「誰か」が存在している、ただそれだけのことがこんなにも自分を苦しめるなんて、ねんねのツナは知らなかった。
 ジョットと逢瀬を重ねるたびに心臓は破裂しそうになり、かといって長いこと会えずにいると、今度は呼吸もままならない。傍にいるときにはツナの心は舞い上がってふわふわ浮遊しているのに、離れている間はまるでこの世の終わりみたいに沈み込んでしまう。気付けばいつもぐったりとしているのだが、しかし、その疲労すらどうしてかいとおしい。
 ジョットとはもちろん毎日会えるわけではなかった。それどころか、十日や半月あいてしまうことさえもあった。それでも彼は、ツナに事情があるということを汲んでくれているのか、そのことについて少しも責めないでいてくれる。
「隠居というのは案外暇なものでな、することなどないくせに時間だけはたくさんある。だから貴女が気にするようなことはない。楽しみがあるだけずっといい」
 いつも待たせてしまって申し訳ないというツナに、彼は穏やかにそう言った。優しい人だと思い、彼に同じだけの優しさを返せない自分が悲しかった。
 三度目の逢瀬の際に、彼は、手当ての時に血まみれにしてしまったものの代わりにと言って、繊細なレースのあしらわれたハンカチをくれた。どうやらジョットはツナのことを本物の女だと思っているらしかった──というか、どういうわけかあの世界にいる間ツナの体と着衣は女になっている。自分の体が変化しているのか、それとも精神だけが別の体に入っているのか。頭の悪いツナにはよくわからない。わからないから、気にしないことにした。下手に考えて、ジョットに会えなくなるような「何か」に気付いてしまうのが、たまらなく恐ろしかったのだ。
 二人で境内を歩き、時にはあの大岩にかけて、とてもたくさんの話をした。ハンカチとかわいらしい細工の砂糖菓子、愛情、言葉、そして甘い甘いくちづけ。貰ったものは勘定すれば両手の指で足りてしまうほどだが、それらに喚起される感情は果てしない。移動の際に決まっておきる頭痛も吐き気も、彼に会うためだと思えばすこしも辛くなくなった。
 少しずつ別れ際のキスは長く長くなっていった。


 生徒手帳にはカレンダーが付いている。多くの中学生がそうであるように、ツナもそれを特に活用したりはしていなかったのだが、ジョットに会ってからは変わった。毎日毎日のページを開き、会えた日にはマル印を、そうでない日にはバツ印をつけているのだ。そして、昨日までに、二十八のバツ印が並んでいた。
「はー……」
 あのひとが、ツナが彼に会うのが嫌になったんだなんて誤解していたら、あるいは待ち続けるのが馬鹿馬鹿しくなってあそこに来るのを止めてしまっていたら。そう考えるだけで、じりじりと焦りがこみ上げてくる。ここ何日間はずっとそのことだけで頭がいっぱいで、他のことにまで気を回す余裕がない。授業も、友達との会話も、リボーンの修行も、なにもかもが上の空だ。
 今も手帳を仕舞おうとしてペンケースを落としてしまった。入れ物自体は布製だったが、ファスナーが開いていたせいで中身が飛び出してしまい、それなりに悲惨な音がした。
「なにやってんだよダメツナ!」
 後ろの席に座っていたクラスメイトが、からかうような口調で言う。ダメツナ、それはもう十年近くもの間使われ続けたあだ名だ。だが、ツナは今回はじめて、それに赤面した。馬鹿にされて恥ずかしかったためではない。
 ──頼むから俺の恩人を駄目だなんて言わないでくれ。
 あのときのジョットは怖いくらいに真剣だった。それなのにツナの手を握る彼のそれはどこまでも優しいのだ、思い出すだけでますます胸が苦しくなる。痛いのではない。ずきずきするようなせつないような、甘くて苦くて呼吸すらできないほど重い重い、
(恋?)
 思い至った途端に頭を机にぶつけてしまった。しゃがんでいたため角が後頭部にあたってとても痛い。だがツナはそれどころではない。
(いやいやオレ京子ちゃんが好きなんだよな?ていうかオレ男だしな、うん!)
 だが他にキスを嬉しいと思うような理由など思いつかない。いや、そもそも、男にキスされて嫌でない時点で、答えはもう出ていたようなものではないか。
「……みんなあのひとが悪いんだ」
 半ばやつあたりのようにそう呟いた。
 だってあれだけ立派な人が、まっすぐツナの顔を見て、貴女のおかげだとか恩人だとか言って、抱きしめたり、キスしたりしてくるのだ。舞い上がらない方がおかしいに決まっている。たとえ、それらの行為が、ツナが女の姿をしているゆえであっても。
 よろよろと立ち上がって椅子にかけ直しはしたものの、背筋を伸ばす気力すらもうない。そんなツナの態度を不審に思ったのか、悩み事だろうかとこれまでそっとしておいてくれた獄寺と山本、それに京子と彼女に付き合って黒川花までもがツナの周りにあつまってきた。
「なんかツナ君今日おかしいよ。大丈夫?」
「具合でもわりーのか?」
「夏風邪ですか!?十代目は繊細ですからっ今すぐ病院に……」
 心づかいはありがたいが、感情がすぐ顔に出るツナとしては、もう少しほうっておいてほしい。早いところどこかにいってくれと失礼千万なことを考えながらあいまいな笑みを浮かべた。
「うん、まあちょっといろいろあってさ……本当大丈夫だから。心配してくれてありがとう」
 皆納得はしないようだったが、ツナが平気だと言い張るとそれ以上詮索はしないでいてくれた。ただ、せめてもと京子がポケットに手をやる。
「はいこれ。すごい汗だよ!拭かないと風邪ひどくなっちゃう」
 そんな優しい言葉と共に差し出されたのは、白く可愛らしいレースのついたハンカチだった。勿論中学生にふさわしく、布地は薄くレースの幅も狭い、鞄にしまってあるあの貰い物とは比べものにもならないような安物だ。だがそれでも、ジョットの耳障りの良い声やしなやかな指を連想させるには効果覿面だった。
「うあ……」
「ツナ君!」
 こんな布きれ一枚でここまでおかしくなってしまうだなんて、いったい自分はどうしてしまったというのだ。いくら自問しても、一度自覚してしまった今となっては、答えなどあれひとつきりしか思い浮かばない。
 もう呼吸をするのさえも億劫だ。このまま意識を手放してしまいたい。
 視界が揺れ、慌てたような獄寺と花の声が響く。非常にうるさい。だがこの感覚は待ち侘びたものだ。座ってすらいられないほどしんどいくせに、頭の中では歓喜の歌が鳴り響いている。
 前回顔を合わせてからもうひと月が経つ。会えない間は寂しくて寂しくて、これからもう会えないかもしれないだなんて想像してしまうと、得体の知れない真っ黒な感情に押し潰されそうで恐かった。
 彼に会える、ただそれだけのことがこんなに嬉しい。ああ、これはやっぱり、恋だ。


