十一月も半ばをすぎた朝のことだ。
遅刻ぎりぎりの時間になって、ひとりでとぼとぼとやってきたあの子があんまり寒そうだったので、たまたま手許にあったマフラーを貸してやった。
僕の好みで買った黒の無地のそれは、ふわふわで柔くてあたたかいあの子にはまるで似合わなかったが、ファッションにさほど興味も拘りもなかったし、防寒機能は高いからまあいいかと思ったのを憶えている。
まったく下心がなかったといえば嘘になる。あの子が僕の持ち物を身につけるのだと思えば戦うとき以上にぞくぞくしたし、返しに来るときにまた話ができると思えば、知らずのうちに校歌を口ずさんでしまうほど、気分がよかった。
「返すのはいつでもいいよ」
だからそう、浮かれて余計なことまで言ってしまったのだ。
あの時にもどって、自分に落ち着けと言ってやりたい。調子に乗って、あんな寛大でいい人ぶったことを言わなければ、今頃、少しくらいは進展していたはずなのだから。
マフラーを貸した相手、沢田綱吉は、月が変わって商店街がクリスマス一色になった今もなお、会いに来ない。僕はもう二十日もあの子を待ちつづけている。いい加減、限界だ。
「……っしゅん」
ぱきり。くしゃみをした拍子に嫌な音がしたので、まさかと思いながら手許を見ると、案の定ボールペンの筒が割れていた。
普段なら舌打ちのひとつもするのだろうが、そんな気力はもうない。ついでに、筆記用具もなくなった。沢田に会えないイライラと、ここ数日の冷え込みからくる風邪のせいで、すべて僕がダメにしてしまったのだ。
(購買にでも行くか。ちょうど気分転換にもなるだろうし)
それが言い訳だということは僕自身が一番よく分かっている。どうせこの足は、きっと、用などないはずの二年生のフロアーを通るのだ。それでも、その足を止めるだけの理性はもう摩耗しきっていた。
応接室からあの子の教室のある教室棟へ行くには、二階に設えられた渡り廊下を通るのが一番の近道だ。そこからは裏庭もよく見えるし、階下の会話もよく聞こえる。裏庭では、風紀を乱す草食動物たちが群れて息巻いていることがよくあるので、渡り廊下を通るときには、窓から裏庭を見下ろすのがすっかり習慣になっている。
今日も同じように、裏庭側の窓辺を歩きながら無意識のうちに階下を見て──そして固まった。
校舎の隣に設えられた灯油倉庫、その入り口の階段に腰かけた沢田が、隣の女生徒相手に、真っ赤な顔でなにやら話しかけていたのだ。
(なに、それ……僕にマフラーも返しに来ないままで!君は女相手に告白でもしようってわけ!)
猛烈に腹が立った。裏切られた痛み、ふられてしまった悲しみ。期待していたぶんそれらも大きい。それになにより、告白もしないままだったから、膨大な量の感情が胸の中で渦巻いている。
妨害に飛び出そうとする体をどうにかとどめ、窓を数センチ開けてその真下に座り込んだ。盗み聞きなど姑息だとは考えもしなかった。
「…………うよ?」
「あ、ちが、違うんだ」
「え?なにが違うの?」
「理由、それじゃないんだ。……その、えっと、笑わないでね」
「うん。笑わない」
理由?ああ、あの女を好きになった理由か。皮膚に爪が食い込むほど硬く拳を握りしめた僕の下で、沢田はふたたび口を開いた。
「あのね、その人、俺の好きな人なんだ。だから本当に嬉しくて……だって、優しくしてもらえたのなんてはじめてだったし……それに、その、会いに行く理由になるだろ?」
「うん」
「でもさ、だから返せないんだ。返すなら会ってお礼言わなきゃいけないだろ?」
「うん。本当に嬉しかったならなおさらだよね。それに礼儀知らずに思われちゃうのもイヤだし……」
「だよね!?でも、でもさ、オレ、ダメツナだしうまく喋れないから、直接会ったりしたら今以上に嫌われちゃうよ!!……はは、でも、いくら返すのはいつでもいいよって言ってくれたからって、こんなにずうっと借りっぱなしだったら、もう嫌われちゃってるかな」
「ツナくん……」
会話はまだ続いていたが、僕にはもうそれどころではない。
初めて優しくされた。返すのはいつでもいいと言ってくれた。本当に嬉しかった──好きな人なんだ。あの子のつたない言葉が頭の中をぐるぐる回る。
期待してもいいのだろうか。女と会っていたのは告白なんかじゃなくてただの相談で、あの子が返せないのは僕のマフラーで、そしてなにより、あの子が好きなのは僕だと、思ってもいいのだろうか。
それは少しも確証などない、推論というよりも願望に近いものだ。だが、これだけ長い間、かけらの希望も無しに焦がれ続けたのだ。射し込んだ一縷の光にすがりつくのを止められることなどできなかった。
勢いに任せて立ち上がり、窓を全開にして、二人の前へと飛び降りる。笹川京子の隣にちょこんと座っている沢田の、その細い腕の中には、見覚えのある黒いマフラーが、まるで宝物か何かのように、大切に大切におさまっていた。
ああ、嬉しくて、死んでしまいそうだ。
「ねえ沢田、僕は君が──」