骸が息を切らせてそこにたどり着いたとき、当の本人は、己の棺に腰掛けて真っ白なノートを眺めていた。普段なら文句の一つも言ってやるところだが、このときはそんな気にはなれなかった。彼の顔があんまり嬉しそうだったものだから、怒る前に脱力してしまったのだ。
 心なしか肩を落とした骸を見て、ツナはまるで眩しいものでも見ているかのように目を細めた。
「久しぶりだね」
 先に口を開いたのは彼の方だった。それはごくごくいつも通りで、罪悪感も皮肉も、ほんの少しの感慨すらもないただの挨拶だったのだけれど、それでもう骸はどうしようもなくなってしまった。言わなければならないことも、言ってやりたいことも山ほどあったはずなのに、それらはみな、きれいさっぱりどこかへ行ってしまったのだ。
「お久しぶりです……本当に」
 いつも無駄に回る口はいつの間にか貝になってしまったらしく、結局口をついて出たのはそれだけだった。けれどツナはそんなことはつゆほども気にしないのか、心底嬉しそうに、幸せそうに、笑ってくれた。
「うん、本当にひさしぶりだ。あそこを出れたんだね……」
「ええまあ、どさくさ紛れにちょっとばっかり復讐者をだまくらかして」
「おまえらしいな!」
 それからツナは、ダメツナと呼ばれていたあの頃のような、寂しいような、途方に暮れたような子供の顔をした。
「いっぱい、いっぱい時間がかかっちゃったね」
「ええ」
「それに、いろんなものが変わっちゃったよ。骸、びっくりしただろ」
 彼が何を言いたいのかはさっぱりわからなかったが、骸はとりあえず否定することにした。彼を傷つけない、それは今や骸の至上の課題となっている。
「どれだけ時間が経ったって、どれだけ変化が起こったって……」
 話しながら下生えを踏みつけてツナに歩み寄り、相変わらず奔放に跳ね回る髪にそうっと手を伸ばした。
「些細なことなんですよ、そんなもの」
「そう、かなぁ……」
「そうですよ。僕らがふたりで居さえすれば、何だってうまくいく。どれだけ歳をとったって、背が伸びたって、顔や呼ばれ方が立場が変わったって……それだけわかっていれば、十分でしょう?」
 骸の自信満々の発言に、ツナはこっくりと頷いてくれた。表情も、仕草の一つ一つも、ひどく幼い。どうやら、彼の胸を貫いた弾丸は、ドン・ボンゴレの仮面までも一緒に粉々にしてしまったらしい。
 骸はひどくいい気分だった。大切なこの子が無事に戻ってきたのだ、それも、その背に負っていた要らぬものをすべてどこかに置き去りにして。これを幸せと言わずして一体何というのだ。
「それでも君のここが痛いというなら、僕が抱きしめていてあげますから」
 冗談半分でそう言うと、ツナは顔を真っ赤にして俯いてしまった。どうやら本当に混乱しているらしい。偉大なドンにこんなことを言ったならば、鉄拳が飛んできてもおかしくないのに、そんな兆候は少しもない。だから、骸はますます調子に乗る。
「ずっとこうしていてあげます。頼りにだってされてあげます。雲雀なんかよりずうっと役に立ちますよ」
「ずっと?」
「そう、ずっと。いつだっていてあげる。たとえば、そう、この先百年経った後だって」
 だから一緒に行きましょうよ。骸は甘く甘く唆す。このままいなくなったって、誰も傷ついたりはしませんよ。みんな勝手に勘違いをして、ああやっぱり世界は変わらなかったと諦めるだけだ。だから、ねえ、行きましょう。なにも君、血なまぐさいマフィアになりたかったわけじゃあないんでしょう──
 骸の誘惑にとうとうツナは頷いた。
「うん、わかった、オレは骸と行くよ」
「!綱吉くん」
「でも……お願いがあるんだ。一年とか半年とかに一回でいい、守護者のみんなとリボーンに手紙を書かせて。謝りたいんだ、許してもらえはしないかもしれないけど……オレが骸と一緒に行くっていうことは、そういうことだ」
 そういったツナの瞳には、いつの間にか強い強いひかりが宿っていた。ドン・ボンゴレのようにぎらついたものでも、ダメツナのように幼さゆえのものでもない。それは、骸と対峙したあの日のそれによく似ていた。
「ねえ骸、オレがここでボスを辞めちゃっても、たた……んぅ」
 言いかけたツナの唇を自分のそれでむりやり塞いで、骸は艶然と笑った。
「君がボスを辞めても、それどころかもしも今夜この世界が終わってしまっても、幼い君たちが、そして僕らが戦った意味は、ちゃぁんと残りますよ」
「ほん、と?」
「もちろん。幼い君と、君の取り巻きたちには、いい刺激になったでしょうからね」
 己の弱さを知り、己を鍛えること。強力な戦力となり得る匣兵器を持ち帰ったこと。未来を知り、そうならない道を選ぶことができるようになったこと。目に見えるものも見えないものもある、それでも確かに彼らはたくさんのものを得て、大きく成長したのだ。それだけでも、あの戦いに意味があったと言えるはずだ。
