何をしていても彼女のことが頭を離れない。
 自宅にいれば、彼女は無事に帰れただろうか、服を破いてしまったことを家人に叱られていないだろうかなどと延々と案じてしまうし、これではいかんと外に出れば出たで、目についたあらゆるものを彼女に贈りたいだなんて、馬鹿みたいなことを考えてしまう。
 こんな自分ははじめてだ、ジョットはため息をついた。
 失血にかすむ目でではあったが、ジョットは確かにその姿を見た。身なりはよく、きめ細かい真っ白な肌に、ふわふわと風に揺れる亜麻色の髪も、涼やかな水色の着物もとてもよく映えていた。美少女といっても決して大げさではないだろう。だが、凍てついていたジョットの心に灼きついたのは、そんなところではない。
 気弱そうなつくりの顔はあきらかに強ばっていたし、細い体は震えていた。間違いなく彼女は血まみれのジョットを見て怯えていたのだ。それなのに決して逃げ出すことはなく、大丈夫だ大丈夫だとおそらく自身に言い聞かせながら、高価そうな持ち物を台無しにしてまで助けてくれた。遠のく意識の中で聞いた、あなたはぜったいに助かりますという囁きは、きっと彼女のものだったに違いない。
 聖女とはああいう女のことを指すのだろう。イタリア育ちのくせに信仰をもたなかったジョットでも、彼女にならきっとあらゆるものを捧げられると思うのだ。
 彼女のことをほんの僅かでも考え出してしまえば、もう我慢などできなかった。
「少し出てくる」
「お戻りは」
「わからん。だが、おそらくは、夜になる」
 イタリアから連れてきた老執事に言い置いて、自宅を出た。
 彼女に見つけてもらえることを期待して、服はあの日のものにできるだけよく似たスーツとマントを選んだ。懐には砂糖菓子と、真新しいレースのハンカチが入っている。
 ジョットが意識を戻したとき、彼女はどこにもいなかった。まるで生死の狭間で見たまぼろしのように。けれど、そうでないと主張するかのように、脱がされたジャケットの傍に、べっとりと血のついたハンカチが落ちていたのだ。ジョットはそれを彼女に返すべく持ち帰ったが、血痕は洗っても洗っても落ちなかった。
 当然ジョットは、それならばと、同じハンカチを新しく用意しようとした。しかし、どの店にも同じ物どころか似たような品すらなく、また作らせようにも、職人に技術的に不可能だと断られた。綿でも絹でもない再現不可能な素材でできていて、その柄も今の染色技術ではどうにもできないというのだ。結局ジョットにできたのは、彼女に似合いそうなまったく別のハンカチを用意することだけだった。この一件はジョットをひどく落ちこませたが、同時に彼女の神秘性を強調する結果となった。
 すべてを手にしただなんて傲るつもりはもちろんない。それでも、受けた恩に対する礼くらいは十分にできるつもりでいた。だが現実には、ハンカチ一枚用意できずにいる。確かに彼女はこれを持っていたというのにだ。
(ああ、なんて情けない。彼女はあんなにも立派なひとだというのに)
 だからいまだ彼女に会えないのだろうか。気弱になると何を考えるのかわからないのが人間だが、ここまでくると我がことながら笑えてしまう。
 自力で動けるまで恢復してからすでに七日目になる。ジョットは毎日欠かさず件の寺に足を運んでいたが、いまだに彼女に会うことができずにいる。もしかしたら、先日のことを家人に咎められ、外出を許してもらえないのかもしれない。それはとても申し訳ないし、また悲しいことだが、そんな理由なら幾日だって我慢できる。
 ジョットがもっとも恐れているのは、嫌われるか怯えられるかしてしまい、もう会いたくないと思われている場合だ。そうして、残念なことに、その可能性が一番高かった。当然だ、血まみれで行き倒れていた男に好意を抱く女が、いったいこの地上に何人いるというのだ。
 まだ名前すら聞いていない。礼も言えていないし、ろくに話もしていない。薄汚いマフィア上がりの男などにはもったいないほどの女性だとわかっている。だが、だからといって、何のアプローチもしないまま諦めてしまえるわけがない。
 今日こそいてくれ、祈るようにしながら山道を歩く。目的地はもちろんあの寺だ。


