雲雀家の広大な敷地には、離れがいくつもいくつもある。様式や大きさは建てたものの好みや用途でまちまちだが、恭弥はそのひとつ、こぢんまりとした純和風の建物を気に入っていた。
 家族や使用人に聞いても、いつから使われていないのか、どうして使われなくなったのか、誰も何も知らないようだった。だから勝手に使うことにした。もちろん誰にも文句など言わせない。
 建物自体は気に入っていたのだが、けばけばしいインテリアだけは好みではなかったので、恭弥はまずおかれていた洋風の家具を運び出すところから始めなければならなかった。
(だれか女性でも住まわせていたのかな)
 ひどく古風なドレッサーやミシンを母屋にうつしながらそんなことを考えた。小さな恭弥には重労働だったが、それでもこれを他人に手伝わせる気にはなれなかった。
 残したのは、質素な風合いが気に入った薬箪笥一棹と、モダンなランプを一基ずつ。それに母屋の自室から持ってきた家具をあわせて、なんとか生活ができるほどになった。
 想像していたより遙かに快適になった。恭弥は満足げにひとつうなずいて、いちばん日当たりのいい部屋の古びた畳に横になった。心地のいい体制を探してごろりごろりと寝返りを打つ。
 声が聞こえてきたのは、ようやっと落ち着いて、眠りに落ちようとした、まさにそのときだった。
「  っく、ひ、ぅ、 っ」
 微かな音ではあったが、恭弥にはそれが泣き声だとはっきりわかった。十歳をわずかに過ぎたばかりの恭弥よりも、もっともっと幼い子供の声。だが、恭弥の家族も、使用人たちも、呼んでもいないのに大挙してやってくる親戚のうちにも、恭弥よりも年下の子供などいなかったはずだ。
「……だれ?」
 問いかけても返事はない。一瞬で頭に血が上り、気づけば大声を張り上げていた。
「ねえ、きこえてる?君がだれでどうしてここにいるのか知らないけど、今から探すから、逃げないでそこにいなよ!」
 恭弥は眉間にしわを寄せ、未だ止まない声の出所を探ることにした。部屋を順番にひとつずつ回って、聞こえる声の大きさを確かめていく。だが結局、一番はっきりそれが聞こえたのは、最初に恭弥が寝ていた部屋だった。
(隠し部屋、かな)
 壁はそう厚くないし、畳を上げるのはやっかいだ。なにしろ、今入れたばかりのものをすべて出さなければならない。それで、先に天井から探すことにした。
 薬箪笥から引き出しをすべて抜き、軽くなったそれを部屋の隅に寄せる。疲れた幼い体にはなかなか大変だったが、成果はすぐにあがった。箪笥を階段代わりにして一番上まで上がり、背伸びをして天井の隅を軽く押すと、その部分が跳ね上がって大人が楽に通れるほどの穴が空いたのだ。
 恭弥は箪笥の天板を蹴って穴に体をねじ込んだ。光源は板の隙間から射す光だけと薄暗く、湿っていてほこりっぽい。思わずくしゅんとくしゃみをしてしまった。
「ぁ、だれ……?」
 声と明かりに気づいたのだろう、暗闇の中もぞりと動いた何かが、かすれたあどけない声で言った。ひとの気配はしない。ならばあやかしか。警戒しながらも恭弥はその塊に近づいた。
 泣き声から予想していたとおり、そこにいたのは子供だった。がりがりにやせ衰えた体にぼろ切れを巻き付けて、縮こまるように身を丸めて座り込んでいる。乏しい明かりでも、頬が涙でべとべとになっているのがはっきりわかった。
 恭弥はひとつため息をつき、彼に声を掛けた。
「ちょっとまってて」
 子供は涙を拭うことすら忘れたように、目を細めて恭弥を見つめている。この子が置き去りにされただなんて思う前に戻ってこなければ。箪笥を一段ずつ降りるのすらもどかしくて、天井から床まで一息に飛び降りた。


 家中をかけずり回って必要なものをそろえ、離れの天井裏に戻ると、子供は泣きやんでいて、恭弥はそれに心底ほっとした。この子のそれは不快ではないけれど、やはり泣き声は好きではないし、泣いている姿は見たくない。
 恭弥が濡れタオルでべたべたになった顔をぬぐってやると、子供はひくんとのどを鳴らして、それからぽつんと言った。
「ありがとうございます」
 それから一度口を閉じ、しばらくもごもごとしたあとで、ごめんなさいと付け足した。
「オレ、うるさかったでしょ……邪魔をしちゃってごめんなさい。もう声出したりしませんから」
「べつに。うるさくないし、じゃまでもないよ」
 恭弥の返答に、子供はぽかんと口を開け、間の抜けた表情で首をかしげた。
「どうせたいくつだったし、きみはうるさくないから、とくべつにゆるしてあげる」
「うるさく、ない?」
「うん。うるさくないし、じゃまでもないよ。泣かれるのはイヤだけど」
 そう言うと子供はぱっと顔を上げ、それからみるみるうちに笑顔になった。なんだこれ、かわいい。恭弥の鼓動が大きく跳ねる。それをごまかそうと、恭弥は子供に向けて、持ってきた自分の服をつきだした。
「きなよ」
「いいんですか?」
「いいからわたしてるんでしょ、さっさとうけとりなよ」
 恭弥の服は子供には大きすぎて、シャツの袖もパンツの裾もまくらなければならなかったが、それでも子供は嬉しそうだった。ふわふわの髪を揺らしてうつむき、涙声で何度も何度もありがとうと繰り返す。恭弥は見ているうちになんだかいたたまれなくなってしまって、まだまだ短い腕を伸ばして、子供の骨ばった体をぎゅうっと抱きしめた。恭弥よりもおとなびた態度を取るくせに、その体は、恭弥よりも更に小さかった。
