ツナが帰ってきておよそひと月になる。その間、たったひとり「家族」が増えただけでこうも変わるものかと、草壁哲矢は感心し通しであった。
もっとも顕著なのが、主である雲雀だ。
彼はついひと月前まで、ほとんどの時間を研究と財団の運営に費やしていた。しかし、ツナが帰ってきたことでその暮らしは一変する。研究はほとんどやめ、仕事は限界まで減らしてしまい、今ではもうただの家族馬鹿と化してしまった。ひなが手伝ったのだといういびつなおかずを肴に酒を飲むその姿を見る度、目頭を押さえずにはいられない。
一方、その妻であるツナは、自分に子供や孫がいるという実感がまだ湧かないようだった。お母さんだとか、おばあちゃんだとか、奥様だとか呼ばれる度に、顔を真っ赤にして慌てている。それでも子供は好きなようで、今日も朝からひなのためにとケーキを焼いていた。彼女は非常に不器用なのだが、義理の娘のフォローもあって、仕上がりは上々だ。八つ時にはひなの歓声が上がるに違いない。
四半世紀もの間死んだように静まりかえっていたこの家は、いまやまるで生まれ変わったかのようだ。庭木や門扉、柱や梁や畳や障子紙に至るまで、なにもかもがいきいきと輝いている。
なんとすばらしいことだろう。草壁はひとつ頷いて、組んでいた腕を解き、台所へと向かった。
麻ののれんを持ち上げて中を覗くと、台所では母娘がならんで料理をしていた。
いつか雲雀が手紙で予言したとおり、ふたりの関係はすこぶる良好だ。ツナはちょっとしたことならば受け入れてしまうし、子育てや家事の経験が自分より多くしっかりした嫁を頼りにしているふしさえある。今朝作っていたケーキだって、ツナひとりではあそこまで綺麗にはできなかっただろう。
一方、嫁の方も、ふわふわと笑うおおらかな義母に好意を抱いているのは明らかだ。だが、仲が良いのは確かなのだが、どう見ても「歳の離れた姉妹」で、「嫁と姑」にはまず見えない。ツナが若すぎるのだ。
「何かお手伝いすることはありますか?」
声をかけると、ツナがくるりと振り向いて、にっこり笑った。まぶしい。まぶしいが、ここでうっかりときめいてしまえば、あとで間違いなく雲雀に咬み殺されるだろう。実際、風紀委員会時代を知らない、つまりツナの存在に耐性のない比較的新しい部下たちが、このひと月で数え切れないほど被害者となっている。
ぴしりと固まった草壁の様子からなにかを察したらしい嫁が、くすくす笑いながら、指示を出してくれた。
「そこのお皿、持っていってもらえますか?」
細い指の差す先には、こんもりと料理の載った大皿が並んでいる。彩りの見事なカポナータに肉じゃが、それにえりんぎのきんぴらと、どれもひなの好物だ。彼女は幼稚園の授業参観の日、好きな食べものはなにかと問われ、肉じゃがのお汁と、きんぴらと、しょっぱいお味噌汁と、醤油かけご飯、それに白身魚の刺身と元気よく答えたことがある。その話を本人の口から聞いたときには呆然とし、いったい誰に似たんだと三日間悩み通した。
「熱いんで、気をつけてくださいね!」
ふたたびのれんをくぐる草壁の背後で、華やかな笑い声があがった。
「……それはなに、あの子を母親と認めないってこと?」
「いや、父さん、そうじゃなくて!」
本気で苛立った様子の雲雀に、草壁までもが総毛立った。雲雀がこんな声を出すなんて、それも彼が密かに自慢に思っている息子に対してだなんて、滅多にないことだ。
真剣な話し合いを邪魔してしまうのは申し訳なかったが、草壁としても、はやくこの料理を並べてしまわなければならないわけがある。
「失礼します」
こつこつこつ、と襖の端を叩いてから居間にはいると、ローテーブルの角を挟むようにして、雲雀と息子がついていた。ふたりで何か深刻な話をしていたのだろう。だが、雲雀の機嫌は最悪だし、息子は伝えられないもどかしさからか泣き出しそうだ。
素早く考えを巡らせて、草壁は助け船を出すことにした。
「恭さん、ゆっくりしていていいんですか?そろそろ時間ですよ」
「……あぁ」
そうかもうそんな時間か、と呟いて、雲雀は立ち上がり、つられて顔を上げた息子の頭をひと撫でしてからすたすたと歩き出した。
「父さん」
「もういいよ。八つ当たりしてすまないね。半分は僕のせいでもあるのに……」
そこで言葉を濁した雲雀は、綱吉とひなを迎えに行ってくると言って居間を出て行ってしまった。残された息子は呆然としている。
「失礼ですが、一体何の話をしていたんですか?」