 足繁く山寺へ通ったり、街に買い物に行ったりと、かなり精力的に動いていたために自身でも忘れかけていたが、ジョットはつい最近死にかけた身だ。負った傷は、イタリア時代からつきあいのある住み込みの医者に、あの応急処置がなければ死んでいただなんて苦々しい顔をされてしまったほどひどかった。当然、長時間の活動はまだできない。
 ふうとひとつ息をつき、少しばかり休憩しようと山門脇の大岩に腰掛けた。山を抜けてきた涼風に汗が引いていき、心地のよい疲労が眠気を誘う。
 いつの間にかジョットはうとうとと微睡んでいた。


 からん、と下駄の鳴る音が聞こえて、はっと我に返った。いつのまに眠ってしまっていたのだろう。彼女が通ったのを見逃してしまってはいないだろうか──そんなことを考えながら慌てて顔を上げる。しかしその心配は無用だった。そう、真っ先に視界に入ったのは、あれほど焦がれていた少女だった。
「う、あ……あの」
「……っ!」
 彼女は心配そうに眉をきゅうっと寄せ、膝と腰をかがめてジョットの顔をのぞき込んでいる。彼女までの距離は、手を伸ばせば届くほど、近い。夢ではないかと疑い、そうでないと証明したくて、そっと枯色の袖口をつかんで引き寄せた。抵抗はほとんどなかった。その頼りのなささえいとおしい。
 冷酷無慈悲とまで言われた自分がまさかこんなに骨抜きにされるだなんて、果たして想像しえた者がいただろうか。考えるとおかしくて仕方がない。
「久しいな。立ったままでは疲れるだろう、座るといい」
 隣を示してそう言うと、彼女は小動物じみた所作でちょこりと座った。
「あ、ありがとうございます」
「礼を言わねばならないのは俺の方だ。今こうやっていられるのも貴女のおかげなのだから」
「そんなこと、ないですよ」
 ジョットが微かながら笑ってみせると、少女は慌てたように首を横に振った。瞳は潤み、顔は真っ赤、髪もぐしゃぐしゃだ。それでもあんまり一生懸命なので、止めようという気は起きなかった。
 代わりに、気がかりだったことを問うてみた。
「誰かに叱られたりはしなかったか?」
「え?」
「着物もハンカチも台無しにしてしまっただろう」
 そこまで言われてようやっと思い至ったらしい。少女はああと呟いて、それから忘れてましたと苦笑した。
 忘れてしまえるということはつまり、それが彼女にとって、大したことではなかったということだ。ジョットは内心胸をなでおろした。だがその一方で、少女はうつむき、せつない声で自嘲するのだ。
「オレって昔からドジで、しょっちゅう服破いたり、物なくしたりしてましたから。今更あれくらいじゃ何も言われませんよ」
 袷を弄りながら、少しだけ寂しそうに彼女は続けた。
「ダメツナっていうんですよ、オレのあだ名。なにをやってもダメだから」
「……なんだと」
「だからあなたが無事で嬉しいです。手当てしたけど意味が無かったらとか、逆効果だったらとか、すっごく心配だったから。オレでもちゃんとなにかできるんだなあ、って……あ、自分のことばっかりですね、ごめんなさい」
 そういって慎ましやかに微笑む姿を見てしまうともうだめだった。ふたたび腕を伸ばして、彼女の骨張った手を取った。傷の痛みなど少しも気にならなかった。
 ついさっきまで、会えないから想いが募るのだと言い聞かせてきた。現物を目にすることができないから、彼女がジョットの中で、自信の望む理想の女になっているのだと。だが、顔を合わせても幻滅など少しもせず、それどころかこうして一言言葉を交わす度にますます彼女に惹かれていく自分がいる。重症だ。そのうち彼女なしでは生きていけなくなるかもしれない。
 かたぎの女と家庭を築いた部下を、言祝ぎながらも馬鹿にしていた自分は一体どこへ行ってしまったのだろう。
「貴女の名は、ツナ、でいいのか?」
 問うと彼女はこっくりと頷いた。
「そうか。ツナ殿、頼むから俺の恩人を駄目だなんて言わないでくれ」
「……はい」
 ジョットの懇願に、ツナは涙目で何度も何度も頷いた。
 それにしてもダメツナとは酷い。言い出したのは、非の打ち所などひとつもない、さぞかし完璧な人間なのだろうな。ジョットは皮肉を込めてそう嘲った。止めなかった周囲の者らも同罪だ。彼女のことを蔑む見ず知らずの連中を、一人残さず殺してしまいたい。
 俺のところにいれば、そんな顔をさせる全てのものから守ってやれるのに。そう言ってしまえないこの微妙な距離が悔しくて仕方ない。