山道はとても歩きにくかった。舗装などされていないからでこぼこだし、手摺りがわりになりそうなものもない。それに先へ先へと急ぐものだから、五歩進むたびに一回は転びかける。
それでも足を止めないのは、ひとえにジョットに会いたいがためだ。そのただ一つの願いだけがツナを突き動かしていた。
教えられたとおり、山道を七八分ほど下ったところに、重厚な鉄製の門があった。高さも幅もとても民家のものとは思えないスケールで、しかもその両端には、いつかディーノが連れていたような黒服の男たちが立っている。生来の人見知りであるツナにはとても近づけないような雰囲気だ。
けれど、もう自覚してしまった。嫌われるのはいやだし、なかったことにされるのはきっと辛い。けれど、それ以上に、会えないままに道を違えてしまうのがいちばん耐え難かった。たとえひどい言葉をぶつけられることになろうとも、冷たい態度に傷つくことになろうとも、最後にひと目ジョットの姿を見ておきたかったのだ。
何度も何度も深呼吸して、勇気を振り絞り、門衛に声をかける。おそらくは不審がっているのだろう、二人ともあからさまにツナを見ているが、かまうものかと精一杯平然とした表情を繕った。
「あ、あの、えっと、ジョットさんにお会いしたいんですけど……」
「お約束はございますか」
「う」
こわい、こわすぎるよ!内心で叫びながらも、ここで逃げたら意味がないのだとハンカチを握りしめ、男達に頭を下げる。これで駄目なら土下座でも何でもしようと腹を括った。
「ないです、けど、取り次ぎだけでもしてください!お願いします!」
「お名前は」
「沢田……いや、ツナです。それで解ってもらえます、きっと」
幸い男達はそう頭が固い方ではなかったようで、ツナが膝をつくより先に、取り次ぎだけならばと請け負ってくれた。
もし嫌われていたら、諦められてしまっていたら。その恐怖はいまだに拭えないが、ここへ来たことすら知ってもらえないまま一生会えないなどという最悪の事態だけは免れたのだ。詰め所で電話をかける黒服の背を見送りながら、ほうっと息をついた。安堵に膝の力が抜けそうだ。
男はすぐに戻ってきた。慇懃無礼だった先ほどまでとは一転して、まるで賓客にでも対するように、恭しくツナに頭を下げる。
「ジョット様がお会いなさるそうです。邸までご案内いたします」
「いやいやそんな!申し訳ないです、道だけ教えていただければ大丈夫ですよ!」
「いえ。必ずご一緒するようにと命じられましたので」
そう丁重に頭を下げられてしまえば、人の好いツナにはもう断れない。仕方なくツナは男の数歩後をおとなしくついて行くことにした。
門から屋敷までは、前庭というよりはやっぱり山だった。くっきり残った轍の外側には鬱蒼と木々が茂っている。直線距離はおそらくそうないのだろうが、蛇行したり傾斜したりしているため、運動不足ぎみで体力のないのツナは倍ほどにも感じられた。ジョットは毎日ここを通って、寺まで往復しているのだ。やっぱりすごい。申し訳ないよりも、誇らしいという気持ちの方が勝った。
「あちらが屋敷です」
「う、わ!」
それは「大きな家」というよりも「小さな城」といった方がしっくりくるような建物だった。西洋式の石造りのそれは、飾り気こそないがとにかく立派で、日本の山からはこの上なく浮いている。なるほど近隣で噂になるわけだと妙に納得した。
確かジョットは隠居していると言っていたはずだ。ならばイタリアにあるという本邸は一体どれほどの規模なのだろうか。考えても想像図すら浮かばない。
「こちらでお待ちください。主はすぐに参りますので」
「はあ……」
通された応接間は、一見簡素だが、よく見ればツナにも解るほど金と手間がかけられていた。勧められ腰掛けたソファは埋もれそうなほどスプリングが効いていたし、メイドに給仕してもらった紅茶はティーバッグのものとは香りが全然違う。
(ありえないんですけどー!!)