草壁がそう問うと、彼は、いつもどおりですよと苦笑した。こういう淀んだ表情はツナによく似ていると思う。彼は顔以外は両親にとてもよく似ている。顔立ちだけは、雲雀でもツナでもなく、雲雀の祖父似なのだが。
ちなみに彼が育ち、顔立ちがはっきりしてきた頃、雲雀はちらりと不満げな様子を見せた。ツナと自分に少しずつ似るか、せめてどちらかによく似るかしていてほしかったらしい。しかし、その後はそんなそぶりはまったくみせず、息子を彼なりに大切に育て上げた。──ごくごくたまに、ツナかわいさに厳しくなることはあっても。
「僕が母さんにぎこちない態度取ってるって。それで僕が、母さんのことを、母さんって感じがあんまりしないって言ったら、本気で怒られちゃって」
「ああ……なるほど」
そのたまにが今だったのか、声音にまで諦めが混じってしまった。
おそらく彼は、ツナの見た目が若すぎるだとか、そういうことを言いたかったんだろう。その気持ちは、たった今台所で彼女の並んだ姿を見てきた草壁には、わかりすぎるほどよくわかった。だが、いまいち感覚のずれた雲雀は、そうはとらなかったようだ。
「大好きですからね、綱吉さんのこと」
「ははは……父さんと母さん、あのドームの中で、ずーっとイチャイチャしてたんですよね。草壁さんは見ないですんで良かったですよ」
「いえ、私はドームに入る前のふたりをずっと見てきましたから……」
雲雀とツナのことなら、甘酸っぱい片思い時代から、告白、初デート、各種イベントから結婚式に出産まで、すべて知っている。確認したわけではないからたしかではないが、初めての夜がいつだったかもだいたいわかっているし、目の前の青年ができた日も見当が付いているのだ。
そんな草壁の何とも言えない感情を悟ってくれたのか、雲雀にもツナにも似なかった青年はまた苦々しく笑って、いつもいつもありがとうございますと頭を下げた。
ひなの家族は、ずっと、父と母、草壁哲矢、それに祖父の五人きりだった。その祖父も、ある時ふらりといなくなってしまった。ほかの友達にはたいてい祖父母が四人いるものだが、ひなには一人もいない。それがとても寂しかった。
ところが去年、すばらしいことがおこった。夏前にいなくなった祖父が、祖母を連れて帰ってきてくれたのだ。初めて会う祖母は、優しくてかわいくて、それでいて、守られているだけなんてイヤですオレも一緒にがんばります!というような人だった。小さいながらも女の子のひなは、そんなツナにどきどきして、大きくなったらあんな人になりたいなと思っている。
街の皆は祖父のことを恐ろしいというけれど、ひなにはとても優しい人だ。けれど、ひなは知っている。優しい祖父は、祖母にはもっと優しいのだ。
祖父が仕事に行くときには必ず玄関でキスしているし、食後の団らんの時間にテーブルのしたでそうっと手をつないでいたり、ひなを幼稚園に迎えに来る途中でデートしていたりと、ふたりはいつでもラブラブで、暇さえあればいっしょにいる。ひなはそんな二人が大好きで、自慢に思っている。
ただ、ひなにはひとつ心配事があった。父親のことだ。
ひなの父は、祖父母とは血のつながった親子なのだけれど、どうも彼らはあまりうまくいっていないようなのだ。祖母に対してはぎこちないし、そのことで祖父におこられ、母に相談しているのを何度もみたことがある。
ひなはみんな大好きだから、みんなになかよくしてほしいのに。
「ねえ、くさかべさん、ひなどうしたらいい?」
舌っ足らずで語彙が少なく順序もめちゃくちゃな幼児の話をどうにか整理してみたものの、自分こそどうしたらいいのか問いたいものだと、草壁は途方に暮れた。
「ひなさん」
「はい!」
なにか解決策があるの!?という、いいお返事をしたひなの期待が痛い。
とりあえず草壁は、ツナ譲りの大きな目をきらきらさせる幼児に、言った、
「今日、少しだけ、寝ないで三人のことを見てみてみましょう。きっとわかりますよ」
ひなはいい子でうなずいた。普段はとろいところばかりが目につくが、その頭脳は雲雀譲りでとても性能がいいのだ。
*
「それじゃ、お風呂入ってくるね」
そう言い残して妻は風呂場へと行ってしまった。草壁さんはひなを寝かしつけてくれているから、今ここにいるのは、両親と僕の三人きりだ。
昼間のことがあったから、正直父とは顔を合わせづらかったのだけれど、ここで席を立つのもわざとらしいし、父が出て行く様子もない。母も、こくりこくりと船をこぎながらも、部屋に戻る気はないようだ。僕は仕方なく覚悟を決めた。
「ねえ、昼間のことだけど」
