行かないでと縋った。泣くな鬱陶しいと何度も叱られてきたから、嗚咽だけは必死にこらえたが、涙はきっとにじんでいたに違いない。それでもスクアーロは、このときばかりは怒らず、それどころかツナの体をぎゅうと抱きしめて、おまえがいいと思うように生きろと言った。
「必ず帰る、だがおまえがそれを待つ必要はねえ。どこでも、どんな形でも、生きててくれりゃあそれだけでいい」
どこでもどんな形でも。それはたとえば、ツナが病気になったり、あるいはどこかに──遠国に嫁に行っても、生きてさえいればそれだけでいいということだ。恋人、なのに。とうとうひくりと喉が震え、声が出せなくなった。
「な、んで、そんな!お、おれのこと、もう」
「勘違いすんな!一番大事なのはおまえの人生だろうがァ!」
怒声に思わず一歩後じさったツナのかかとが、こつりと何かに触れた。それはあの家の焼け跡だった。伸びきった雑草でもそこは覆いきれておらず、あちこちから黒こげの木材が覗いていたのだが、暗いのといっぱいいっぱいなのとで気づかなかった。
支えるように回された腕にそうっと手を重ねて、確かめるように問う。
「……ほんとに、帰ってくるの?」
「必ず」
「何年後?オレがドゥーニのおかみさんみたいになるまでには帰ってきてくれる?それとも、しわしわのおばあちゃんになるころ?」
恰幅のいい宿屋のおかみと、骨と皮ばかりのよろず屋の老主人を思い出しながらしたその問いに、しかしスクアーロは答えてくれなかった。
「駄目だよ、そんなにたったら、おれ、きっとしんじゃう」
「死ぬな」
「むりだよぉ……」
これがただの我が儘だという自覚はあった。だが一度言葉にしてしまえばもう止まらない。嫌だ行かないでと繰り返し、とうとう膝から力が抜けてへたりこんでしまった。
一方スクアーロの対応は短く厳しかった。何も言わずツナを無人の家まで引きずっていき、それから振り返ることなく村を出ていった。最後に聞いた声があれだなんて悲しすぎる。だがそれも自分のせいなのだ、ツナは声を殺して泣きつづける。そうしてまた朝が来る。
目を開けるとそこは玄関先のウッドデッキではなく、屋根裏の仕事部屋だった。太腿には縫いかけのパッチワークキルトが掛かっている。どうやら作業中に眠って、落としてしまったらしかった。
なんだかひどく変な予感がする。うたた寝からさめたのもこのせいだったのだろう。
ツナには昔からよくわからない能力がある。夢に出てきた人物に、何か大きな事が起きるのだ。だが本当に「何か」が起きると解るだけの、ひどく中途半端で馬鹿馬鹿しい能力でしかない。
(スクアーロのことだよな……悪いことでないといいけど)
彼が出て行った夜も、大けがをして帰ってきた日も、そうして共に罪と秘密を葬ったあのときも、予兆はあった。だがどうすることもできなかった。ツナが強く賢い女であれば避けられたのだろうか、そんなことばかり何度も何度も考え、後悔し、けれどなにひとつ変わることも出来ないままに日々を送っている。
自分が情けなくて仕方ない。今まさにスクアーロになにかがあったのかもしれないのに、それを知ることすらできない。彼は元気だろうか。怪我や疫病で苦しんではいないだろうか。奈々の遺した指輪を握るように指を組み、聖霊に祈る。
(苦しみも痛みもすべてオレのところへやってください)
そうしてあの人が幸せになれればいいと思うのだ──たとえその隣にツナ自身はいなくとも。
(Non dimenticare questo odio……)
禍々しく響くのその言葉は、ツナにとっては復活の呪文のようなものだ。なにか辛いことがあれば唱え、あるいは書きつけて奮起する。奈々が死んだときは、スクアーロに声をかけられるまで墓前で呟き続けた。京子が遠くに嫁いだ日は、おそろいだと言って買ったフォトフレームに彫りつけた。そうして恋人が村を出た夜は、たったひとり、泣きながら暖炉の裏に刻み込んだ。
がんばらなきゃ。いつかスクアーロが帰ってきた時に、彼の不在だった数年間を誇れない人間に成り下がりたくはなかった。ぐっと唇を噛みしめて、胸当ての編み上げを締め直し、家を出た。
村からおんぼろバスに乗り、このあたり一帯で一番大きな街へと向かう。
目的の店は、金持ち向けの商店の並ぶエリアにあった。このこぢんまりとした高級洋品店に一点ものの服を納めるのがツナの仕事だ。ツナは大抵のことはできないダメ人間だが、生前に母親が根気強く教えてくれたおかげで、料理と裁縫、そして植物の世話だけはそれなりにできた。彼女の死後、家事の一切を自分ですることになったとき、それらが生きる上でいかに重要か気づいて泣いたのだった。
予約・貸し切りが基本の店だから、表に"RISERVATO"の札がない限り特に遠慮はしない。適当にノッカーを叩いて中に声を掛けた。ドアはすぐに開いた。
