父がいなくなって半年が経った。
 彼の行方は誰も知らないようだった。父の部下たちも、娘も、手紙を持ってきた黒服の子供も、そしておそらく、父が憎みながらも関わりを完全に断ち切れずにいた、件のマフィアたちも。もしかしたら草壁さんだけは知っていたのかもしれないが、結局それを確かめられる日はこなかった。
 僕は妻にだけあの手紙を見せた。彼女はただ黙って、泣いている僕を抱きしめてくれた。ひなには、おじいちゃんは遠いところにおばあちゃんを迎えに行ったんだよ、と説明した。「はやくあえるといいね」と笑う純粋な娘の瞳に罪悪感ばかりが募った。


 父からの手紙を一読してすぐ、僕はこの書斎に駆け込んだ。彼が嘘も冗談も言わない人だと十分すぎるくらい知っていたから、疑いだなんてこれっぽっちも持たなかった。
 手紙に書いてあったとおり、スノードームはあった。わけのわからない機械に囲まれて。高級そうな、重厚なデスクに穴まで開けて、しっかりと固定された状態で。それが誰のためかは考えるまでもなかった。
 僕は、ドームの隣に──思い立ったときにすぐ使えるような場所に置かれていた顕微鏡でその中をのぞき込み、そして盛大に泣いた。
 そこには父がいた。母がいた。背中まで茶色のくせ毛を伸ばし、柔らかそうなワンピースとカーディガンを纏った、まるで子供のような容貌の母。父が手帳に挟んでいる写真をこっそり見たとき、ずいぶん細くてはかないひとだと思ったが、それよりさらに痩せている。そして父はそんな母を支えるように寄り添って、ガラスの表面を流れ落ちる僕の涙をじいっと見つめていた。
「父さん……かあ、さん」
 僕の声はきっと、ふたりの小さな鼓膜には大きすぎて、うなりのようにしか聞こえなかっただろう。しかしそれでも呼ばずにはいられなかった。
 ずっとずっと会いたかった母。父は一切彼女の話をしなかったから、写真と、草壁さんの話でしか知らなかった。「会いたい」と思いはしても、幼心になにか訳があったのだと察し、駄々をこねることすらせずにあきらめてしまった──本当はずっとずっと、こんなに近くにいたのに。


 手紙を受け取った頃は蝉の声が鬱陶しいくらいだったのに、気づけばもうクリスマスが間近に迫っている。僕は筆を置き、スノーフレーク模様の便箋を揃いの封筒に入れて、服や食べ物などの入った袋と一緒に減速器にかけた。レターセットも贈り物も、あの中には季節がないからと、妻がわざわざ用意してくれたものだ。梅雨には雨、夏には海に青空、秋には紅葉、そして冬には雪を。両親はことのほか喜んだ。
 減速が終わったのを確認してから顕微鏡で中を覗くと、すぐに母が出てきて嬉しそうに「ありがとう」と言ってくれた。手紙の縮小はできても拡大はできないため、僕は母たちとコミュニケーションを取るために、読唇術を学んだのだ。
 そう、僕は両親の面倒を見ることにした。というよりも他の選択肢だなんてはなからなかった。
 父は手紙の中で、何度も何度も自分を見捨ててもいいのだと繰り返したが、そんなことできるわけがない。だって、指示をしたのは母でも、実際に徹夜で僕を看病してくれたのは父だったのだから。
 あの人は父親らしいことは何一つできなかったと思っていたようだが、僕は彼が、彼にできる最大限のことをしてくれていたのだということを知っている。たとえば僕の世話をしてくれていた男は、父の部下たちの中で、草壁さんの次に信頼の厚い人だった。
 僕はあの人にだって、母と同じくらい、無事にもどってきてほしいと思っているのだ。
『あ、そうだ、ちょっと待ってね。ヒバリさーん!はやくはやく!』
 そう言って駆けだしたと思ったら、頭一つ大きい父をずるずる引きずるようにして戻ってきた。なるほどあの父が認めるわけだ、なかなかたくましい。いや、もしかしたら単にベタ惚れな父が抵抗しないだけなのかもしれないか。
 ぼんやり考えごとをしているうちに、いつの間にかふたりは寄り添ってこちらを見上げていた。父の片腕は勿論母の細腰に回されている。息子の前でいちゃつくのはやめてくれよ!いたたまれないよ!だが自分のルールで生きる父は、そんなこと少しも気にしてくれない。
『やあ、久しぶりだね。そっちは変わりないかい?』
 僕は急いで返事を書き、減速器にかけた。皆元気だよ、ひなはひらがなが書けるようになったんだ、とにかく早くさっき送った手紙を読んでほしい、など。
 名残惜しそうにふたりが家へ戻るのを見送って、僕は顕微鏡から目を離した。両親はいつもより短い対面に不満そうだったが、こんなささやかな時間を楽しみにする必要などなくなるのだと、早く知ってほしかったのだ。
 そう、もう話をするのに読唇術や紙や減速器を使う必要もない。
 拡大──減速の逆のプロセスを実現する機械、つまり加速器が完成したのだ。


