覚悟などとうにできていた。目の前に横たわる物言わぬ骸に腕を伸ばす。
ここ数年の暮らしはまるで、いつか来るこの日までのカウントダウンだった。年老いていく彼と変わらないわたしと。毎日毎日小さなカレンダーをめくって、けれど、あと何日なのかだなんてことはわざと考えないようにして。
胎から生まれ出でた生き物は全て土に還る。わたしはそうでないから、ずっとこのまま土を踏みしめて生きる。かつてわたしは彼に「感情もある、親に対する愛情もある、わたしもあなた達と同じ人間だ」と言った覚えがある。そう、あの頃はたしかにそう信じていた。けれど、ぎりぎりのラインに立ったときには必ず、まるで相容れないのだというかのように、同じでないところばかりが浮き彫りになってしまう。
万物は、生まれて死ぬところまでがワンセットだ。何が上位種だ?人造人間なんて、生命の営みに入ることの出来ない失敗作じゃないか。苛立ち吐き捨てるわたしに、彼はいつも穏やかな眼差しのまま手をさしのべてくれた。
──変わらないでいるということは、変わってしまうことよりも難しいことだから。ずっと出会った頃の君といられる俺はきっと、世界で一番幸せなんだろうね……
静かな寝室で窓の外を眺めながらだったか、穏やかな午後の風を楽しみながらだったか、彼がぽつりと漏らした言葉だ。本当は変わらないのではなく変われないだけなのだけれど、それでも嬉しかった。
素直でないわたしは、心にもない悪態をついてしまったのだけれど。
彼とわたしが定住を決めたのは、彼の故郷によく似ているという、温暖な田舎だった。年を取らないわたしのことを考えると、隠れ蓑の多い都会の方が都合がよかった。しかし、あの騒がしい過去から離れて静かに暮らしたいと彼が言ったから、反対しなかった。
困ったことなど何もなかった。互いさえいれば足りないものなどなかったからだ。彼の顔や手に皺が増えて、髪の色が抜けて、体の節や筋にがたがきて、よぼよぼのおじいちゃんになってしまっても、それは変わらなかった。
けれど、彼が意思のないただの屍になった途端、ここは本当に何もない、うろだらけの建物になってしまった。思い出なんていくら積み重なったって所詮は思い出で、生きている彼の一言にさえ及ばないから、空洞は日増しに増えていった。いや、もしかしたらわたしが気づいていなかっただけで、彼の心臓が止まってしまった瞬間から、この家の中は空っぽだったのかもしれない。
そんな家はもういらない。
「モーティマーさん、わたし、彼の骨はやっぱり故郷に埋めてあげたいわ。あの人はここを気に入っていたみたいだけれど……」
葬儀の日、わたしがそう言うと、親切で善良な自治会長は荼毘に付した彼の骨を丁寧に包んでくれた。その綺麗な白木の箱を暖炉の上に置いて、生きている間よりずっとたくさん見つめ続けた。一週間をそうして過ごして、次の一週間をわたしは家の片付けに使った。
そして十五日目にようやっと最寄りの駅へ向かったわたしは、玄関先でモーティマーと鉢合わせることになった。一応これでも未亡人だし、わたしは殆ど出歩かないから、心配してくれたらしい。きっと若い頃は彼のような人だったのだろう、そう思うとなぜか少しだけ胸が痛んだ。
「もう行くのか、寂しくなるな……君も向こうに残るんだろう?場所はどこなんだい?」
「東部よ。イシュヴァールに近いって、だから軍人になったんだって、あの人がよく言っていたわ」
これまでろくに話したこともなかったのに、普通に会話できることがおかしかった。
まだ夜の直行便に間に合うからと、汽車のチケットをとってくれるという彼の好意を断って、わたしは大きく息を吐いた。嘘をつくことに頭を使った事なんて、これまで一度もなかったのに。彼相手にそんなことをする必要はなかったから、きっと嘘の付き方を忘れてしまったのだろう。
そう、嘘なのだ。東部に寄ることもあるかもしれないが、それでも彼の遺骨を手放す気などない。一箇所にとどまれないわたしと一緒に、どこまでもどこまでも行くのだ。彼と出会った街にも、私の知らない彼のいた街にも、そして行ったことのない場所にだって。
彼の使っていたトランクに、思い出のカップやペンや手帳を詰め込んで、腰に銃を差して。杖と遺骨の入った包みを抱えて、世界中を点々として回る。ここでの暮らしほどに満ち足りはしないだろうけれど、彼を一人墓に残して旅立ちたくなんかはない。
「それじゃあ、さようなら……またね」
夕日に染まるチャールトン村の外れの一軒家は、どこまでも優しく、わたしはまた新しい感情を知った。
頬が濡れるのには気づかないふりをして。まずはセントラルシティのあのカフェでコーヒーを飲みたいと、ぼんやり思った。