「おはようございます」
「おはよう。突っ立ってないでさっさと入りなさい」
顔を出したのはビアンキだった。勧められるままにスタッフルームのウッディチェアにかけながら、珍しいなあと意味のないことを考えた。
客は入っていないにしてもばたばたしているのが常なのだが、今日はなぜかしんと静まりかえっている。ビアンキが眺めているのは伝票ではなく手紙だし、店員のハルはのんびりハーブティーなど淹れている。以前ツナが差し入れにと持ってきたものだ。
程なくしてビアンキがおもむろに口を開いた。
「で、ツナ、あなたどうしてここにいるの」
「え、どうしてって……納品にきたんだけど」
それ以外でこんな高級店に来る用事などない。ツナがごくごく当たり前のことを口にすると、ビアンキは僅かに顔を顰めてため息をついた。
「愛がたりないわ」
「は?何だよそれ」
「わからないのね、だからダメなのよ!今日はリボーンの知り合いの養子の部下の男が、プロポーズするために、玉砕覚悟で故郷に帰る日なの。あなたも見習いなさい!」
「知らないよそんなこと!だいたいオレはスクアーロのこと待つって決めたんだからいいんです!」
それはツナの本心だった。たとえば彼にどこか遠くで新しい恋人ができていても、生涯共に在ると誓い合った相手がいても構わない。彼が戻って直接そう告げられるまでは恋人も夫も作るまいと決めているのだ。なにしろツナは未だに彼のことが好きなので。
「と、とにかくはやく受け取ってよ」
木箱から布でくるんだ服を渡すと、受け取ったビアンキは手早く検品を終え感嘆の声を上げた。どうやらめがねに適う仕上がりだったようで、ツナもほうっと息を吐く。
代金を封筒に入れ、次の注文書はこれねと書類を弄りながら、彼女はまるで今思い出したかのように言った。
「ああ、今回納期がすこし延びるから。ハネムーン休暇よ、あなたも一週間くらい休みなさい」
「え?」
「解らないのならそれでいいわ。さっさと帰って幸せになりなさいな」
「……はあ」
さっきから彼女が一体何を言いたいのかさっぱり解らない。解らないが、とにかく言われたとおり店を辞した。
帰りのバスは昼過ぎで、どんなに早く帰ろうとしてもそれまで待つよりない。普段ならこの後マーケットへ行き、一週間の間に壊したカップや皿やガラス製品の代わりを買っていくのだが、珍しいことに先週はなにひとつダメにしなかったので、それまでどうやって時間を潰すか算段しなければならなかった。
ビアンキの言いつけ通り、村内で寄り道をすることなく帰路を急いだ。奇妙なことに、いつもならどうにかして遊んでもらおうとする子供達も、ツナねえばいばーいと手を振るだけで、近寄ってこようともしない。園芸用品や、調理用具や、飾り紐やリボンなどをごちゃごちゃにつめた巨大な荷物を持っているためありがたいのだが、どうにも気持ち悪い。
(なんで皆今日に限って変なんだろー……)
ビアンキやハルと村人の間に共通点があるとは思えないのに。疑問に思いながら床屋の角を曲がり、まばらな木立を抜け、自宅が目に入ったところで、凍り付いた。
ツナの家にはささやかながらウッドデッキがあり、テーブルと椅子が置いてある。そこに誰かが座っているのだ。長い長い銀髪で、背の高い、つまり──出て行ったはずのスクアーロが。
止めていた息を吐き、おそるおそる歩を進める。一歩、二歩、三歩……しかしそこで段差につまづいてしまった。
「ス、スク……わあっ」
「危ねぇ!」
がしゃん、とついさっきまでツナの足があったところに移植ごてが落ちる。いくら靴を履いていても、直撃していればしばらくは歩けなかったに違いない。揃ってしばらく硬直した後で、先に我に返ったのはスクアーロの方だった。大股で乱暴に歩み寄り、逃がさないというようにツナの二の腕をぎゅうっと握りしめる。
「何やってんだァこの阿呆!相変わらずとろいなぁ!!」
「うっうるさいな!大体なんだよ、帰ってくるなら手紙くらい書け!」
なにしろ五年ぶりの再会なのだ、もっとちゃんと出迎えたかった。街に行っていたから格好はそれなりであったが、髪はまだ跳ねあがっているし、服だってもっといいものを持っている。温かい料理やお風呂だって用意しておきたかった。色気などまるでないが、ツナだって一応年頃の女なのだ。
だがそんなことを知ってか知らずか、スクアーロは言う。
「手紙なんざ書いてる時間がもったいねぇ。んな暇があったら少しでも早く会いたかった」
「う、」
「……迷惑だったか。悪いな、明日には発つからよぉ」
その言葉に心臓がずきりと痛んだ。明日には、たつ。必ず帰ってくるといったからとりあえず顔を出しただけで──つまり彼は義理堅く約束を果たしに来ただけで──きっと遠いどこかで誰かと幸せになって、もう二度と帰ってこないつもり、なのだ。