 下駄をかつかつ鳴らしながら境内を駆ける。初めてのあの日よりは幾分慣れたものの、やはり足取りは危うい。けれど、ゆっくり歩くだなんて、今のツナにはできなかった。
 きれいに手を入れられた庭も、そこが一望できる四阿も、山門脇のいつもの大岩も。どこにもジョットの姿はない。墓地を一周し終える頃にはもう、涙をこらえるのでいっぱいいっぱいだった。
(一ヶ月もこなかったんだから当然だよ、な……)
 膝から力が抜けて立っているのもおっくうだった。ひどく緩慢な動作で竹垣の傍にうずくまる。
 ここがツナのよく知る並盛の町ならば、とうに山をおりて街までジョットを探しに行っているだろう。だがここはそうではない。山門を一歩出てしまえば、そこはもう異世界そのものなのだ。
 長く会えなかったことを謝罪して、好きだと伝える、ただそれだけのことも容易ではない。己の無力さや情けなさに滲む涙を乱暴に拳で拭った。貰ったハンカチを使う資格はない。


 どれくらいそうしていただろうか。もしもし、と声をかけられ、ツナははっと顔を上げた。
 そこには青年が一人立っていた。夕日を背負うようにしているから逆光で見えにくいが、和装で、人の良さそうな雰囲気を纏っている。剃髪はしていないから、僧ではなく、檀家かなにかなのだろうとツナは当たりをつけた。
「どこか具合でも悪いんですか?」
「あ、ちが……すっすみません!ちょっと人を探してて疲れちゃって」
 会えなくて悲しかったのだ、とはさすがに言えず飲み込んだ。だが男は察してくれたようだ。ツナのことを咎めることもせず、にこやかに問う。
「もしかして、あの金髪の方ですか?」
「え?なんでそれを」
「以前お二人でいらっしゃるところをお見かけしましたので」
 なんだかとてもいたたまれない。
 ツナが赤面すると彼はますます笑みを深くした。まるで孫か何かを見守る老爺の顔だ。ツナに祖父母はいないが、もし彼らにジョットや京子の話をしたら、きっとこんな表情をするのだろうと思った。
 彼は座り込んだままだったツナを立たせて、それから山門の先をまっすぐに指した。
「彼のお屋敷はここを少し下ったところですよ。行けば誰でもわかるでしょう」
「え?」
「彼は目立ちますから、檀家の間でよく話題に出るんです。この道をまっすぐ行くと、右手に大きな門があります。そこが彼の住まいですよ。……大丈夫、」
 あの人はあなたのことをちゃんと好きですよ、付け足された言葉にどきりとした。ほんとうにそうならどんなにいいだろう。きゅう、と袷を握って俯いたツナを奮い立たせるように男は言う。
「だってあの人、僕と会うたびに、血相を変えてあなたを見ていないか訊いて行くんですよ。それが終われば延々のろけを聞かされて……愛されてますねえ、ツナさん」
 間延びした笑い混じりの言葉が強く強く背を押した。
 そうしてツナは、はじめて山門をくぐった。ここは異世界だ、だがそれでも行かなければならない。ひとりで見知らぬ土地を行くことよりも、ジョットに会えないことの方が、ずっとずっと恐ろしいからだ。