョットはこの執着を捨てることができないのだ。
 だから精一杯の妥協として、この邸ではなくこれまで通りあの寺で不定期に会うことにした。次の約束は望まない。キスはおろか手を握ることすらもしない、してはならない。正直に言えば苦痛だが、彼女のいないあの一ヶ月間を思い出してしまえば、隣に座って言葉を交わせるというだけでも幸いと言うべきだ。
 そう、幸せなのだ。たとえ二人の間に、これまでにはなかったこぶし一つ分の隙間があいたとしても。


 今回の件の火種はジョットがボンゴレのトップにいたときからあった。争いは避けられないことではなかったが、それには双方の努力と歩み寄り、なにより時間が必要で、そうしてボンゴレ二世はそれらを重要視しなかった。結局事態を収拾するのに、ジョットの名と影響力を持ち出す羽目になり、そうして事態の収束を望まない敵対マフィアの一派に撃たれたのだ。
 怪我の原因を教えて欲しいと言い出したのはツナだった。それでジョットは今回の抗争について、マフィアやファミリーを匂わせる単語を使わず、できるだけ一般企業同士の競合が行きすぎただけだと取れるように話をした。しかしツナはひどく驚いた様子で目を見開いている。
「……ボンゴレ?」
「ああ、ファ……会社の名だ。こう、貝の一種で、水底に棲み、代々姿を受け継ぎながら連綿と子孫を残していく。いい名だろう?」
「初代、二世っていうのは、その」
「そのままだ。俺が創設者なので『初代』あるいは『一世』、後継者が『二世』と呼ばれている」
 イタリア語だとprimoとsecondoだな。深い意味などなくつけたした一言だったのだが、ジョットの予想に反してツナはがたがたと震えだした。
「どうした!?ひどく顔色が悪いが」
 もとより色白だとは思っていたが、頬に手を添えて上げさせた彼女の顔は、更に血の気が引いて真っ白になっていた。まるで紙のようだ。
「な、なんでも、ないです。ごめんなさいオレからお願いしたのに」
「気にするようなことではない。貴女は少し気にしすぎるな」
 暗に遠慮など要らないのだというと、ツナはほうっと微笑んで、それからぐらりと前に傾いだ。
「ツナ殿!!」
 呼吸はやたらと速く、体温も高い。いったい何だというのだと狼狽える自分を、冷静な自分がしっかりしろと叱りとばす。嫌われていようが疎まれていようが、恩人かつ想い人である彼女をここで死なせてたまるものか。頭の中で必死に算段する。
(ここで助けを求めるよりも、邸まで連れ帰った方がいいな)
 動かすのは危ないかも知れないが、ジョットの邸には医者がいる。医学の心得があるかすらもあやしい僧や参拝客になど、大切な女を任せる気にはなれなかった。
 できるだけそうっと抱き上げて、死ぬ気の炎を灯す。ぐったりと力の抜けたツナの体はひどく軽く、このまま風に削られてさらさらと無くなってしまうのではないか、そんな危惧さえ覚えるほどだった。


 久しぶりに空を飛んで帰ってきた主に、邸は一時騒然とした。だが、イタリアから連れてきた使用人たちは慣れっこだし、要職にある彼らが的確な指示を出したことで、現地雇いのものたちもすぐにきびきびと動き出した。まったくいい家族たちだと、ジョットは後に述懐したが、このときはそれどころではない。大急ぎでツナを自分のベッドに寝かせ、自室でくつろいでいた医師を呼ぶ。
 医師はまず熱を測って脈をとり、それから猛烈な勢いで医学書をめくり始めた。
「一体何だ!?」
 ジョットの問いに、医師はまず検査が必要です、とだけ答え、控えていた女中に薬草を渡して煎じるよう命じた。
「この煎じ汁を飲ませます。今日のうちに腹が動けば、」
「動けば、何だ!」
 恫喝するジョットにたじろぎながらも、医師ははっきりと言った。
「こちらのお嬢様は懐妊しておられます」
 さらに、なにかひどく心身の負担になるようなことがあるから、母体と胎児の安全ためにはそれを取り除く必要があるだろうと続けた。多大なストレス、その原因は、彼女本人か、家族か、友人たちか、それとも──
 悶々と考え込んでしまったジョットの前で、ツナがゆっくりと目を開けた。まだぼんやりとした彼女に、医師が簡単に状況を説明し、煎じ汁を飲ませる。
 検査の結果がわかったのはそれから一時ほどが経ってからだった。


 ふたたび目を覚まして診断を聞いたツナは、うつむいて黙り込んでしまった。医師は退出し、ジョットも何も言わないから、室内はしんと静まりかえっている。呼吸する音さえ聞こてしまいそうなほどだ。
 懐妊。妊娠。それは二人にとって、とても大きな衝撃をともなう言葉だった。
 事の済んだ後ツナは泣いていた。ジョットにとってあの行為は幸せそのものだったが、彼女にとってはそうではなかったのだ。しかもその場限りで済めば忘れてしまうことだってできただろうに、よりによって妊娠とは。産もうが堕ろそうが一生の傷になるだろう。それに加えて、彼女は、このままずっと突然気を失う恐怖と戦っていかなければならない。
 ツナのことを一切考えないならば──つまりジョット自身の欲望だけを考えるならば、これはこの上なく喜ばしい状況だ。このまま責任を取ると言って娶ってしまえばいい、そうすれば彼女の一生は己のものだ。薄汚いマフィアの本性が顕現し叫ぶのを、理性が必死で押し戻す。体だけが欲しいわけではないのだ。添い遂げるのならば、彼女自身の選択によってでなければ何の意味もない。
「貴女さえよければここにいないか?ここなら人もいる、医師も呼べる。いつ倒れても大事には至らない」
 しかしそれにツナはゆるゆると首を振った。ごめんなさいそれはできないんです、返ってきた声はひどく弱々しい。
 それきり互いに無言のままたっぷり四半時ほどが経った頃、ヘッドボードに寄りかかって俯いていた彼女は、顔を上げ、背筋を伸ばして、悲しそうに笑った。
「子供は産みます」
「ツナ殿、それは、」
「……でももうあなたには会いません」
 短い間でしたがありがとうございました、医者代はかならずお返しいたしますと健気に言って、ツナはゆっくりベッドから降りた。支えようと腕を差し伸べるが、やんわりと断られてしまう。そうするともう、ジョットにはこぶしを握りしめることくらいしかできることがない。だから、揺れる袂がそばを通り過ぎていくのをただ見送ることしかできなかった。