スクアーロがそう望むのなら、彼の横に立つのはツナでなくとも構わないはずだった。だが実際その決断を目の前に突きつけられてしまえば、我慢などできないのだ。浅ましい自分に吐き気がする。
泣くな泣くなと思うのにぼろぼろと涙があふれて止まらない。昔のように怒られるだろうか、それとも呆れられるだろうか。もしかしたら鬱陶しい女だと思われて今すぐ見捨てられてしまうかもしれない。それなのに、腕も喉も、まったくツナの意思なんて尊重してくれないのだ。
「あ、あした、いっちゃうの……?」
「な、何で泣くんだぁ」
「迷惑なんかじゃないよぉ!オレずうっと待ってたんだ、行っちゃやだ、いかないで」
盛大な音を立ててツナの腕の中から残りの荷物が落ちた。グラスや陶製のポットは割れたかもしれない。金属のボウルはべこべこだろう。それでも袋の中身だなんて頭から吹っ飛んでいて、ただ両手が空いて縋りやすくなってよかったとだけ思った。
「オレやっぱりダメツナだけど、縫い物ならいちおうプロだし、母さんのみたいなごはんだって作れるようになったし、庭もキッチンハーブもいっぱい収穫できてるし、掃除だってがんばってるし、仕事だってちゃんとしてるし」
「ああ、服作ってるんだろ。知り合いに聞いたぜぇ」
「そうだよ!貯金だってちゃんとあるんだ!だから、その」
「何だぁ」
「お、オレじゃ駄目、かな……?」
およめさんにするの。震える声音は消えそうだったがちゃんと聞こえていたらしい。目の前の顔が、音がしないのが不思議なくらい一気に真っ赤になった。
「す、スクアーロ、だいじょうぶ?」
「お前なァオレのセリフ取るんじゃねぇ!」
「え?なにが?」
「……無意識かよタチ悪ぃ」
そうして自分の服からツナの指を丁寧に外し、左手をとって真摯に言うのだ。
「明日出ていくってなァお前が迷惑ならの話で、そうじゃねえなら、この先一生そんなことする気はねぇ。ずっとここにいる……綱吉、結婚してほしい」
何言ってるんだスクアーロ、結婚してほしいってこれまるでプロポーズじゃないか。脳内でそう呟いた途端にすべての疑問が氷解した。思わせぶりなビアンキの声が頭の中をぐるぐる回る。
(あなたどうしてここにいるの)
(リボーンの知り合いの養子の部下の男が、プロポーズするために、玉砕覚悟で故郷に帰る日なの)
(ハネムーン休暇よ、あなたも少しは休みなさい)
(さっさと帰って幸せになりなさいな)
間違いない、あれはこれのことだったのだ。今度はツナが赤面する番だった。
幸せになれと言ってくれた。じっとこの村で待ち続けるだけだったツナに、こちらから腕を伸ばしてもいいのだと教えてくれたのだ。金より愛だと言い切る彼女らしい、最高のエールに涙が滲む。
「する、するよ!オレスクアーロのおくさんになる!」
「おく……ッ」
絶句したスクアーロはまるで照れ隠しのように顔を背け、左手を放し、ツナがそれを寂しいと思う間もないほどすぐに抱きしめなおした。泣きながら見送るしかなかった五年前の夜と同じ抱擁に、ようやっと帰ってきてくれたのだと実感して、ツナの表情も緩む。とにかく嬉しくて嬉しくて仕方がないのだ。
そろそろと大きな背に腕を回し、涙でなく笑いを堪えながら問うた。
「ね、スクアーロ、覚えてる?」
「あ゛ァ?」
「Non dimenticare questo odio!」
それはツナがスクアーロからもらった、大切な大切なお守りのような言葉だ。
指輪の裏にも彫ってもらおうよ。笑いながらそう言うと、スクアーロははあっとため息をついてふたたびツナの手を取った。コートのポケットからビロードの小箱を取り出し、蓋を開ける。
「……え」
「あ゛ー、本当はそんなもんなんざ忘れちまえって、言うべきなんだろうがなぁ」
「一生忘れないでいいよ!ありがとうスクアーロ、だいすき!」
柔らかく輝くリングの内側には、ふたりのイニシァルも日付もない代わりに、件の文言がはっきりと刻まれていた。手袋を外した節くれ立った指が、ツナの薬指にするりとそれを填める。もう何年も会っていなかったからサイズなど知らないはずなのに、それははまるであつらえたかのようにぴったりと荒れた手に馴染んだ。
もうこれ以上、手を血まみれにして、木ぎれやフォトフレームや暖炉の裏に彫りつける必要はないのだと、何となくそう言われた気がした。きっと結婚指輪をもらってもこれを外すことはないだろう。このよろこびこそ忘れることなんてきっとないだろう、口の中で呟いて、ばれないようにそうっと涙を拭った。
その後村では、女性の生家の前でプロポーズする、というのが大ブームになり、更にそれは、声が大きければ大きいほど良いというオプションがついて、「幸せな結婚生活を送るための村独自の儀式」として見事に定着した。どこからか盛大な愛の言葉が聞こえてくる度に、村はずれの一軒家ではある夫婦が苦々しい笑みを浮かべていたと、彼らの息子は後にそう語っている。