あの春の日のことは今でもとてもよく覚えている。


 当時、並盛にはまだ公営のプールというものがなく、並盛町民はみな、スイミングスクールに通うか、隣町・黒曜の町営プールを利用していた。もちろん山本武少年も例外ではなかった。公園あり、急勾配あり、国道ありの三十分の道のりを、毎回自転車をこいで通っていたのだ。
 黒曜プールでは毎年、小学校の長期休暇に合わせて「子供水泳教室」なるものを開講していた。子供たちをレベルごとに分け、初級クラスではビート板を使って、中級ではクロールで、そして上級クラスでは背泳ぎや平泳ぎで二十五メートルを泳ぎきることを目標に指導をおこなう。
 その日は春の水泳教室の初級クラスの授業が行われていた。五歳にしてすでに運動神経抜群だった山本は参加はしておらず、隣のレーンで泳ぎながらその様子をぼんやりと見ていた。
 バタ足の練習、息継ぎの仕方、ビート板を使って泳ぐ練習。上達の早い子供たちは、すぐに次のステップへと進んでいく。早いものは、もう、子供用の十五メートルプールをすいすいと泳ぎ始めていた。だが、山本の目にとまったのは彼らではなかった。
(……あれ?)
 一人だけ、ぽつりとプールサイドに腰掛けている女児がいた。一番最初のステップである、バタ足の練習をクリアできていないのだ。懸命にばしゃばしゃと足を動かして、それでも思うようにいかないのか小首をかしげている。彼女なりに試行錯誤しているのだろう。
 そこに、十五メートルを泳ぎ終えた男児たちが近づいてきた。
「ダメツナ、まだそんなことやってるのかよ!」
「だっせー」
「およげないならかえれよな」
「……ぅ、」
 子供たちの暴言に、とうとう彼女は泣き出してしまった。しかし、講師は別の子供にかかりきりで、彼らの方を見ていない。それをいいことに、男児たちのいやがらせはますますヒートアップする。
「くやしかったらプールにはいってみろよ!」
 男児の一人、リーダー格と思わしき子供が、彼女を突きとばした。プールサイドは濡れているからよく滑る。その子はあっというまに水の中に落ちてしまった。
 山本はそのときレーンの端っこにいて、女児とはウキこそ挟んでいたけれどすぐそばにいた。それでとっさに水中にもぐった。滑るように彼女に近づいて抱き寄せ、その腕を取る。おどろくほど白く、細い、頼りのない腕だった。
(しっかりしろよ!)
 彼女は軽く、また浮力も働いたため、ふたりはすぐに水面に顔を出すことができた。
「おい、だいじょうぶか!?」
「……う、うぅ〜〜〜」
 こわかったようと泣き出したその子を、山本は抱き締め直して、よしよしと撫でてやった。今の騒ぎで彼女の黄色いスイムキャップはどこかへ行ってしまって、色素の薄い髪があらわになっている。湿ってしんなりとしたそれにふれた瞬間、どうしてか心臓がどきりと跳ねた。
「もうだいじょうぶだから、なくなって。な!」
 水音と泣き声に気づいたのだろう、今更ながら講師とプールの監視員が駆けつけてくる。山本は自分の目撃した一部始終を説明し、それから女児と一緒に彼女の母親を待つことにした。彼女が山本を放してくれなかったからだ。


 更衣室は当然男女別々なので、泣き続ける彼女をどうにかなだめて、施設の入り口で待ち合わせをすることにした。
 あんまり待たせてはかわいそうだし、もしかしたらまた泣きだしてしまうかもしれない。せっかく泣きやんでくれたのに、そんなのはだめだ。山本は水気を拭うのもそこそこに服を着替え、大急ぎで更衣室を出た。
 待ち合わせ場所にはまだ彼女の姿はなく、心底安堵した。
 しばらく待っていると、着替えを終えた女児がぱたぱたと走ってきた。大きなプールバッグが華奢な体に不釣り合いで、バランスを崩して転びやしないかとはらはらしてしまう。だがそんな心配は無用で、彼女は山本のもとにたどり着くと、すぐにふんわりと頬を染めた。
「まっててくれないかとおもった……!」
 きっとこれまでに、そういういじめにもあってきたのだろう。胸がきゅうっと痛くなってしまって、山本はごまかすように小さな手をとり、プールを出た。
 プールの敷地は広く、出入り口の向かいには食堂、その隣に自動販売機やちいさな駄菓子屋が併設されている。ふたりは貴重な八十円をつかってカップベンダーでコーラとココアを買い、駄菓子屋の前のベンチに並んで腰掛けた。
 プールは高台にあるため、眼下には大空と満開の桜、そしてその向こうにどこまでも住宅地が広がっている。風は穏やかで、気温も高いし、ロケーションもいい。
 しばらく二人してぼんやりしていたのだが、不意に女児が声を上げた。
「あっ」
「どした?」
「かみのけ、ぬれてるよ。かぜひいちゃう」
 女児は自分のバッグからきれいな花柄のタオルを出して、山本の髪をていねいに拭ってくれた。手つきはつたなく正直とてもくすぐったかったのだけれど、胸のどきどきのほうが重大で、それどころではなかった。
 それはまさしく至福と呼べる時間だった。だが、山本の髪は短いため、あっという間に乾いてしまう。離れた手を惜しく思いながらも、せいいっぱいの笑顔を作って礼を言った。
「ありがとな!」
「う、うん!」
 もしかしたら、おせっかいだったかな、だなんて考えていたのかもしれない。彼女はまたその大きな瞳を潤ませていたが、山本の表情に安心したのだろう、満面の笑みでこたえてくれた。
 桜のように淡く慎ましく、けれど華やかで、忘れることのできない笑顔だった。


