どうしよう、泥棒になっちゃったよ。ドラッグストアから持ち出してしまった歯ブラシを握りしめ、ひとり雪道を歩く。
無人でしかも気温の低い世界は、本当に異世界のようだ。もしかして、消えたのはみんなじゃなくておれの方かもしれない。思いついた瞬間に足元までぐんにゃりと歪んだ気がした。
泣きそうになるのをぐっとこらえて、つぐなえなくとも懺悔だけはしようと、教会へ向かった。家族のことも泥棒のことも、ゆうべアルの部屋の棚を壊したことも、全部謝らなきゃ。
重い木の扉を開けた先の暖かさに心底ほっとした。
十字架の下では聖歌隊がクリスマスのミサに向けて練習している。これ以上悪い子になったらいけない。そう考えて、邪魔にならないように懺悔室へ行こうと室内を見回し、ぎくりとした。
殺人鬼マスタング。
あわてて逃げようとしたが、その前に見つかってしまった。
「やあ、お隣さん」
「お、おう……」
やつは背が高い分歩くのも速い。あっという間におれを捕まえて、元いた席に戻ってしまった。おれの腕はしっかりとつかまれたままで、これではもう逃げるチャンスなんてない。
どうしようどうしようと悩んでいるうちに、今度は右手をとられてぶんぶん振り回された。腕が肩からもげて持っていかれそうだ。しかしそれは彼なりの握手だったらしく、これからは会ったら挨拶しようせっかくお隣なんだから、とアホみたいなことを言われた。
「こ、こんなところで何やってるんだよ」
「聖歌隊の練習を見ていたんだ。友人の娘がいるんだよ」
「どこ?」
「下の段の真ん中の、金髪の子だよ。エリシアというんだ。可愛いだろ?本番は来られないからね、いまのうちだ」
「ふーん。ご用事なの?」
「いや。……歓迎されないんだ」
「教会に?」
「教会は歓迎してくれるさ。あの子の父親だよ」
それって友達なんじゃないのか?疑問に思って訊くと、マスタングはどこか悲しそうな顔をした。
「馬鹿みたいに罵りあって、別れてそれきりだ」
拒絶されるのが怖くて電話も出来ない、手紙も書けないのだという。何だか呆れてしまった。女の人を殺しては地下に埋めている殺人鬼というより、単に人付き合いの下手なおっさんじゃないか!──いや、ひとごろしは近所付き合いのへたな人である可能性が高いって、この間ニュースで言ってたっけ。
だがもう少しも怖いなんて思えなかった。目の前にいるのは、たとえ人殺しでも、へたれでダメなおっさんなのだから。
「なあおっさん」
「おっさ……」
「勇気出せよ!俺だって一昨日は地下室が怖かったんだ。変な臭いするし暗いし。最初は逃げちゃった。でも今日洗濯しに入ったら、明かりもあるし、ただの部屋だったよ。ちょっと頑張っただけで、怖いものがひとつなくなったんだ」
おれがこいつを助けてあげなきゃ。殺人なんてしちゃいけないんだから。人付き合いが巧くなれば、もう殺す必要もないはずだ。それはすばらしいことのように思えた。
「だからさ、電話してみろよ。案外うまくいくかもしれないだろ」
「……無視されたら?」
「その時は、きっとつらいと思うけど、それでもここで悩んでるよりマシだよ。あの子だっておっさんに会えるのを楽しみにしてる。……だって、クリスマスなんだから」
マスタングはそれでもまだ迷っているようだった。無能だ。本当にこんな無能で優柔不断で、よく殺しなんてできたもんだ。これならまだおれの方がうまくやれそうな気がする。世の中ってよくわからない。
聖歌隊の合唱がやんだ。
「あ、おれもう帰らなきゃ」
「そうか?私はまだいたいんだが」
「いいよ別にひとりで帰れるし」
おれは繋ぎっぱなしだった手をほどいて立ち上がった。
何か大切なことを忘れているような気がするが、思い出せないのだから、きっと大したことではないのだろう。それよりも今夜のことだ。泥棒たちがうちを狙っている。家族がいなくなってもあそこはおれの家なんだから、おれが守らなきゃ。
「じゃーなっ」
おれは手を振って教会を出た。歯ブラシはとうとうずっと握ったままだった。