男物の香水の匂い、続く外泊、そして濡れ髪での帰宅。妻が何をしているのか、何のためにしているのか、そのどちらもスクアーロはちゃんと解っている。しかし、だからといってそれに応えてやるつもりなどない。もとより愛してなどいなかったから、ためらいも罪悪感もない。
スペルビ・スクアーロは大マフィアの幹部である。いまだにマフィアの世界では愛人の数がステータスという考え方が根付いており、彼もまた多くの愛人を抱えていた。
しかしある時を境に彼は、ばっさりとその全てを断ってしまった。当時は結婚が決まったせいだと噂された。しかしスクアーロが妻を抱くことはなく、また両者共にセックスレスな関係だということを隠さなかったため、現在もイタリアでは様々な憶測が飛び交っている。
「一番有力なのが、俺が不能になったって噂だなぁ」
「……どこがだよ」
ベッドに沈み込んだまま、ツナは呆れたようにぼやいた。声はすっかり枯れている。そのことに気づいたスクアーロが、ミネラルウォーターのボトルを差し出した。
「あ、ありがとう」
丁寧に礼を言われる度いつも、スクアーロは胸のどこかが酷く痛いような気になる。もっともそれを顔に出すようなたちではないから、きっとツナは気づいていないのだろうが。
「なあ、綱吉」
「なに?」
「今日、どっか行くか?俺がこっち来てから籠もりっぱなしだろぉ」
「いいの?」
もう陽は高く、あまり時間はとれない。それでもツナは嬉しそうに笑った。
ツナはいつも、スクアーロが滞在中最大限にくつろげるようあれこれと気を遣ってくれる。今回彼がほとんど外に出ていないのも、おそらくは疲れたスクアーロを更に気疲れさせないための配慮なのだ。それはとてもありがたいのだが、同時にひどく申し訳ないとも思う。なにも、使用人のようなことをさせるためにこの家を用意したわけではない。
せめてもの罪滅ぼしにと、更に付け加える。
「ついでに夕飯も外で済ますかぁ。お前が嫌じゃなかったら」
「ヤじゃない!嫌じゃないよ!!すっごい嬉しい!!」
久しぶりのデートだと、唇だけで呟いたのがわかってしまって、スクアーロはますます情けなくなった。指折り数えてみればもう半年ぶりになる。
ツナのことを好きになって、愛して今こうしているはずなのに、結局寂しい思いばかりさせている。
己を縛るしがらみを、ボンゴレをこれほどまでに鬱陶しいと思ったことはなかった。
デパートの六階、食器売り場でツナが買ったのは白のグラタン皿とスープ用のボウルだった。
ツナはここ数年、白いものばかりを購入している。かつてはカラフルなものの方を好んでいたようだったから、これはきっと、あの家でひとり暮らすうちに身につけた嗜好なのだ。
白。汚れも模様もない、ただ「なにもない」色。ツナの空虚を見てしまったようで、スクアーロはそっと目を伏せた。
「だいぶ寒くなったからさ、」
そんなスクアーロの内心を知ってか知らずか、コートの生地をつまんでツナは笑う。
「明日はこれ使ってグラタンにしようか」
そして明後日の朝にあたらしい皿でスープを飲んで、昼過ぎにはこの地を発つのだ。申し訳なくて、情けなくて、顔を上げられなくなった。
会計をすませ、荷物を提げてエレベーターへ戻る途中で、宝石店のショーケースに飾られた指輪に足が止まった。どうしてか妻のことを思い出したのだ。控えめなツナとは正反対の、目立ちたがりででしゃばりで、自分が世界の中心だと信じて疑わない女。なぜか無性に腹が立った。
「どうしたの?」
「……いや、なんでもねえ」
抱いたことなどないし、結婚指輪だって式の後すぐに外して以来見ていない。どこにやったかもわすれてしまった。
もともとボンゴレのためにと命じられてした結婚だった。きっとツナにあとひと月早く会っていたら、他のどんな厄介事を押しつけられてでも断っただろう。その程度のつながりだ。
ボンゴレは既に、彼女の父親の率いるファミリーを完全に取り込んだ。だが彼女にはまだいてもらわなければならない──ツナを他のマフィア達から隠すための目くらましとして。ツナの存在を知れば、間違いなく彼女自身がいちばん危険な人物になるというのにだ。
切り捨てたいのに切り捨てられない、それは、ひどくフラストレーションが溜まる。
ショーケースを見たまま固まってしまったスクアーロに焦れたのだろう、ツナが控えめに声をかけた。
「ね、スクアーロ、おなかへってる?」
「あ、あぁ、まあなぁ」
「じゃ、もうご飯食べに行っちゃおうよ!オレ、この間、京子ちゃんに美味しいお店教えてもらったんだ」
すぐそこだからと微笑むツナに手を引かれ、スクアーロは鉛のように重くなった足を無理矢理動かした。みっともなくよろけたが、やわらかくあたたかい腕が支えてくれたので大事には至らなかった。
ツナの前では、築き上げた暗殺者としての体も技術もまったく役に立たない。情けないという葛藤は最初の一週間でしつくした。今はただ、そのありがたみに感謝するのみだ。
「いつも悪ぃな、綱吉」
体を寄せ合うように無人のエレベーターに乗り込んだあとで、ガラスの向こう側を眺めながらスクアーロはぽつりとそう言った。ずるずると愛人関係を続けてしまっていること、滅多に会えないこと、かといって手放してやることもできないこと。そういったあらゆるすべてについて、心の底からの謝罪だった。
ツナはいつもの微笑でそれを許した。
「オレはね、スクアーロ」
「何だぁ」
「本当はあなたと結婚して、死ぬまで寄り添って生きられたら、それが一番幸せだって知ってます。……でもそんなことできなくたっていいんです」
ただあなたのことを好きでいさせてくれればそれだけでいいんです。エレベーターの駆動音にさえかき消されてしまいそうな声は、微かに震えていた。
成人のものにしては小さな手が、スクアーロのコートの腰のあたりをそっと掴む。
「想うことだけ許してくれればそれで十分です」
「……ふ、ざけんなぁ」
掠れた喉からは掠れた声しか出ない。だがそんなこと気にならないくらい腹が立っていた。もちろん、ツナにそんな悲壮な決意をさせてしまった己に対してだ。
本当は少しだって悲しい思いなどさせたくはない。不安や寂寥を感じさせないためならば、どれだけ自分が重荷を背負っても構わない。今更ながらスクアーロは切実にそう思った。
エレベーターの回数表示を睨むように見やりながら、決意を言葉にする。
「来月また日本に来る。それまでに全部ケリつけてくる」
「な、何のですか」
「離婚」
もともと妻と別れずにいたのは、暗殺や誘拐や脅迫を彼女が引き受けることで、ツナを守れると考えたからだった。だから、ツナの身の安全さえ確保できるなら、彼女などいらない。
(ようするに俺が守ってやりゃあそれでいいんだ)
ボンゴレの本拠はイタリアだが、日本支部に人員を補充するという話が出ている。転属を申請し、アジア圏の仕事を中心にこなしていけばそれで済む話だ。留守の間ツナを任せられるだけの部下もいる──実際これまでも妻に対してそうしてきたのだ。一度決めてしまえば、どうしてこれまでそうできなかったのか不思議なくらいだった。
(二度とあんなこと言わせてたまるか!)
革手袋がぎり、と鳴るほどきつく手を握りしめ、スクアーロは目を閉じた。
ふたりがささやかな挙式を上げるちょうど半年前、寒い寒い秋の日のことだった。