その曲が始まった瞬間、思わず上着の裾を握り締めていた。
震えがくるほどの孤独と寂寥。会場は満席で、隣には火村だっていたのに、広い広い砂漠にたったひとりつっ立っている、そんな気持ちになったのだ。世界は空と砂のみで構成され、音といえば風が身に当たるささやかなもののみ。すぐにまた、耳が痛くなるほどの静けさが襲い掛かる。
中間部が終わってクライマックスに至っても、華やかさや盛り上がりとは縁遠い。まるで冷たい炎のようだ。
怒濤のように演奏が終わると客席に明かりがついた。第2部が終わり休憩時間に入ったようで、ばらばらと客たちがロビーに出て行く。隣はどうするのだろうと見やると、火村は驚いたような顔でこちらを見つめている。
「なんや?」
「顔。涙が」
「……うわ」
自分でも気づかないうちに泣いていたらしかった。頬は濡れ冷たくなっている。思わず擦ろうとすると、腕をつかんで止められた。
「馬鹿、擦るんじゃねえよ」
苦笑しながら火村が袖でていねいに拭ってくれた。コンサートには不釣合いな麻の感触が心地よい。
「すまん」
「そう思うなら、最初から泣くな」
まったく返す言葉もない。
照れ隠しにぱらぱらとパンフレットをめくり、先刻の曲名を探すと、「風紋」とあった。なるほど砂漠のイメージが浮かぶわけだ。中学生でも十分演奏できるレベルの曲だというが、とてもそうは聴こえない。曲の難易度とできの良し悪しは違うのだと、門外漢ながらぼんやりと思った。
「ええ曲やったなあ、最後の」
「あー……何だっけ」
「『風紋』」
「今のがか?」
「せや。君はこれを聴きに来たんやろ」
火村が同僚にチケットを押し付けられたのが、そもそもこんな似合わない格好でこんなところにいる理由なのだ。
「ま、あいつが薦めるだけのことはあったか」
「素直やないなぁ」
「だってあいつだぜ?絶対なにかウラがあると、俺は見るね」
「そら勘ぐりすぎやー」
いくら彼女だって、そこまで性悪ではないだろう。女傑ではあるのだが。
「ええもん聴いて、自分になんかええことがあったら、誰かにもおんなじ思いしてもらいたくなるもんなんや」
「ふうん。お前もそう思ったのか?」
「まだなんとも言えんわ。聴いたばっかで、なーんもええこと起きとらんし」
まさか先刻考えたことを言うわけにもいかず、とっさにそう誤魔化したが、勘の鋭い親友には気づかれたに違いない。火村はひっそりと笑って、わざとらしく組んだ足の上でパンフレットを開く。
喋ると墓穴を掘りそうなので有栖も黙り込んだ。不自然な沈黙が降りる。
気まずさを破ったのは第三部の開始を告げるブザーだった。ロビーに出ていた客たちも座席に戻ってくる、にわかに周囲が騒がしくなった。
不意に火村が耳元に唇を寄せた。
「お前が、今何を考えてたか俺には解らねえけど」
普段の余裕など微塵も伺えない、切羽詰った言葉。それを例の声で言うのだから堪らない。
きっと顔は真っ赤だし、口元はにやけているに違いない。それで有栖はとっさに俯いた。会場が暗いのがせめてもの救いだった。
「辛い思い出だけ抱えてひとりっきりみたいな顔して泣くとか、そんなの許したんじゃ、俺がここにいる意味なくなっちまうじゃねえか」
口調が早い。いつだって涼やかな顔をしている男の焦りが垣間見えたようで、また少し気分がよくなった。
視界の端に、揃って構えられた六本のトランペットがきらりとライトを反射するのが見えた。その眩しさに目を眇めながら、今どうしても伝えなければと、そればかり考えて口を開く。
「さっき俺、自分でも泣いとることに気づんかった。君が心配して教えてくれるから、そういうこと自覚できるし、どうにかしようとも思える。横にいる理由なんて、それで十分やろ」
舞台上の殆どすべての楽器が、厚みのある音を創っている。それらに負けないように、だらしなくぶら下がったネクタイを思い切り引っ張って、馬手で耳を抓んで唇を寄せる。
ちょうど先刻やられたことをやりかえしているような格好になった。
「……似たようなことを、フィールドワークの度に、俺も思っとるんや。気づけ阿呆」
つぶやいた言葉がかき消されていないことをただただ願った。