記憶も過去もそのままに。まさしく生み直された己といういきものは、しかし、より狡く醜く浅ましくなっていた。
深夜の病室に人気はない。それがまたわたしの薄汚さを助長する。
「ジャン」
ひっそりと名前を呼んでみるが返事はない。あたりまえのことに、どうしてだかひどくほっとした。
眠る彼のベッドに椅子を寄せて、顔をのぞき込んでみる。苦痛に苛まれている様子はない。
わたしの目論見通り、彼が戦場に再び出てくることはないだろう。どんなに精力的にリハビリをこなしたって、少なくとも、父と人間との決着がつくまでには間に合わない。
それでも絶対に彼が狙われないと言い切れるだろうか?──答えは否だ。きっと彼は、ベッドをはい出すことすらできないこの体でも、できる限りのことをし続けるのだろう。そうすればいつかきっと必ず、兄弟たちの標的になる日が来る。
だからわたしは彼に銃を贈る。儀礼的な装飾を施し、聖なる銀の弾丸を込めたピースメーカーを。四十五口径は人を撃つには大げさすぎるが、わたしの兄弟を殺すにはきっとそれでも足りない。それでこの銃を選んだ。足りない威力を補うように、祈るような名前と迷信をもつ、この銃を。
神なんて信じてはいないが、彼が生き延びる助けになるのなら縋りたいとも思う。どうやら彼の存在はわたしのなかで、かつてわたしが考えていた以上に大きくなっていたようだ。
セーフティをかけたままの銃を大きな手のひらに載せ、指ごと握りしめた。
お願い、生き延びて、もうわたしにはそれだけで良い。けれどそれは声にはならず、かすかすと醜く喉につかえて消えていった。
「……ソラリス?」
呼ばれてわたしは顔を上げた。
今まで寝ていたことをまるで感じさせない、軍人の顔をした彼がわたしを見ていて、それだけで胸が熱くなった。ああ、この身にそんな余計な機能はついていないはずなのに。
彼が起きてしまった以上ここが潮時ということなのだろう。未練を押し殺してわたしは立ち上がる。
「それは偽名だと言ったでしょう」
「……ラスト、か」
「『色欲』のね」
かつて誇りにさえ思っていたその名が、今は苦い。
ぎしりと音を立てて彼が上体を起こした。手の中の銃を見て怪訝そうな顔をしたが、あえて何も言わないでいることにした。
彼はだまされた報復にとわたしを撃つだろうか。それもいい、わたしはそれだけのことをした。
「それじゃあね。もう会うこともないだろうけれど」
「待ってくれ!」
しかし彼がピースメーカーを構えることはなかった。代わりにゆるゆると手を伸ばし、スカートの端をつかんでベッドへと引き寄せる。わたしは渋々と言ったポーズを崩さないまま、それに従った。
もう正体などとうにばれているのに、今更何をしているのだろう。
「なあラスト、あのときなぜ俺を殺さなかった」
「殺す価値もなかっだけよ。馬鹿なことを訊かないで」
「……そうか」
「ええ。話はそれで終わりね」
忙しいのよ、わたしが笑うと彼はつらそうに首を振った。
「あとひとつだけだ、聞いてくれ……聞くだけで良いから」
ひとつだけ。それがわたし達に赦された時間なのだと思うと辛かったが、ないよりはましだ、そう考え直して頷いた。
彼はくしゃりと前髪を握りしめて言う。
「君の手紙を読んだ」
思わず息をのんだ。彼が読むことなど考えずに書き綴ったものだ。当然、伝えてはならないことも書いてある。
後戻りなど出来ないのだと今更ながらに悟った。きっと彼に接触することを決めたあの日から、わたしは引き返せない綱の上を歩いているようなものだったのだろう。そしていまだに向こう岸は霞んで見えない。
「もちろん今でも愛している。おかしいと思うかもしれないが、たとえ殺されたとしたって俺は君を愛し続けるんだろう」
「……知ってるわ、そんなこと」
虚勢はむなしく病室に響く。
「でも信じられない」
「ソ……ラスト、」
「ねえジャン、全てが終わったら約束を果たして頂戴。雪の降る街で待ってるわ。だから、お願い」
わたしだけを選んで。生涯わたし以外の女を見ないと誓って、お願いだから。わたしは本音を隠して、彼の好きだといった笑みを浮かべて吐き捨てる。
「まさか嘘だった訳じゃないでしょう?」
「当然だ」
ああわたしはやはり、かつてよりはるかに醜くなった。会いたい、その一心で、こんなところまで来てしまえるくらいに。そして彼を縛り付けて、心の底から歓喜にふるえてしまうくらいに。
もしも彼が約束を忘れて他の女とつきあうようになったら、わたしはきっとこの矛で、彼女たちを片端から殺して回るに違いない。そうして憎しみゆえでも哀れみゆえでもいい、わたしひとりを映した彼の瞳に陶酔するのだ。
「なあ、この病室は朝になるまで見回りが来ないんだ」
「だから何?」
彼は何も言わず、わたしの腕を取ってその胸に引き倒した。高い音を立てて銃が床に落ちる。
「君が死ぬまで気づけなかった俺を赦してくれ」
わたしはそろそろと彼の首に腕を回す。このまま背中から貫かれるとは思っていないのだろうか、思わず苦笑が漏れる。
「……会えて良かった」
くぐもった声はなぜか泣いているように聞こえて、わたしは横たわったままの彼の肩にそっと額を寄せた。
どうかどうか、このまま永遠に夜が明けなければいい、心の底からそう願った。