ねっとりとまとわりつくような空気に耐えきれず、ディーノはひとり部屋を出た。窓を開け放った部屋と屋外では気温など大して変わらないが、視覚的にずいぶんとましだ、そんなことを考えながら川沿いの小径を歩く。
好きだ好きだと何度言葉にしたって、どれだけ態度に出したって、きっと本当の意味では届いていないのだろう。相手はまだ中学生なのだから、当たり前といえば当たり前なのだが。
(それにしたって、あれはないだろ……)
少しだけ恨みを込めて、二階の角部屋を睨んでみる。
ぶかぶかの浴衣の中で泳ぐ体、襟を大きく抜いたせいで覗くうなじ、濡れてぺたりとした髪、微かに上気した肌、そして押せば外れそうな頼りない窓枠にそっともたれかかる姿。それだけでもう我慢の限界を超えていた。
しかしそんなことを知らないツナは、更に右手をあげて目を細め、うっとりと指輪を眺めるのだ。それを見てしまうともう駄目で、同じ部屋にもいられなくなった。なんて情けない。
指輪を渡したあの冬の時点ではまだ、いつまでだって待てると思っていた。ツナが大人になるまででも、彼が自身に自信を持てるようになるまででも。好きで欲しくて仕方がなかったけれど、そんな感情は全て裡に押し込めて、時折贈り物をしたりこうやって連れ出して喜ぶ顔を見られれば、それだけで「良い兄」の皮をかぶったままやっていける筈だった。
だがそれはとんでもない思い上がりだったと認めざるを得ない。半年が経った今ではもう、たったの一秒だってこの身を灼くような感情を抑えられそうにない。
いっそ抱いてしまえば、あの鈍い子供にもちゃんと伝わるのだろうか。だがそれはあまりうまくない。並み居るライバル達に、傷心のツナをなぐさめる、なんて最高に美味しい口実を与えるのはごめんだ。
またしばらくぼうっとしていたらしい。ざり、と玉砂利の鳴る音で振り向くと、俯いたツナが所在なさげに立っていた。
「どうしたんだ?」
「ディーノさんが遅いから、迎えにきたんです。……オレ、何かしましたか」
「ツナが?そんなわけねーだろ!」
「でも、ディーノさん出て行っちゃうし、」
その先は聞きたくない。そんなことないんだと繰り返して、半ば無理矢理にではあるが、彼が好きだと言った笑顔を作ってみせる。
それでツナは安心したのか、裾をぎこちなく捌きながら寄ってきてディーノを抱きしめてくれた。ぴったりとくっついたぬくもりが、夜風で冷えた体に心地よい。
「心配させちまってごめんな。今日のツナがあんまり美人だからさ、緊張してたんだよ」
「なんですか、それ」
ツナはくすくすと笑う。いつも浮かべている曖昧なジャパニーズ・スマイルとは違う暖かな表情、それに石灯籠の明かりで陰影が出来て壮絶に色っぽい。
「結構本気なんだけどな。……なあ、好きなんだ、」
おまえのことをだれよりあいしてる。最後はこの距離でも聞こえるか解らないほどの小さな声になった。なんて情けない!これが五千人ものマフィアを束ねる男の出す声か。何が跳ね馬だ、ツナの優しさに甘えっぱなしで、これじゃあダメツナを脱却しつつある彼よりよっぽどダメダメだ。
やりきれなくなって顔をうずめた髪は少しだけ湿っていて、いつもと違うシャンプーの匂いにどきりとした。
「ディーノさん?」
「な、オレが今度ディアマンテの指輪持ってきて、お前の左手の薬指に填めて『受け取ってほしい』って言ったらさ、オッケーしてくれるか?」
また卑怯な言い方をしたな、自嘲せずにはいられない。だがそんなディーノの笑みをどうとったのか、頬を染めてツナは何度も何度も首を振るのだ。
「もちろんです!言ったじゃないですか。ディーノさんが指輪くれるのにふさわしい人間になって、三回全部受け取りますからって」
ふさわしい人間になって──その響きが頭の中にがんがんこだまする。それがこんなに情けない男に釣り合うようになるという意味ならば、もう十分だ。今でさえディーノにはもったいないくらいだというのに。
というか渡す予定の指輪というのは、ボンゴレリングを除けばエンゲージリングにマリッジリングなのだ。ふさわしいもなにもあるのものか!ツナの気性を知ってとはいえ、一度頷いてしまった己が恨めしい。
「……覚えてるよ。ちょっと自信がなくなっただけだ。ありがとう」
しかしそう口にしながらも、ディアマンテがダイヤモンドのことだとばれてしまえば前言だって撤回されてしまうに違いない、と最悪のパターンを想像して、またずきりと胸を痛めた。
「背中、冷たいぞ。あんまり体冷やすなよ」
ごまかすようにディーノが丹前を脱いで着せてやると、ツナは顔を赤くして俯いた。ごそごそと袖を通し袷を整える指に青い宝石がきらりと光る。
渡したときにはザッフィーロだと伝えた。イタリア語なんか使わないで、サファイアだと言った方が通りは良かっただろう。だがそれだと彼はきっと受け取ってくれないに違いないと考え、わざと回りくどい言い方をした。それだけ必死だったのだから、受け取ってもらえたこの状況に、
(満足してる、はずなのに)
あの日予行演習と称して指輪を填めたのは右手だった。
(やっぱ左にしておけばよかった)
くだらない遠慮も矜恃も捨てて。そうすれば会えない間にこんなに慕情ばかりが募ることも、誰かに彼をかっ攫われたらどうしようだなんて悶々とすることもなく済んだのだ。
このまま彼を連れて逃げ出してしまいたい。こんな、並盛から車で一時間などというお手軽な温泉旅館ではなくて、誰も追って来られないようなどこか遠くへ。できないとわかっているからこそなおさら思わずにいられない。
好きだ好きだ好きだ。そんな単語で頭をいっぱいにして、きつくきつく抱き合いながら川辺の夜は更けていった。