「どうした?何か困ったことでもあったのか?」
 混じりけなしの善意の言葉、そして差し伸べられた幼い手。その手をとったとき、漠然と、ああこの借りはきっと一生掛かっても返しきれないだろうと直感した。心を、体を、そして命さえも救われたようなものだったし、ついでにぼろぼろになったプライドも、彼のおかげで取り繕うことができた。へたに慰めたり助けたりしようとされなかったのがありがたかった。もしかしたら、彼の場合、単にうまい慰め方を知らなかっただけなのかもしれないけれど。でもそんなことはどうでもいい。私が彼に助けられたという事実には変わらない。
 彼のために、なにかすこしでもできることを。それが彼にできないことならばなお良い。最初はこんなに単純に、彼に何かを返したいと思っただけだった。
 彼の新しい家族を宿すための胎も、騎士団内での地位に関わる爵位や金も持っていなかったから、剣の腕がそれなりに立ったことは僥倖だった。彼に劣らぬようにと修練に励み、彼の苦手な政治や学問に関しても必死で学んだ。しばらくしてから知ったことだが、彼は女性が苦手で、彼自身が裕福な上級貴族の跡継ぎ息子であり、しかしその実家の政治力による出世をよしとしないひどく生真面目な性格だということだった。つくづく私は幸せ者だ。
 結局私は、ありったけの能力と手間と時間と運をつぎこんで、彼の「親友」というポジションを手に入れた。それはとてもとても暖かく、優しく、そして居心地の良いものだった。たとえ、ふとした瞬間に寂しいと思うことがあっても、なんでもないよと笑って言い切れるほどに。
 あまりにあっという間だったので、彼のこと以外の思い出はほとんどない。


 正騎士に叙任されてから、とりわけ赤騎士団長に就任してからは、毎日毎日、彼の負担がほんの少しでも減るようにと、内外に巣くう狐狸妖怪達を相手に駆け引きを繰り返すようになった。どんなに彼らに腹が立ったって、これがマイクロトフのためだと思えば耐えられた。
 どうせ返しきれないなら恩返しなどやめてしまえ、と思うほどにはまだ開き直れないでいる。
 周りにはまるで「騎士の鑑」のように見えるらしい。なるほど、友情のために己を犠牲にしていると取れば、そうなるだろう。だが真実はだいぶ違う。騎士道精神などこれっぽっちも関係ない。これはひとりの男の、薄汚い恋情を覆い隠すためのものにすぎないのだ。