「ねえ、きみはだれ?どうしてここにいたの?」
 宙ぶらりんになってしまっていた最初の問いを繰り返す。子供は恭弥の胸に埋もれていた顔を上げて、少しだけ寂しそうに答えた。
「オレは、この家がなくなっちゃわないように、守ってます」
「は?」
「約束なんです。たとえ並盛に何があっても、この家だけは、オレがちゃんと守るって」
 そう言った子供の顔があんまり苦しそうで悲しそうで、恭弥は、その約束を交わした相手が一体誰なのか聞き出すことができなかった。
「あなたは?この家のひとですよね……」
 だって──によく似てる。弱々しくて聞き取れなかったが、聞いてはいけないような気がして、恭弥はそこには触れないままに自分の名を告げる。
「恭弥だよ。雲雀恭弥」
「きょう、や」
「うん。……どうしたの?」
 腕の中で真っ青になってがたがた震えだした子供に聞いても、返事はない。恭弥は仕方がないなとため息をついて、いつか街中でどこかの母親がそうしていたように、軽く背中をたたき、さすってやった。
 しばらく経ってから、子供は、喉の奥から絞り出したような声で、オレは沢田綱吉ですと名乗った。震えは恭弥の手が離れてもなお治まらなかった。


 恭弥はそれから綱吉を構い倒した。毎日屋根裏から学校へ行き、屋根裏に帰ってきて、屋根裏で食事をとり眠る。その奇行に家人たちはみな驚いたようだったが、とげとげしかった性格が丸くなったということで、誰も深く追求はしなかった。
 小学生のうちはすべて自分一人でしていた風紀委員の仕事も、中学にあがって部下が増えてからはできるだけ彼らに任せるようになった。もちろん、ツナと一緒にいる時間をつくるためだ。
「ただいま」
 学校から大急ぎで帰ってきて、離れの玄関で少しばかり大きな声でそう言うと、天井からばたばたと慌ただしい音が聞こえてきた。恭弥は口の端を僅かに上げて、学ランも脱がないまま、薬箪笥を足場にして屋根裏部屋へと上がった。
「やあ」
「きょ、恭弥さん!」
 嬉しそうに自分の名を呼ぶ声に少しだけ頬を緩め、恭弥は駆け寄ってくる子供を抱きしめた。
 ツナはバランス感覚があまりないようで、たいした距離でもないのに同じところで毎回躓く。仕方がないね、と頭を撫でてやり、それからそうっと背中に手をやった。指先はごつごつと背骨の形を伝えてきて心臓のあたりがぎしりと痛んだが、幸せいっぱいというような当人の表情に、まあいいかと思い直した。
「おかえりなさい!えっと、が……がっこう?お疲れ様です」
「うん。綱吉も留守番ごくろうさま。ありがとう」
 ツナはこくこくと何度も頷いた。
 しばらくそのまま抱き合っていたが、ツナがむずがりだしたので、恭弥は腕をはなしてやった。小さな体がまたくるくる動き回り、行燈に火を入れ、恭弥の定位置にふかふかの座布団を敷く。恭弥のために何かできるのが嬉しくて仕方ないらしい。
(……よかった)
 屋根裏は暗く狭く、冬寒くて夏は暑い。窓がないため光も射さない。だからどうか階下の部屋にいてくれと乞うのだが、一体どういう事情があるのか、ツナはいつも悲しそうに首を横に振る。せめてもと行燈や衣類や布団などを運び込みはしたが、どんなに快適に暮らせるようになっても、やはり不安は消えてはくれない──寒い寒い冬の日、真っ暗な闇の中でひとり、ぼろぼろの着物一枚で膝を抱えて泣いていた姿を知っているからだ。
 だから恭弥は、ツナが笑っていてくれることに、いつだって座り込んでしまいそうなほどの安堵をおぼえる。そして、その笑顔を絶やさないようにと、菓子や服や玩具を贈り続けるのだ。
 そのツナは、恭弥の向かいにちょこんと正座して、みやげものの入ったビニール袋をごそごそとやっていたが、不意に声を上げた。
「恭弥さん恭弥さん、これ何ですか?」
「それはチョコレート」
「チョコレート!オレ、大好きです!」
「うん。知ってるよ」
 初めてチョコレートを渡したときに、ツナは、そんな高級品もらえません!とあわてて突っぱねた。確かにそれはご大層な名前のパティスリーのチョコレートだったが、それでも高級品というほどのものではない。恭弥がそう言うと、ツナはおそるおそるというようにチョコの包み紙を剥がしにかかった。うまくいかないのは、元々の不器用さに加え、指が微かに震えていたせいだった。
 いまではすっかり食べ慣れ、好物のひとつとなったのだが、ツナはやはり丁寧に包みをむき、まるで惜しむかのようにちまちまと食べる。その様がもどかしくも可愛くて、答えなどわかりきっていたが、わざわざ恭弥は訊いてみた。
「どう?」
「おいしいです!本当に、ありがとうございます。こんな……おいしいもの」
 頬をうっすら桃色に染めて目を伏せるツナは可愛くて可愛くて、同じくらい哀しくて、恭弥はばれないようそうっとため息をついた。
 食べ物も飲み物も、ツナが着ているほつれひとつない着物も、淡い光をこぼす行燈も、いぐさの香りがまだ残る畳も、ふかふかの座布団も、すべて恭弥が持ち込んだものだ。それまでここには何もなかった。チョコレートどころか、光源のひとつすらもなかったのだ。
 誰がツナをここに閉じこめたのかは知らない。知らないが、まっとうな扱いをしていなかったことだけは明らかだ。殺してやりたい、恭弥の胸がじくりと疼いた。