握りっぱなしだったハンカチを伸ばしたり畳んだり、カップにおそるおそる触れてみたり(口を付ける勇気はなかった)、そわそわとそんなことを繰り返していると、廊下から慌ただしい足音と、ブルーノ!と誰かを呼ぶジョットの声がした。おそらくさっきの門衛の名前だろう。早口の外国語で何か話しているのが聞こえる。
そんなのどうでもいいから早く入ってきてくれればいいのに!ツナの思いが通じたのか、ドアはすぐに開いた。
「ツナ殿」
「ジョットさん!」
彼がテーブルを回ってこちらに来る間ですら待ちきれない。はしたなく立ち上がって駆け寄り、伸ばされた腕の間に飛び込んだ。
会えなかった二十八日間を埋めるように、きつくきつく抱きしめあう。暑いし息苦しかったが、それでもこのまま離れてしまうよりずっといい。二人を分かつものはたとえ空気であっても許し難い。
「もう会えないかもって思いました。会いたか、た、のにぃ……ぉれ、」
「泣くな」
「でも」
「こうして会えただろう?だから泣くな」
ツナが頷くとジョットはそっと頭をなでてくれた。きっと汗ばんでいて気持ち悪いだろうに、そんなの少しも気にしていない、幸せそのものだというような顔で。
嫌われていたら、あるいは彼のことを嫌いになったと思われていたらどうしようとずっと悩んでいた。だがそれは杞憂だったのだ。嬉しくて死んでしまいそう、そう呟くと、ジョットが肩口で笑った。
「笑わないでくださいよう……」
「すまない、馬鹿にしたわけではないんだ。ただ、同じようなことを考えるなと思っただけだ」
わざわざここまで来てくれて本当に嬉しいと、ジョットは柔らかな声音で言って、ツナを抱く腕に力を込めた。くすぐったい気持ちを堪えきれない。くすくす声を上げてツナも彼のシャツの背を握りしめる。
正直、山門を出るのは恐かったし、この家はとんでもなく想像以上で尻込みしたりもしたが、こんなに喜んでくれるのなら来て良かった。この人のためにしてあげられることがあって良かった。
ツナの裡に澱のように積もった罪悪感でさえ、このときばかりは、ジョットの温かさにとけてきれいさっぱり消えてしまったように思えた。
話したいことはいくらでもあったが、いつまでも応接間にいさせるのは嫌だと言うジョットに手を引かれ、二階の彼の私室へと上がることになった。家の規模からうすうす想像はしていたが、私室といってもやはり驚くほど広く豪華だった。思わず自宅の二階部分と比較している自分にツナは苦笑する。たった一部屋と比べるのに、戸建てのワンフロアを引き合いに出すなんて馬鹿げている。
「お城なんて初めて入りました!」
そう言うとジョットは嬉しそうに笑った。
「貴女の家はどうなっているんだ?」
あんまりツナが驚いてばかりなので気になったのだろう。何故か彼はツナのことを良家の息女だと思っている節があるから、もしかしたらこれと同じような部屋で暮らしていると思っていたのかもしれない。
家は二階建ての一戸建て、部屋には机とベッドがあってー、と説明しかけて止め、代わりに空中にだいたいの見取り図を描いてみせた。
「オレの部屋は、あんまり広くないんですよ。ソファなんかないから、ベッドに座るか、ベッドにもたれて床に直に座るんです」
「こうか?」
「そうそう」
続きになっている寝室に引っ張り込まれ、ベッドに腰掛けたジョットに問われて、ツナは頷いた。ジョットは表情こそ変わらないものの相当驚いたようだった。
「客人もか?」
「え、まあ、失礼だとは思いますけど、家になんてよっぽど仲の良い友達くらいしか来ませんし」
「友達……山本と獄寺、か」
元々ツナの交友関係はそう広くないし、何度も話題に出しているので、名前を覚えてしまったらしい。気恥ずかしくなってツナは俯いた。
あでやかな椿を思わせる蘇芳色の着物が視界いっぱいに広がって、ああ自分はこの人を騙しているのだと今更ながらに罪悪感でいっぱいになった。どんなに女らしい服を着ていても、柔らかいからだや胸があっても、もとは男だ。それなのにこんな格好をして。それでも、いやに冷静な頭のなか以外は、手も足も鼓動を刻む心臓さえも、全身のあらゆる箇所が歓喜の叫びをあげているのだから、たちが悪い。
そんなことをぐるぐる考えていたから、自分が押し倒されていることにもすぐには気づけなかった。
「ツナ殿」
