いつものように起こるファミリー絡みのごたごたから全力で逃げきったある日、帰ってからの苦労と恐怖が目に見えるようで、このままどこかへ行ってしまおうかと互いの手を取り合った。
「今日だけ、特別な」
「はい。今日だけ」
 顔を寄せ合って、まるで内緒話でもするかのように囁き交わす。
 家に戻りたくないといっても、行く当てなどそうない。キャバッローネ御用達のホテルは真っ先に捜索の手がのびるだろう。だが今は、この二人きりの時間を知り合いの誰にも妨げられたくなかった。
「隣駅に大きな公園があるんですけど」
 寒いし暗い、そんな狙われやすそうなところにマフィアのボスは行かないかも、と思うと提案する声は自然とデクレシェンドしてしまったが、ツナの予想に反して返事はのんびりしたものだった。
 あまり近くはないが歩いても行ける距離なので、電車を使うのはやめにした。車の行き交う道路の端を並んで歩く。途中二人合わせて五回も転び掛けたが、互いに支え合って大事には至らなかった。ささやかながら一緒で良かったと、赤面する顔を隠そうとそっぽを向きながら思った。
 小さな花屋の前で曲がってしばらく進むと、駐車場を兼ねた入り口が見えてくる。
「あ、あそこです」
 大通りを渡るときに中学生らしいジャージの一団とすれ違ったが、ディーノは手を離さないでいてくれた。それは実際には、単に文化や年齢や性格の違い故だったのだろう。けれどもしかしたら彼もこの時間を大切にしてくれたのかもしれない、そんな仮定を考えるだけで、まるで泣きたくなった時のように胸が疼いた。


 夕方というより夜に近い時間帯だったせいだろう、公園のシンボルである大池の周りにはジョガー以外は誰もいない。幸いとばかりにとびきり見晴らしの良い外灯脇のベンチを陣取り、指は絡めたままで身を寄せ合った。
「ディーノさん、ありがとうございます」
 ツナのことを慮ってこうして息抜きさせてくれる優しい兄のありがたみが、じわりと身にしみる。
 人生の八割以上を母と二人きりで暮らしてきたから、ずっと賑やかな家というものにあこがれてきた。十四年間のダメライフで身につけた「諦める」という方法で、心の奥底に沈めてしまっていたけれど。
 だから居候が一人また一人と増えていく度に、口先で迷惑だのなんだの言いながらも歓迎してきた。そして極めつけがディーノだ。「兄」という存在だけで感動ものなのに、何ひとつまともにこなせない並以下なツナとは正反対にいるような人柄で、なのにそんなダメ人間の気持ちもちゃんと解ってくれる。
 これだけ素晴らしい人が相手なのだ、敬愛や憧憬が恋愛感情に変わるのだって当たり前だろう!
「オレ、ディーノさんのこと、本当に大好きです。ディーノさんがいてくれてよかった」
 弟として。そうとってもらえるような言い回して、想いを告げる。なけなしの勇気を振り絞ってそっと指先に力を込めたら、間をおかず握り返してくれたのがたまらなく嬉しかった。


 ふるりと身を震わせて腕に縋ったのに気づいたのだろう。ディーノは少しだけ困ったように笑い、引っ張るようにツナを足の間に座らせてコートの中に丁寧に抱きこんだ。繋ぎっぱなしだった左手が離れたのがつめたく、さみしい。
(……さみしい?背中ほとんど全部くっついてるのに?)
 コートだってまだ温かいのに。そんなことをぐるぐる考えているうちに、きゅう、と今度はディーノの左手がツナのシャツの胸あたりを握りしめた。自分でもわかるくらいに心拍数が増え、こめかみのあたりがどくどくとうるさくて焦った。案の定大事な声を聞き逃してしまう。
「──だ」
「え、あ、……ええ?」
「ザッフィーロっていうんだ。透けててあんまり綺麗なんで、衝動買いしちまったんだけど、でもよかった。やっぱ似合うな」
 それともディアマンテとかグラナートの方が良かったか、と慌てたように続けられて、意味はよくわからなかったものの状況だけはようやっと飲み込めた。
 いつの間にか、ディーノのそれと絡んだ右手の薬指に、細身の指輪が填められていたのだ。ザッフィーロというらしい青い石が一粒、まるで女物のようなデザインが気にならないほど上品に光っている。
「これっ、オレに!?」
「なんだツナ聞いてなかったのかー?」
「すみませんちょっとどきどきしてて」
「どきどき?なんだそりゃ」
 どうやらツナの言葉は予想外だったらしい。苦笑いを堪えたような声音に鼓動はますます激しくなって、とうとう堪えきれずに、ディーノに向きなおった。赤い耳をごまかすように薄いシャツの胸に頬を寄せる。
「オレはこれから先、最低でもあと二回、ツナ次第じゃ三回リングを渡すことになる」
 だからこれは予行演習な。そう言ってディーノはとても、それこそ衝動買いしたという指輪の宝石よりもずっとずっと綺麗で、マフィアらしさなどこれっぽっちもない、どこまでも透明な表情をみせた。
「お、オレなんかには勿体ないです、けど」
 ツナは男で子供で何も出来ない、何も持っていない、安っぽいいきものだ。ディーノにこうして大切にして貰うには役者不足の子供。唯一価値があるとすれば、それはボンゴレの血だけだ──ただ与えられただけの。
 自分自身で痛いほど知っているそれらが、瞬時に頭の中を駆けめぐる。勘違いするな、傲るな、期待などするな!だがそう叫ぶ理性をまるきり無視するように、気づけばツナの口は感謝の辞を述べていた。
「ありがとうございます。今は全然ふさわしくないですけど……ちゃんと頑張って、指輪にふさわしい人間になって、三回全部受け取りますから!」
 ディーノはほっとしたように大きく息を吐いた。
「何年でも待つさ。期待しててくれよ」
 声には確かな自信が籠もっている。こんなに格好いい人に大切にされているのだなと思うと、それだけで嬉しくて幸せでふわふわして、なぜだか涙まで出てきて、ツナは宝石が汚れないように左手でそっと目尻を擦った。


 朝になったら学校へ行かなければならない。外でなくしたり、自称右腕や風紀委員に見つかったりしたら取り返しがつかないから、少しだけ悲しく思いながらもそっと指輪を外す。
 小さな宝石は陽にあてるときらきら輝いて、濃く鮮やかで深みのある青が本当に美しい。ぼんやりこの色を眺めて短い別れを惜しむのが、すっかり通学前の日課になっていた。
(……あ、れ)
 ふと指輪の内側に目をやった。これまで気づかなかったが、細い甲丸の裏側のせいぜい名前を入れるのが精一杯だろうそこに、なにやら意匠が施されている。よくよく目を凝らしてみて赤面した。
(マーキングみたいだ……!)
 恥ずかしくて思わず視線を逸らしてしまった。だがそれでも、帰宅したら真っ先に右手の薬指に填め直してしまうのだろう。会いたくて会えない彼の、絡めたくても絡められない指の代わりに。
 学習机の抽斗に納めて厳重に鍵を掛ける。真夜中だろうイタリアに思いを馳せ「いってきます」と呟いた声は、しまい込まれた宝石と跳ね馬の刻印だけが聞いていた。