目覚める度に、耐え難いほどの不安と寂寥に襲われる。酷いときには、学校に着くまで指先の震えが止まらない。
今朝もそうだ。音にならない叫びに目を開け、寝汗の不快感にシャワーを浴びようと上体を起こしてはみたものの、それ以上は指一本意のままにできそうになかった。
物心着いたときには既にそうだった。幼い頃は単純に独り寝が寂しいのだと思い、両親にねだって添い寝などしてもらったが、大して効果はなかった。どうして自分はひとりぼっちなのだろう、いったい──はどこへいってしまったのだろう。そんなことばかりが頭の中をぐるぐると回って、結局眠れなかったのを今でも覚えている。
隣に住む年下の幼馴染みクラウスや、友人であるフリックらがいれば、大丈夫とまではいえなくとも随分ましになった。だがどんなに仲が良いと言ったって、毎日毎日一緒に眠るわけにもいかない。だからマイクロトフは、大抵この孤独と共に目覚めることになる。
きっとこの先何年経っても、この悲しみに慣れることは出来ないだろう。壁に飾った古地図と二振りの剣を見る度にそう思う。
どうにか落ち着く頃にはもう10時を回っていた。今更食事を作る気力など湧いてこない。仕方がないので、携帯電話と画集だけを持って部屋を出た。
このマンション群は、各棟一階の部屋のみ商店が営めるようになっている。マイクロトフはふらつく足取りで、B棟1階のレストラン・オレンジ亭へ向かった。若くてうさんくささ満点の外国人シェフが修行がてらやっている小さな店だが、安くて味が良く、パートのウエイトレスが美人だと言うことで、住人達の間での評判は良い。
時間帯のせいか、店内にはシェフのハイ・ヨーとパートのヒルダの他には誰もいなかった。
「こんにちわ」
「あら、マイクロトフさん、……お久しぶりね」
「はい。ここのところ、学校のほうですこし忙しかったもので」
「まあ偉い。ピートもあなたのように育ってくれれば良いのだけれど」
「あ、あまり買いかぶらないでください。手の抜き方が解らない朴念仁なだけですよ」
ふつりと会話が途切れると、先刻の挨拶の前にあいた微妙な間が気になった。普段なら気づきすらしないのだろうが、朝の感情を引きずって随分センシティヴになっているらしい。隠さなければならないようなことなのかと無性に腹が立った。
「ヒルダ殿、さっき……挨拶の時、なにを言いかけたのでしょうか」
「え?ああ、なんでもないのよ。本当に」
「些細なことでもいいのです。隠さないでください」
マイクロトフが真剣に頼むと、少しだけすまなそうに彼女は言った。
「……どうしてあなたは一人なのかしらって、そう思ったの。嫌ね、わたしももう年かしら。そんなのいつものことなのに」
──どうして一人なのか──それはあの夢を見た後の感傷にそっくりではないか。マイクロトフ本人がそう思い、赤の他人にもそう言われた。これではまるで、誰かと居るのがかつては当たり前だったようではないか。
何かあったら頼っておいで。柔らかい声が耳に蘇る。
それは酷く甘やかな声で、優しく優しく差し出された言葉だった。まるで自身が彼にとって特別だと勘違いしそうになるくらいに。──だがマイクロトフは、彼が本当にそう言いたいのが自分でないことを知っているのだ。知っているが、それでも頼れば彼が、とても嬉しそうな顔で笑うのだということもまた、解っていた。
こんな時ばかり縋ってしまうのは卑怯だろうか。だがもう恥も外聞も、己の矜恃すらも気にできそうにない。握りしめた携帯をそっと額に当て、それから震える指でボタンを押した。
行儀悪くテーブルについた肘の下には画集が広げられている。椅子に優雅にかけた赤い服の騎士と、その背後に立つ、揃いらしい青い騎士服の男の肖像画。彼らの顔はメールの相手とマイクロトフにそれぞれよく似ていた。
*
連絡をもらったときは歓喜に震えた。
思わず取り落としてしまった携帯を拾い上げながら、電子メールで良かったと心底ほっとした。もしもこれが手書きの手紙だったなら、たとえ返事をしたためたところで、一文字だって読めやしなかっただろう。
それほどまでに焦がれた相手が彼でないことはちゃんと解っている。だがもうずいぶんと長いこと、それこそ我慢の限界を超えるほどに待った。少しくらい錯覚したって、許してもらえるに違いない。
カミューがマイクロトフのマンションを訪れたのは、丁度夕日が沈む直前だった。
坂道に作られた天井のない階段の両脇に、これも階段状に片側三部屋ずつがあるという特徴的なマンションである。その丁度中程に腰掛け本を捲る人影を見つけて破顔した。階段を息ひとつ切らさずに登り、汗の一滴も垂らさずに笑う。
「待っていてくれたんだ」
「ええ。似た建物が多いですから」
「いやだなあ、私がおまえのうちを間違えるわけがないだろう」
それは虚勢でも何でもない、単に本当のことを口に出しただけだったのだが、マイクロトフは冗談ととったようだ。
「はじめてきたくせに、よく言う」
そう言って彼はふいと背を向けてしまった。ただし、からかうつもりだったらしい声音はどこか強ばっていたし、その耳や首筋が赤いのが時間のせいだけでないこともカミューにはちゃんとわかっていた。
「マイクロトフは特別だから。それにしても良い眺めだね」
高台である上に階段の途中なので、視界を遮るものが何もない。延々と続く市街を見やるとため息が漏れた。
──変わるものだな。当然だ、あれから随分すぎるほど時間が経ったのだから。
「先輩、そろそろ冷えてきます。中に入りましょう」
「ああ、うん」
彼は覚えているのだろうか。かつてカミューが犯した償いようのない罪と、それによって彼の身に降りかかった孤独と悲しみを。聞かなければ聞かなければと焦りはするのだが、頭のおかしい奴と思われて、彼に見捨てられるのが怖かった。結局なにも言えないままもう三年が過ぎている。
玄関前の広々としたスペースはとても外灯ひとつでは照らしきれず、隅には黒々とした闇がわだかまっている。無性に彼をそこへ引きずり込んで、抱きしめてキスしたくなった。しかし伸ばそうとした腕は鉛のように重く、ただぎゅうと掌を握りしめることしかできない。
このぬるま湯のような関係も悪くはない。だがそれだけではいまに満足できなくなるのが目に見えている。どこかで踏み切らねばならないのだ。
バタンと音を立てて閉まったドアが、今は牢獄の格子のようにさえ思えた。
貰ったメールの文面は、まるで内容の艶やかさに反比例するかのように、そっけないものだった。寂しいから会いたい、助けてくれ。それらの言葉に自分は一体何を期待したのだろうか?落ち着いて考えると自分が情けなくなってくる。
狭いベッドに並んで横たわり、そっとカミューの腕を握ってマイクロトフは訴える。
「ちゃんと朝までいてくれ。途中で帰ったりしないで」
「勿論だよ!」
朝目覚めるのが寂しくて嫌なのだと、目を伏せた彼の姿が忘れられない。最近は背筋を伸ばして前を睨む様子しか見ていなかったから、まるで昔の彼に戻ったようでどきりとした。
「ありがとうございます、先輩」
「名前で呼んで。敬語もなしだ」
「……ありがとう、カミュー」
応える代わりに、ゆっくりと黒髪を指に絡めた。千五百年前と変わらない手触りに少しだけ胸が痛む。
思い出せばそれだけで全てが解決するのに、どうして彼はわすれたままなのだろう?答えは出ないまま時間だけが過ぎていく。