異常気象もいいところだ。頭上の桜はもう三分咲きなのに雪が降っている。地面がぬかるむと作業はしにくくなるだろうか。それとも土が軟らかくなって掘りやすくなるだろうか。どちらでもいい、ひどく投げやりな気持ちで傘を畳んだ。
体温で雪が解け、すぐに髪からぽとぽとと雫が滴り始めた。けれど、やはりそれもどうでもよかった。
わたしにとって大切なものは、何ひとつこの地上にはないからだ。
ここに埋めてほしいというのは彼らの意志だった。丁度今日のように涅槃雪の降る三月の頭、大きなスコップを持って、ふたりを埋めたのだ。
寒さで手がかじかんで痛む。あのときのスコップとはいわなくても、せめて鉄製のシャベルくらい持ってくるべきだったか。伸ばしてアートを施した爪が剥がれる。しかし冷えきった指は痛みを感じもしなかった。
元々そう深くは掘らなかったはずだ。案の定すぐに一際大きな石が出てきた。それを丁寧に掘り出して脇に退かすと、くぼみの中に、ほつれて泥に塗れた三つ編みの先が見えた。
間近で聞こえたブレーキの音に、思わず顔を上げた。髪も服も泥に汚れていて、とても人に会えるような格好ではないが、だからといって今更逃げるわけにもいかない。
「誰?」
「……僕です」
「ああ、お久しぶりね」
わたしは笑みを作った。ぎこちなくなっていればいい。しかし彼は厳しい表情のままこちらに手を差し出した。
「あなたが墓守というわけですか」
「いいえ、わたくしはただの墓穴掘りですわ。だって彼らにはそんなもの必要ありませんもの」
「そう」
彼は桜を見上げて、もう一歩墓穴に近づく。もしも彼がこの地や骸を汚すようなことをしようとするなら、わたしは殺人を犯してでも止めなければならない。
しかしその決意はどうやら不要なようだった。彼はただ、悲しみや怒り、絶望、無力感など、いろいろなものの混じった複雑な笑みを浮かべただけだった。もしかしたら、それしか「しなかった」のではなく「できなかった」のかもしれない。その気持ちがわたしにはとてもよく理解できた。
「向こうの墓が空だということはうすうすわかっていたけれど……改葬しようだなんてことは、君や彼らにとっては余計なことだったのかな」
「わたくしには何ということもありませんわ。わたくしは彼らの意志に従うのみですし、それに、ここに来たのだって数年ぶりですもの。……ただ、そうね、あの人達にはそうかもしれない。墓参りなんか要らないと笑っていたわ。とっても幸せそうにね。一緒にいられれば幸せなのよ。あのふたりの世界は、ふたりだけで閉じていたのだから」
静と動、対照的な笑顔を見せてくれたふたりのことを思い出す。
彼らはきっとかわいそうな子供だったのだ。わたしはとても恵まれた生まれで、それゆえ何もかもを持っていたのだけれど、彼らはそうではなかった。生まれた時にはまだ少しの恵みはあったのかもしれない。けれど、過酷な環境は、彼らからそのほんの一握りのものすらも奪い去った。
けれど何年も何年も続いた人生のなかで、彼らは、その恵みを自分たちの力で得たのだ。ただ与えられただけのわたしのものとは、似ていてもまるで違う。人間らしさ、文化、教養、権利、そして家族や友人、そのすべてを。その生き様は強く、わたしは彼らが心底うらやましかった。どん底で築いたふたりの関係の間に、わたしは決して入ることができないと、わかっていたから。
こうしていると、彼らのことをとても大好きだったのだと改めて実感する。恋愛とは少し違ったけれど、彼らの幸せがわたしの幸せなのだと、今でも変わらずに思っている。
「ただ、約束を破ることになってしまうのだけれど、あのふたりを本当に大切にしているあなたたちを謀るのも嫌だったの。だから改葬の話をきいて、新しいお墓にせめて遺髪だけでも入れてもらおうと、ここに来たのよ」
汚れた手で鞄を開けて、途中のコンビニエンスストアで買ったカッターナイフを取り出した。真新しいビニールは手が滑って開けにくい。見かねたカトルが手を貸してくれた。彼の白い手が泥で汚れしまったのが申し訳なかった。
新品の刃は期待以上によく切れた。もうどちらのものかも解らなくなった髪を懐紙にくるんでカトルに渡す。
「改葬には行きません。わたくしの代わりにあなたがこれを埋めてください」
カトルは寂しそうに頷いた。彼はなにかと顔を揃えたがったから仕方がない。しかし今更どんな顔で、彼らの友人たちに会えというのだろう。故人の望みとはいえ、彼らを本当に大切に思っていた人たちに、何年も空っぽの墓を参らせていたのは、間違いなくわたしなのだ。
桜の根元に元通り石と土を被せて、わたしは立ち上がった。この爪先の下に、大切な大切な友人ふたりが揃って眠っている。今年もこの桜はさぞ綺麗に咲くだろう。そう思うと嬉しかった。
なに、と訊くカトルに笑ってみせて、カッターナイフを元通り鞄にしまった。雪はいつのまにかやんでいた。