剣の道と恋人。五年前、天秤の左と右にそれぞれ載せた。傾いたのは前者だった。
 ツナを守るためにと剣をとったのに、これでは本末転倒だ。そのことに気づいたのは故郷を出て二年が経った頃だった。だが既にスクアーロは引き返せないところまで来ていた。結局剣帝を倒すまでに更に二年を費やし、失った腕を補うのにもう一年かかった。
 ひょっとしたらツナはもうスクアーロのことなど忘れているかもしれない、あるいは忘れたことにして、新しい穏やかな生活を営んでいるかもしれない。だがスクアーロにとってはそれはむしろ喜ぶべきことだった。ツナが無事で、幸せに暮らしていること、彼にとって重視すべきことはそれだけで、そこに己がいるかどうかはそう重要でないのだ。
 一番優先すべきなのはいつだってツナで、彼女をバラのベッドに寝かせるためならば、自身は針のむしろで眠るのだって厭わない。それはかつて、業火を前に新たにした誓いだった。


 同僚達に頭を下げて帰郷の支度をした。突然のことでひどく迷惑を掛けたと思う。実際スクアーロの抜けた穴を埋めるために皆任務へとかり出され、屋敷に残っているのはルッスーリアひとりだった。
 屋敷のエントランスホールに立っていた彼は、彼に気づいて足を止めたスクアーロにひらりと手を振って、笑った。スクアーロもトランクを下ろしそれに応えた。どちらも、これまでプライベートで殆ど関わり合いがなかったと思えないほど、自然な動作だった。
「行くの?」
「ああ。何から何まですまなかった」
「まったくよ!着いたら手紙くらい寄越しなさいよ、住所もちゃんと書いて」
「てめえが馬鹿共に教えねぇって誓えばなぁ」
「そんなの無理に決まってるじゃない。バカねえ」
 普段ならここから殺し合いになったのだろうが、今日はそれきりだった。スクアーロは背を向けて、長年世話になった礼を改めて言った。ルッスーリアは達者でねと言ったきり、こちらを見ようとすらしなかった。


 もと同僚のルッスーリアやベルフェゴールとは違い、スクアーロは持ち物が少ない男だった。趣味は鍛錬の他には本や新聞を読むことくらいで、賭けごとも深酒もせず、ショッパーホリックということもない。仕事を辞めて故郷へ帰るといっても、荷物は来たときと変わらず、剣の他には古びたトランクとワックスペーパーの包みがひとつだけだ。
 出航まで十分時間があるのを確認して、港に面した喫茶店に入った。といっても食欲はなく、注文するのは飲み物だけにした。
「お客さん、船に乗られるんですか?」
「ああ、まあなぁ」
「運が良かったですねえ!今日は波も穏やかですし。昨日までは大荒れで大変だったんですよ」
 呵々と笑って主人が去ったのを確認してから、スクアーロは包みを開いた。ひしゃげたナイフと、白い塗料がところどころに残る板きれ──それはスクアーロの生家の燃え残りだった。人形のような無表情で残り火を見つめるツナの手をとって刻んだ禍々しい文字は、今でもはっきり読むことができる。Carlo, Dario, Enrico, Vito, Roberto, Pier, Luca, Luciano. Non dimenticare questo odio!
 スクアーロは健康ではあったが学はなかった。単語も文法も、アルファベートの綴り方さえもツナから教わった。おかげで今では、文学的表現の過剰な小説や、難解な専門書や、法律用語満載の契約書でもない限り、すらすらと読める。もちろん新聞もだ。
 ほとんどの雇用者は、こちらが文盲だと知ると、賃金や待遇をごまかそうとする。元同僚たちもそれでいらぬ辛酸をなめたことがあったらしい。スクアーロがそうならなかったのはひとえにツナのおかげだ。彼女から分け与えられたものと常に共にあり、それに守られるというのはとても幸せなことなのだと、その話を聞いたときに知った。まるで聖霊、スピーリトのように、彼女が距離すらも飛び越えて側にいてくれるような気にさえなる。
 コーヒーを一口啜って、何とはなしにするりと板の溝をなぞった。その深さに当時の想いが見てとれるようで、苦笑せずにはいられない。
(カルロ、ダリオ、エンリコ)
 かつて忘れるなと胸に誓った名前を、ひとつづつ丁寧に頭の中に思い浮かべる。
(ヴィート、ロベルト、ピエル、ルカ、……ルチアーノ)
 スクアーロは彼らを斬り、あるいは突き、血溜まりに沈めた。ツナは彼らを屋敷ごと荼毘に付した。どちらの目にも涙や後悔のいろはなく、ただ身を寄せ合って、炎がすべてを呑みこんでいくのを眺めていた。
 あの事件は大人達の間ではどう扱われたのだろうか。ふとそんなことを思う。
(少なくとも誰も話題には出さなかった)
 彼らは追求も叱責もしなかった。そのせいで、あの事件はふたりきりの秘密となったが、「秘密」の甘美さや高揚感とはほど遠い、ただ後味の悪いだけの思い出と成り下がってしまった。もっとも今となっては、それも些事に過ぎない。
 Non dimenticare questo odio──この憎しみを忘れるな!だが今スクアーロの中に渦巻いているのは、ツナに向けた愛しているという感情だけだ。


 店内の壁掛け時計を見やると、出航まで三十分を切っていた。主人に代金を支払って店を出た。
「ご馳走様。うまかったぜぇ」
「ありがとうございます。Buon viaggio!」
「Grazie」
 それからふと思い立って、隣のアクセサリーショップのショウウィンドウに飾ってあった、シンプルな髪留めをひとつ購入し、船へと向かった。控えめな光沢がうつくしい真珠のついたそれは、ツナの柔らかい色の髪によく映えるだろう。
 戻ってきたスクアーロを見て、彼女はいったいどんな顔をするだろうか。旅立ちの日のように泣きそうな顔をするだろうか、それとも笑ってくれるだろうか、困った顔をするだろうか。ああ会いたい。たったの三日をこんなにも長く感じるのは生まれて初めてかもしれない。