「……でもな、その後すぐにその子の親が来て、別れちまったのな。その子は教室やめちまったし、名前も聞いてなくてさ。もう会えないんだって気づいたときはすっげー悔しかった」
 いくらスポーツに打ち込んでいるとはいっても、やはり思春期の少年たちだ。人数があつまれば、話題は自然とそちらのほうへ向かう。それは野球部だって例外ではなく、こうやって山本の部屋に集まって、修学旅行の定番、恋愛話に花を咲かせていた。
 はじめは、何組の誰が誰に告白しただとか、そんな話だった。ところが、その告白された女生徒の一人が山本のことを好きだという話から、今度は山本の恋の話になったわけである。人気の割に色恋沙汰に縁のないヒーローの告白に、部員たちは興味津々だ。
「で?その後どうなったんだよ」
 山本と同じ、二年生レギュラーの金本が、にやにや笑いながら続きを乞うた。噂好きなチームメイトのことだ。いまここで話してしまえば、きっと並盛に戻るまでに学年中に広まってしまうだろう。
(でも、まー、いっか)
 決断や開き直りがはやいのも山本の美点のひとつだ。
「小学校の間はずっと会えなかったんだけどさ、中学で同じクラスになれたんだよ」
「え、うちの学校!?」
「そうそう。最初は全然気づかなかったんだよな。しかもさんざん八つ当たりして、一番かっこわるいとこ見せちまってさ。でも、その子がスランプから助けれくれて、そんでずっと俺のこと好きだったって、言ってくれてさ」
「マジで!?誰だよ!!」
 爆弾発言に部員たちは色めき立った。笹川だ、いや黒川だと、思いつく限りに候補をあげていく。
「俺らの知ってるやつ?可愛い?」
「おー、かわいいかわいい。世界一かわいいのな。男にすっげーもてるから、心配でしょーがねーんだよ。だから、あんまり、ほかのやつに言いたくないんだよ、とられそうだろ」
「……ベタ惚れじゃん」
「そうだよ。ちっちぇー子でさ、いっつもびくびくしてて。俺がずっとずーっと守ってやるって約束したんだ」
 精悍な顔に少しだけ照れを浮かべて、山本が笑う。心底幸せだというその様子に、もう誰もなにも言えなくなってしまった。
 ちょうどそのとき、ぽすぽすぽす、と間の抜けたノック音がした。近くにいた控えキャッチャーの木村がふすまを開ける。そこにいたのは、居心地悪そうにむじむじと浴衣の合わせ目をいじるツナだった。
「あれ、ツナ、もう風呂おわったの?」
「あ、うん……えっと、まだ話してた?」
「お、ツナ!遠慮なんかすんなって」
「そうそう、おまえの部屋なんだしさ」
 口々にいう野球部員たちに引きずり込まれてしまい、気づけばツナは山本の隣に座らされてしまった。相変わらず、強く言われれば断れないらしい。山本は苦笑して、水気でしんなりとした髪をくしゃりと撫でてやった。
「や、山本ぉ」
「わりーな」
「う、ううん!オレこそ邪魔しちゃってごめんね!」
 緊張からがちがちだったツナの顔にほんのりと笑顔が浮かぶ。金本はそれに見とれていた自分にはっとして、それからあわてて首を振り、ツナに声をかけた。
「なあ、沢田」
「え、あ、金本くん、だよね?なに?」
「おまえさ、山本の好きなやつって誰か、知らねー?」
「ちょっ、おまえ、何言ってるんだよ!ツナ、気にすんなよ!」
 問われた瞬間にツナの顔がかあっと真っ赤になった。あわてて言いつのる山本のせりふも耳に入っていない。
 口をぱくぱくさせ何も言えなくなってしまったツナを見かねて、とうとう山本が、金本をにらみつけた。
「ツナ困らせるんじゃねーよ!」
「おまえが言わねーからだろ。な、沢田、そいつかわいい?俺の知ってるやつか?」
「金本!も、いいだろ!おまえらも、さっさと部屋帰れ!!」
 わりーわりーと悪気なく笑いながら、山本に追い出された部員たちは、おのおのの部屋に戻っていった。
 最後にふすまを閉めようと振り向いた木村だけが、ふたりの距離が近すぎるのではないかと疑問を抱いたのだけれど、
(ま、山本ってスキンシップ好きそうだからな!あいつら仲いいし!)
 そう自分に言い聞かせて、おやすみと声をかけて去っていった。


「ごめんな、ツナ、嫌な思いさせちまったな」
 ふたりきりの室内で悄然と謝る山本に、ツナはぶんぶん首を振って、だいじょうぶだよと言った。
「ううん、いいんだ……それより、その」
「何だ?」
「さっき、べ……たぼれ、って、言って」
 ゆでだこのように真っ赤になったツナは、あの日泣いていたあの子の面影を色濃く残している。そう、女児用の水着を着ていたから山本は当然あの子のことを女の子だと思いこんでいたのだけれど、あれはまぎれもなくツナだったのだ。
「しょうがねーのな。ツナってすっげー可愛いし」
「それ、ほめてない!」
「ほめてるよ。な、ツナ、大好きだぜ」
 あの日水中でしたようにくっつきあって、そっと背中や髪を撫でてやる。あれから十年が経って、ふたりともずいぶんと男らしくなった。けれども山本は、ツナが、本当はあの日のように泣きたいのを必死でこらえているだけだと、とうに気づいている。
「な、俺ら、ずーっと一緒にいような!」
 そう言うと、ツナは山本の胸にぎゅうっとしがみついて、何度も何度も首を縦に振った。
 あのうららかな春の日に山本の髪を拭ってくれたときのような、一生懸命でほほえましいしぐさだった。