 ツナはその言葉にほっとしたのだろう、ほんのり頬を染めて、オレを助けてくれてありがとうねと言った。それが、これまでのことなのかこれからのことなのかはわからなかったが、骸は鷹揚に頷いた。どちらでもいいことだ。それだけの働きはしたし、これからもするつもりだ。頼りにしてくれていい、いつだってそばにいる、この先百年だって、千年だって、次の人生でだって。それは誓いであり、今や骸の生きる意味そのものとなっていた。


 数件のミュージアムと市場を回って必要なものを買いそろえ、赤いバスに乗ってふたりのうちへと帰る。両手一杯の荷物をどうにか抱え直して呼び鈴を鳴らすと、軽快な足音が聞こえ、それから派手にドアが開いた。
「おかえり!」
「……ただいま、戻りました」
 ツナがめいっぱいつま先立ちをして、骸が少しだけ膝をかがめて、荷物ごしに挨拶を交わす。
 おはよう、いってきますといってらっしゃい、ただいまとおかえり、そしておやすみなさい。日々交わされるこのこっ恥ずかしい挨拶に未だ慣れることができず、骸の頬はほんのりと朱に染まっている。意外なことに、ツナの方が慣れるのは早かった。ぴょんぴょん跳ねるように軽快に骸に近づいて、目を閉じ、さあキスしてとねだるのだ。
「ねえ骸、買ってきてくれた?」
「ええ、もちろん」
 二人で荷物をダイニングテーブルに運び、その中をごそごそやって、果物や野菜に埋もれた小さな包みを探し出す。ミュージアムショップのシールで封がされたそれを、ツナは嬉しそうに開けた。
「わぁ!」
「なかなかいいでしょう」
「うん!ありがとう!!」
 包みの中にはミュージアムで売っていたポストカードがちょうど六枚。それらを大切に大切に並べて、ツナは歌うように言う。
「これが一番きれいだからリボーンのにしよう!」
「ああ、いいですね。これなんかヒバリに送ってやろうと思って買ったんですよ」
「え、何これ。鮭?」
「そう、『鮭』。日本の国宝らしいですよ。ちょうど『東洋の近現代画展』というのをやっていましてね……」
 一枚一枚指さして、これは誰に、あれは誰にとふたりで決めていく。獄寺には奇妙な生き物が描かれたポップアート。山本にはミュージアムそのものの写真。了平には古代の剣闘士を描いた絵。ランボにはトリックアート。雲雀には鮭を描いた日本画、そして恩師であるリボーンには、この国一番の風景と言われるサンセットビーチのプリントされたポストカードを選んだ。買うときにおおよそ想定していたとおりになったらしく、骸は鼻高々だ。そこにはもはや、霧の守護者の面影はすこしもない。
 一方、さっそくカードに近況を書き始めたツナも、それは同様だった。持ち出してきたインクは高級品、ペンだって一国の王が使うほどの品物だ。それなのに、書く字は、まるで男子高校生のそれのように小汚い。ボンゴレ・デーチモとして毎日毎日書類にサインをし続けていたとは、とても思えないレベルだ。
「骸、骸もなにか一言書いてよ。ほら」
 ペンを渡され、しばらく考えてから、骸はツナのそれとは比べものにならないくらい流麗な日本語で、僕がそばにいますから綱吉のことは万事ご心配なく、と綴った。横からのぞき込んで、ツナが笑う。
「万事って……オレがダメになったらおまえのせいだぞ」
「はい?」
「だっておまえ、オレのこと甘やかしすぎるんだよ」
 嬉しいけど、これじゃあダメツナに逆戻りだと言うと、それでいいじゃないですかと返された。
 ツナがだめになったら骸のせいだ。骸がだめになったらツナのせいだ。けれどそれだって一緒に生きてきた結果なのだから、もしそうなったって後悔などするはずがない。そうでしょうと問うと、ツナは呆れたため息とともにそうだねと言った。
「ところで綱吉くん」
 呼びかけにツナはにっこり笑ってなぁにと言った。ボンゴレ、と呼ばれなくなってどれくらいの歳月が経つだろう。骸は名を呼ぶ度、ツナは綱吉と名前を呼ばれる度に、喜びに心臓がきゅうきゅうと鳴るのだ。
「夕飯は少し早めに、たくさん作りましょう」
「え?」
「犬と千種とクロームとフランを呼んで、みんなで食事をしたら楽しいと思うんですよ。それで、帰るときに、手紙を彼らに頼みましょう」
 それは名案だ。さっそく電話をかける骸の隣で、ツナは色違いで買ったエプロンを着けた。
 幼い頃に欠食ぎみだったせいか、彼らは皆とてもよく食べる。ありったけの野菜をテーブルに並べて、さあ何を作ろうかとレシピブックを繰る。
 そして思うのだ。あの日骸が言ってくれたように、この暖かく穏やかで幸せな毎日が、この先百年経った後でもなお続いているといいな、と。