「え?えぇ!?」
「友人といえども男だ、こうならないとどうして言い切れる!……それとも、」
望んでいるのか。耳元で囁かれてぞわりと体が震える。
「そ、そんなわけないですよ!何言ってるんですかジョットさん」
見上げた彼の眉間にはぎゅうっと皺が寄っていた。こんな、悲しいような苛立っているような表情をさせてしまったのは間違いなくツナだ。それなのに、原因が全くわからない。わからなければ、改めなければ、きっと嫌われてしまうのに、だ。焦れば焦るほど肺のあたりが重く苦しくなって、呼吸ひとつするのさえ辛い。
こらえきれなくなって、ツナははあっと息を吐いた。驚くほど熱のこもった吐息だった。
どうしてか背中が痛くないなと思ったら、帯はすっかり解かれていて、更に袷もだらしなくはだけて肩が出てしまっていた。和服の着方なんか知らないから、脱がされるのは困る。そう告げるとジョットは手を止めるどころか、口の端を上げ、どこかうっとりしたような口調で言うのだ。
「ならば、ずっとここにいればいい」
「え」
「好いた女と常に共にありたいと思うのは普通のことだろう。それとも、他に男でもいるのか?獄寺か、山本か?それとも笹川か雲雀か……だが、相手が誰でも譲る気はない!」
初めて聞いた叩きつけるような強い声と、真剣な瞳のいろに背筋がぞくぞくと震える。
まるで、最初に会った時のようだ。ふとそんなことを思って、ツナもそっとジョットのシャツに指をのばした。ボタンを全て外して、白い肌をそうっと撫でる。まだ包帯は残っているものの、以前のような仰々しさはなく、彼がちゃんと生きているのだと心の底から安心した。
「男なんて……そんなのいるわけないじゃないですか」
「本当か?」
「本当です。オレ、会えなかった間、ずっとずっとジョットさんのことしか考えてなかった。なのにぜんぜん会えなくて、やっとお寺に行けたと思ったら、今度はジョットさんがいなくて」
ほろりと零れた涙を、ツナはほとんど脱げかけた着物の袖でそっと拭った。思い出した不安が半分、安堵が半分。それから縋るようにジョットの背に手を回した。そろそろと彼もそれに応えてくれた。
「すまない、誓って貴女を不安にさせるつもりはなかった。ただ、少しばかり忙しかっただけだ」
「また、怪我するようなことですか?」
「いや。ことが起きたのはイタリアで、俺はここから後継者に助言をしていただけだ。貴女にせっかく救ってもらった命を粗末にするつもりはない」
「……よかった」
思わずそう呟いていた。
「最初の時みたいなのは、もう、嫌です。あの後死んじゃってたらどうしようってずっとこわかった、ん、んむぅ……っ」
言い終わる前に唇を塞がれた。いつものキスとは全然違う。ぬるりとした舌がツナのそれを絡め取り、歯や上顎を何度も撫でる。ようやっと出て行ったと思ったら、今度は、名残惜しいとばかりに下唇をぺろりとひと舐めされた。
体中がおかしい。頭はくらくらするし、視界はぼやけてなにがなんだかもう解らない。それに、下着が濡れているような感触までするのだ。
「何これ、なんかへん、なに、やァ!」
体の内側が疼いて仕方ない。下腹に指を突っこんで掻き回したい、そんな衝動さえ涌いてくる。
しかしそんな自傷めいた行為をジョットが許すわけがなかった。あっという間に手首を取られ、つい先程までしていたように背に回されてしまう。
「腕はここに」
「でも……」
「大丈夫」
金色の瞳でじいっと顔をのぞき込まれる。綺麗だ、好きだ、体中が熱い、落ち着かない、でもほっとする。沢山の感情がごちゃ混ぜになって何も言えなくなり、結局ツナはジョットのなすがままになってしまった。
行為の最中はもちろん、全てが終わったあとでさえ、気持ちよすぎておかしくなりそうだった。女の体でいられてよかったと今なら思えた。女性だけが得られるこのほっこりとした感情を手にすることができて、嬉しくて嬉しくて仕方ない。
だがそれは、男だと知られたらただではすまないということの裏返しだ。恋愛経験の乏しいツナにはドラマの修羅場シーンくらいしか想像できなかったが、それでもう十分だった。幸せゆえだとジョットに言い訳して、嗚咽をかみ殺してひとり泣いた。みっともなく濡れた顔は、借りたシャツの袖で覆ってごまかした。
だから、そのときのジョットの表情を、ツナは知らない。