ロックアックスの秋は短い。ついこの間までツマトリソウやイソツツジが咲いていたのに、今週はもう、薄手とはいえコートが手放せないほどの寒さだ。
 城下の高台にある家に帰るのに、遠回りをするのももう慣れた。四ツ辻で立ち尽くすこともなくなった。
 けれど一年が経っても、未だに、かつてのようにぴんと背筋を伸ばして歩くことは出来ずにいる。人は変わるものだ、苦笑せずにはいられない。
 もうすぐあの日が来る。去年は確か、はらはらと枯れ葉が舞っていた。


「出立の日にちが決まったよ」
 その声はいつものように穏やかで、優雅で、「愛してるよ」と囁くときと寸分変わりなかった。だからだろう、マイクロトフにはその意味がにわかに理解できなかった。
「来週の頭だそうだ。お前より少しばかり早いね」
「いつ戻る」
「半月後。たったの半月だ……あくまで予定では、だけど」
 泥沼のように終わらない戦争。そんな情勢下で、騎士団長ともあろう者がたった半月の出征だなんてありえないと、これまで培ってきた経験が言う──騎士団は彼と彼の率いる部隊を切り捨てるつもりなのだ。国境で戦うことになるマイクロトフと、その部隊を助けるために。白騎士団に次いで権力を持つ赤騎士団のちからを削ぐために!
 死を覚悟した者に、生き残る己が一体何を言えるというのだ。だから黙りこくって、ただ泣くのだけはいけないと唇を噛みしめる。
 いっそ気づけないほどに愚かなら良かった。無邪気に半月後の再会を待ち、ある日彼の訃報を聞いて、どうしてあのとき別れを言わなかったのかと悲嘆して、絶望のあまり胸を突いて死ねるくらいに無能なら。
 だが現実はそうではない。
「唇は噛むものじゃないよ。その癖は直した方が良い」
 カミューが苦笑しながら腕を伸ばす。
 ざわりと木々を揺らして、冷たい風が抜けてゆく。黄色く染まった葉がかさかさと音を立てて足下に落ちた。
「悲しいかい、それとも腹を立ててくれているかい?」
「両方だ。当たり前だろう……!」
 ありがとう、ひっそりと呟かれた言葉に、ようやっと首を振って応えた。体中が鉛のように重く、かたい。
「でもね、こう言うとお前は怒るのだろうけれど……わたしはこれで良かったと思うんだよ」
「どういう意味だっ」
「生き残る望みのある戦で突然死ぬよりも、覚悟が出来る分ずっと良い。別れも惜しめるしね」
 赤々とした落日に阻まれて表情は伺えなかったが、声音は先ほどまでの様子が嘘のように清々しい。なにかを吹っ切ったようで羨ましかった。


 のろのろと四ツ辻にさしかかった。ここをまっすぐ行けばあの日ともに夕陽を見た場所に出、右に折れれば暖かいはずの我が家に着く。
 カミューが居なくなってからというもの、仕事以外の何をする気力もなくなってしまった。特に人間関係についてが顕著で、実家とも騎士以外の友人とも縁を絶ってしまったし、逆に縁談はいちいち断るのを止めてしまった。そのせいで、気づけば伴侶などという生き物と共に、新しい家で暮らす羽目になっていた。
 爵位を持つ貴族のお嬢様で、花嫁修業は完璧、裕福に育ったが贅沢をしすぎない分別もある。理想の化身のような女を妻に迎えておきながら、愛情など少しも持てずにいる。当たり前だ。正直者のマイクロトフが「いとおしい」と思える相手は生涯たったひとりきりで、そして彼はもうこの世のどこにもいない。
 だから戦争がずるずると長引いたことは、ほとんど救いのようなものだった。遠征や訓練で妻と顔を合わせる機会が少なくてすむからだ。カミューが命をなげうってまで勝たせようとしてくれたのにと、苛立つことの方が多かったのだが。