口火を切ったのは父だった。僕はあわてて、昼に言いそびれた自分の意見を述べる。
「あ、ちが、違うんだよ。父さんが思ってるような、母さんのことを認めてないとか、そういうわけじゃないんだ。ただ、その、なんていうか」
「なに」
「すっごく見た目も行動も若いから、親っていうより、姉ちゃんとか妹がいたらこんな感じなのかなー、っていう感じでさ」
「ふ……っ」
父はそれを聞いて、本当に少しだけ目を丸くしたあと、我慢できないというように声を上げて笑った。この人のこんなところを見たのは、生まれて初めてかもしれない。
「っはは、姉ならまだわかるけど、妹ね……」
「し、しかたないだろ!」
「うん、まあ、わからないでもないけどね、落ち込むからこの子にはだまってて」
完全に眠ってしまった母を自分にもたれさせ、そのふわふわの頭をなでながら、父は言った。
父はよく母のことを「この子」と呼ぶ。そのときの彼の表情は本当に幸せそうで、そう呼べなかった二十数年がどんなにつらかったか、思い知らされるような気がした。
「父さん」
「なに」
僕はポケットから、半年前に父からもらった手紙を出した。彼はそれを見て目を細めた。
「僕は父さんのことも母さんのことも怒ってなんかない。ドームの中にいたときだって、いやいや世話をしてたわけじゃないよ」
「……そう」
「僕は、父さんと母さんは、あの状態でできるだけのことをしてくれてたんだ、ってちゃんとわかってるし、会えてよかったとも、嬉しいとも思ってる。一緒に暮らせて嬉しいよ。母さんがあんまり母親に見えないってだけで、その、ちゃんと家族だって思ってるよ」
僕は頭もそうよくないし、しゃべるのもうまくない。それでも、この感情をちゃんとつたえたいと、精一杯言葉を選んで声に出した。父は目を閉じてそれを聞き、さいごにひとつうなずいて、ありがとうと言ってくれた。
「おまえも立派になったね」
「そりゃあ、まあ、僕も父親になったわけだし」
「そうだね」
それにしても二代続けて学生婚なんてと、父は苦々しく言って、僕はそれに、しかもできちゃった婚だしねと続けて笑った。
父は母を支えていない方の腕を伸ばし、僕の頭を撫でてくれた。母にするものとは違って少しだけ乱暴だったけれど、それが、一人の男としてこの人に認められたようで、なんだかくすぐったかった。
「おまえもいい人をもらったじゃない」
「そう?」
「うん。ちょっとだけ綱吉の母親に似てるよ。なんでも受け入れるところとかね。おまえもやっぱり僕の息子だってことかな」
そういえば僕たちは、母の家族にも、くだんのマフィアの面々にも会ったことがない。
どちらとも、母が減速されてすぐにすべて縁を切ってしまったのだと、いつだったか草壁さんが教えてくれた。父だけは連絡をとっていたようだから、恨みや憎しみゆえというよりも、僕が同じ目に遭わされないようにとの配慮からだったのだろう。けれど、母はこうして帰ってきたし、僕やひなが後継者争いに巻き込まれる心配ももうない。それならもう会っても大丈夫なのではないだろうか。僕がそう言うと、父は、眉間にしわを寄せて、いかにも嫌々というように口を開いた。
「あんまり、ひなをあいつらに会わせたくない」
「どうして?」
「あいつら皆、綱吉を狙ってるんだよ。この子はもう僕のだけれど、変態パイナップルなんて、ひなのことを自分好みに育てて代わりに嫁にするとか、言い出しかねない」
「へー……変態だね、それは」
変態パイナップルってなんだ、と、とても気になったが、そんなことを問える空気ではない。僕は疑問をぐっと飲み込んで、どうにか相づちだけはうっておいた。
父は、話はこれでおしまいとわずかながら笑って、母を大事に大事に抱き上げて立ち上がった。
「この子のことは、おまえがちゃんと家族だって思ってくれてるならいいよ。それから、守護者のことは別だけど、綱吉のご両親のことならそのうちどうにかしよう」
「あ、うん、ありがとう」
「おやすみ。……ひなもね。草壁、頼んだよ」
*
あれほど気配にさとい人だ、隣室とはいえばれずにすませるなど不可能だとわかってはいたが、それでも呼ばれた瞬間はどきりと心臓が跳ねた。
今ふたりが話していたことは、きっと、皆うすうす感じ取っていたことだ。けれど、やはり言葉にするのは別なのだと思った。雲雀はきっと安心しただろうし、息子の方も、雲雀に本音を言えてほっとしただろう。
「ひなさん、お父さんも、お……おじいさんも、おばあさんも、仲が悪いわけではないんです。まだ、一緒にいるのに慣れていないだけなんですよ」