 都市同盟とハイランドの関係はもともとよくはなかったのだが、年を越してから加速度的に悪化している。それに対して同盟はまとまる様子すらない。そのうち三分の一ほどは間違いなくゴルドーのせいで、私は資料を読むふりをしながら、どうしてもっと早く失脚させておかなかったのかと心底後悔していた。
 ルカ・ブライトの凶行がはじまっても万事その調子のままで、何一つ変わることはなかった。ミューズが陥落しても、サウスウィンドウ市長の首が晒されても、そしてグリンヒルで暴動が起きたときも。
 一体どうしてこんなことになったのだ、そんなことをマイクロトフとよく話す。ついこの間までは、戦時下とはいえ比較的のんびりした──悪く言えばなれ合いのような関係が定着しつつあったのに。ハイランド軍の声明には、同盟軍によるユニコーン部隊への急襲から始まったとある。けれど、本当に事態が深刻化して互いに後戻りが出来なくなったのはアナベルの暗殺からだろうとマイクロトフは言った。もちろん私もそう考えている。
 切っ掛けはいつだって些細なものだ。立場や権威などというごてごてした飾りを剥ぎ取ってしまえば、たった二人あるいは三人の子供が、女をひとり殺しただけの事件でしかないのに。
 細い月が天頂にさしかかった夜中、宿舎の彼の部屋に忍び込み、酒を酌み交わしながらそんなことをこぼした。
「だがその立場というものこそが大切なのだろう」
「というと?」
「たとえば、暗殺されたのが我らがマチルダ騎士団のゴルドー様だったとしよう。はたしてこんなに大きな嵐になったと思うか?」
 部屋の外にいるかもしれない白騎士に聞こえぬようにと耳元でささやかれた、わざとらしく大げさな言い回しの言葉に、私は思わず吹き出してしまった。
「お前にこんなユーモア・センスがあったとは知らなかったぞ!」
「少しはお前を見習おうと思っただけだ」
「ははは……では私はお前に倣って、少しはまじめな話をするとしよう」
「是非そうしてくれ」
 冗談めかして頷いたマイクロトフの耳に、今度は私が唇を近づける。身長差なんてほとんどないからから片膝をつくことは出来ないが、せめてこの真摯さが少しでも伝わればいいと、利き手を胸に当てた。
「お前はゴルドーのやり方を気に入っていないだろう」
 聞くまでもないことだから、返事を待たずに言葉を継ぐ。互いに表情の見えないこの体制に心底安堵した。
「なあマイクロトフ、お前はお前だけの正義を持っているね。それは素晴らしいことだ。……だが所詮お前ひとりの正義でしかない。だから、いつかきっと、他の誰かの正義との合間で板挟みになる日が来るだろう」
 それがそう遠くないことは簡単に予想できた。負け続ける同盟各都市に、ハイランド軍の残忍さ。だが同盟最大の軍事力を誇るマチルダ騎士団は、ゴルドーの命がないため未だ戦いに出ることが出来ずにいる。
 おそらくゴルドーは、同盟が本当の崖っぷちに陥ったときに鳴り物入りで騎士達を出陣させ、ハイランドを追い返し、再建した新しい都市同盟内での発言力を大きくしたいのだろう。もしかしたらマチルダを盟主とし、「ジョウストン都市同盟」を今度は「ロックアックス都市同盟」にでもしたいのかもしれない。案外そういう細かいことを気にする小物だから。
 荒れ果て、血に染まった無人の大地など支配して何になる。私はそう思うのだが。
「そのときには、お前はお前の思うとおりに動けばいい。後背など気にするなよ」
「……何が言いたい?」
「お前の後ろは私が見よう、だから代わりに、私の分まで前を見ろ。他の誰が何と言おうと気にするな。何千人何万人がお前を裏切ろうと、私だけは永遠にお前の味方でいる」
 ただの恩返しであるはずなのに、言葉の端々にみなぎるこの熱意は、まるで熱烈な愛の告白のようだ。言い終えたとたんにそんな考えが浮かんでおかしくなった。
 一方マイクロトフはなにやら真剣な顔で黙り込んでいる。あまりに何も言わないので、かえって心配になった。今更何と思われようが構わないが、信じてもらえないのだけは悲しい。
「どうした?」
 そっと声をかけると、彼ははじかれたように顔を上げた。
「あ、いや……すまない、嬉しくて、その……少し驚いただけだ。ありがとうカミュー」
 心底幸せそうに微笑んだマイクロトフは少しだけあの日のようで、私は、ああやっぱり彼が好きだなあとつくづく思った。恩だの何だの内心でどれだけごまかそうと頑張ったって、ちっとも効果は上がらなかったらしい。


「……その裏切り者を捕まえろ!」
 怒り心頭といったゴルドーの声が耳に響く。そうか、私達はいつも私達以外の何ものにも聞こえないよう注意を払ってきたから、彼は私の誓いも思いも知らないのだ。なんだか哀れにさえ思えてきて、少しだけ笑った。
 マイクロトフが私を置いていくことなんてあり得ない。どこまでだって私がついて行くからだ。そうして私が彼を裏切るなどということも、また、あり得ない。
「それはできませんね。……これで私も謀反騎士です」
 言いながらエンブレムを床に落とした。彼に誓いを立てたあの夜からちょうどふた月が経っていた。