 あれから結局カミューの出陣の日まで、暇さえあれば抱き合って過ごした。爛れていると仕事のために着替える度ぼんやり思ったが、そんな常識的な考えは、執務を終えて顔を合わせた途端に吹き飛んだ。
 これまでは、出征が決まるとそれぞれ用意したワインを空け、「武運を祈る」と何度も何度も乾杯した。そうして無事に帰ってくれば、同じボトルの酒で「団長殿の悪運に!」と同じように乾杯を繰り返し、声を上げて笑いあう。そうやって、すぐそこにある死への恐怖から陽気に目を逸らしていた。
 しかしもうそんなことはできない。いつの間にか、本当にこれが最後なのだと悲壮な覚悟を決めていた。
「奇跡だとか生まれ変わりだとか、信じられれば良かったね」
 それらがありえないと解っていたから、抑えきれない声やシーツに広がる髪、握りあった手の感触、そういったもののひとつひとつを焼き付けようと互いに必死だった。死にゆくカミューは最期の瞬間までマイクロトフのことを考えていたかったし、これから独り生きていかなければならないマイクロトフは、自身が天に召されるときまでカミューのことを何一つ忘れたくなかった。
「今からでも遅くはないのではないか?」
「そうかなー……それなら次はのんびり学生なんかやってみたいね、ニナ殿のようにさ」
「ああ、それに今度こそは旅をしたいな。俺はグラスランドに行ってみたいぞ」
 カミューが大切に大切に飾っている、古い羊皮紙の地図を見上げて、マイクロトフも希望を述べた。都市同盟、ハイランド、ゼクセン、無名諸国、ハルモニア、赤月帝国、そしてロックアックスにグラスランド。踏みしめた土地もそうでない土地もある。その全てを二人で回れたらどんなにか素晴らしいだろう。


 訃報は勝利を得たのとほぼ同時に届いた。遺品となったぼろぼろのマントと刀を受け取り、半泣きの伝令を休ませるよう副官達に指示を出す。
 呆れるくらいに何の感情も浮かばなかった。実感すらなかった。腹を括っていたせいだろう。
 ただ、ふとキバの顔を思い出した。先の統一戦争の終盤、軍主がマイクロトフやカミューを率いてロックアックスへと攻め込んだのと同じ頃、傭兵隊の砦で死んだ男。
 彼は息子を残して逝った。クラウスは、そしてキバからの報せを受け取ったシュウはこんな気持ちだったのだろうなと、ぼんやり思った。もちろんキバとシュウはただの「仲間」で、それに「恋仲」がつくマイクロトフのこの悲しさは、比べものにならないくらい大きいはずだが、それでも。
 想いはよく似ていたはずだ。


 食事の席で妻に「つぎの出立が決まった」と告げると、彼女は目を伏せ「はい」とだけ短く答えた。彼女はまたこの家で一人きり、愛のない夫の帰りを待ち続けるのだろう。
 ときたま、本当に時々無気力の靄が晴れることがあって、そんな時は彼女にすまないと思ったりもする。それでもやはり、カミューと過ごした官舎での生活と比べずにはいられない。あの頃は全てが鮮やかで、生き生きと輝いているように見えていた。それが当たり前になっていたから、物静かにお気をつけてだのお帰りなさいだの言われるだけでは、胸がすかすかして仕方ない。
 離婚ではなく死別なら、彼女の今後の人生に支障をきたすことはないだろうか。彼女の経歴に瑕を付けてしまったことが何より申し訳ない。
「寂しい思いをさせてしまって、すまない」
 知らず声に出していたらしい。妻は顔を上げ、頬を染めて幸せそうに微笑んだ。ああまた残酷なことをしてしまったなとぼんやり考える。せめて次はいい男に巡り会えると良い、そう祈らずにはいられない。


 どこで歯車が狂ってこうなったのだろうか──せめて誰のせいでもなかったのだと、親友も妻も、そして自身もわかっていてくれればいい。冷たくなった己の愛馬に背を預け、流れ出す血の色を眺めながらぼんやりと、誰にともなくそんなことを思った。