草壁の太い腕の中でうとうとしていたひなは、目をこすって、それからうん、と言ってくれた。先ほどまでの会話は四歳児には難しすぎただろうけれど、それでも、ふたりの仲が悪くないということは伝わったはずだ。
半分以上夢の中だったからどこまで覚えているかわからない。けれど、それでも、今のこの話をきかせてやれてよかった。
草壁はそうっと襖を開け、ひなを布団に寝かせるべく歩き出した。
*
十九で嫁に来たこの家は、いろいろととんでもない家だった。
舅は町の支配者だし、姑は子供を残して行方不明で、代わりに舅の部下が住み込みで家のこと一切を取り仕切っていた。亡き両親は夫と会って良縁じゃないかと言ってくれたけれど、友人たちにはこぞって止められた。わたし自身だって、なんど結婚を取りやめようと思ったかしれない。
けれど、この家の中ですごすうちに、わたしは、外から見たこの家族の姿がいかにゆがめられた姿だったかを思い知った。あの「暴君」は奥さんと子供と孫を溺愛する家族馬鹿で、同じようにとはいかなくともわたしのことだって大切にしてくれている。「子供を捨てて蒸発した悪妻」は、ただ事情があってここにいられなかっただけの、とてもやさしい、良妻賢母をそのまま具現化したような人だった。そして草壁さんは、使用人ではなくあくまで家族の一員として遇されている。上司である義父以外は、なにかをお願いすることはあっても、命令なんか絶対にしない。
そういえば、お風呂にはいるからと家族たちを居間に残してきてしまったけれど、彼らはどうしただろう。
義母はきっとあのまま眠ってしまっただろう。義父はそんな彼女を起こすことなんかしないから、きっと抱き上げるか何かして部屋まで連れて行くに違いない。そして、彼らの息子であるわたしの夫は、目の前で恥じらいも年甲斐もなくいちゃつくふたりにどん引きするのだ。彼はあまり両親似ではないけれど、そういうときの表情は母親にそっくりだと思う。遺伝というのは本当にわからない。
そういえば誤解は解けただろうか。義父はとても頭のいい人だけれど、義母のことになるととたんに視野が狭くなる。夫の義母への態度がぎこちない理由なんて、照れている以外にないのに、なんで気づかないだろう。まったくかわいい家族だ。
早くあがればお姫様だっこが見られるかしら。思いついたらなんだかわくわくしてしまって、わたしは大急ぎでシャンプーを洗い流した。
あのラブラブバカップルを見守るのは今やわたしの楽しみとなっている。だって仕方ないだろう、わたしだって女なのだから。女の子はいくつになったって、あんなべたべたな扱いにあこがれるものなのだ。
*
いつのまにかうたた寝してしまったらしい。居間にいたはずなのに、気がつけば、布団の上にあぐらをかいたヒバリさんに横抱きにされた状態で、寝室にいた。
「起きたの」
「ん、はい。運んでくれたんですか?」
「うん」
ヒバリさんはやさしく笑って、そうっと髪の毛を梳いてくれた。
ずっとずっと触れられない暮らしを強いられてきたから、こうしてくっついていられることが、嬉しくて仕方がない。いくらくっついていたってまだ足りないのだ。こうして一緒にいる今も、ふたりの間にあるわずかな隙間が気になってしまう。
怒られないかな、呆れられないかなと、内心びくびくしながらヒバリさんの背中に腕を回して、ぎゅう、っと抱きしめた。
「どうしたの」
くすくす、ひそやかに笑って、ヒバリさんはオレにひとつキスをくれた。ヒバリさんがドームに来てくれて最初にしたのと同じような、好きだという感情がたくさんたくさんこもったキスだった。
「くっついてても、たりなくて、さみしいです」
「ふふ、そう。ならもっとくっついて寝ようか」
「はい」
ヒバリさんはわれものでも扱うみたいにそうっとオレを布団におろしてくれて、それから自分も横になった。
「なんか、寝ちゃうの、もったいない……」
「うん。でも、これから時間はたくさんある。いくらでもあるんだ。眠たいのを我慢する必要なんてないんだよ。だから、ほら」
もうおやすみ。ヒバリさんが凪いだ声でそう言ったとたんに、一度浮上したはずの意識がとろとろとまた沈んでいく。
ヒバリさんの片腕をまくらがわりに、もう片方を毛布がわりに。あたたかくしなやかな体にぎゅうぎゅう抱きしめられて、オレは、どうにか、おやすみなさい恭弥さん、と言った。
曖昧になる意識の中、ヒバリさんが真っ赤になった顔を押さえたのを、見た気がした。