 決行は水曜日になった。なぜってクリスマスイブだからだ。心優しい母と、表には出さないが孫を溺愛しているらしい父と、イベント好きな妻が、ひなを喜ばせようとほとんど勢いで決めた。所詮通訳にすぎない僕には、この件に関しては発言権すら与えられなかった。
 父の部下たちが書斎に加速器を運び込んでいく。僕はドームの覆いを外し、減速器を使って最後の手紙を送った。
『財団の皆さんが万全を期して加速器を完成させてくれました。でも、お医者さんにも来てもらっていますから、万一のことがあっても大丈夫です。何も心配しないでください。ひなが待ってます。もちろん僕たちも、財団の人たちも、みんなが二人のことを待っています』
 それでも不安そうな母を父がぎゅうっと抱きしめ、顔中にキスをしてなだめていた。他の人たちが見ていなくてよかったと僕は心底安堵したが、もしかしたら二十数年前もこうだったのかもと思いいたって赤面した。夫婦仲がいいのは喜ぶべき事だが、その果てに自分が産まれたのだと思うと恥ずかしくて仕方がない。
「始めますよ」
 草壁さんがそう言って、加速器のスイッチを入れた。僕も妻も、その場にいた誰もが息をのんだ。
 スノードームの中に、ぽつりと小さな黒点が発生した。砂粒のようだったそれはあっという間に明るくなって、膨張し、僕たちの視界を埋め尽くす。僕は思わず目を閉じ、腕で顔を覆った。


 翌朝ひなは起きるなり歓声を上げた。いなかったはずの祖父母の姿を見つけたからだ。
「サンタさんがおじいちゃんとおばあちゃんをつれてきてくれた!」
 それからというものずっとふたりにべったりくっついている。またいなくなってしまうのかと不安なのか、右手に父のセーター、左手に母のパーカーの裾をそれぞれ握りしめて。二人ともそんな孫が可愛くて仕方ないらしく表情は緩みっぱなしだ。
 ただ母は、少しだけ複雑そうでもあった。
「オレまだ四十すぎたばっかりなのに!てゆーか子育てだってしてないのに、いきなり、お、おばあちゃんだなんてそんな」
 そうぼやいた彼女は、それでも嬉しそうに細い腕でひなを抱き上げ、ぎゅうっと抱きしめた。僕は父の手紙の一文の、「おまえを抱き上げることはもうできないけれど、せめてひなのことは抱かせてあげたかった」という部分を思い出して、思わず泣き笑いしてしまった。
(父さん、あなたは本当にこのひとを救ったんだ)
 新婚時代に母がつくったというセーターを着て、孫相手に相好を崩している父。僕はこの、自分にも他人にも厳しく、そして家族を愛してやまないひとを、どこまでも誇らしいと思うのだ。
 はじめて家族が揃ったクリスマスは賑やかで、楽しくて、あっというまに過ぎていった。その過ぎた時間を惜しまなくていいのだと思うとやっぱり嬉しくなってしまって、妻と娘が眠った後、僕は両親に縋るようにして、ひっそりと泣いた。