御手洗から「日本に行く」という連絡を受にけ、私は羽田へと向かった。国際線は成田だとばかり思っていたが、里美ちゃんによるとそれは既に昔の話らしい。
私は未だに馬車道のアパートメントに住んでいる。御手洗が帰ってきたときのため──などということはまったくない。御手洗なんか、いっそ、空き家になったこの部屋の前の冷たいコンクリートの廊下で、ひとり夜明かしでもすればいい、と思っている。それに、しつこいと自分でも思うのだが、横浜は未だに嫌いなのだ。ではなぜ引っ越さないのかというと、単に物が多すぎるからである。御手洗の持ち物はどれもみな、一体どう分別して捨てればいいのか、さっぱり見当がつかないのだ。
とにかくそういうわけで私は馬車道にいるわけだが、羽田まで乗り換えが少ないということだけが、せめてものなぐさめになった。
御手洗が滞在するのは一週間で、その間私は仕事をするのを諦めなければならなかった。一週間分の仕事を前倒しして片付けなければならなくなったわけである。結局連徹で机に向かうはめになり──老いたこの身体に徹夜は大層堪え、横浜駅で乗り換えてから、終点の空港駅まで降りないのを良いことに爆睡してしまった。車掌に肩を叩かれたときのあの恥ずかしさといったら、他に喩えようがない。だが、恥と引き替えに得た休息は、何とも心地のよいものだった。
電車を降りて欠伸を一つかみ殺した。時計を見やるともう昼を回っている。現金なもので、それまで静かだった腹の虫がぐうと鳴いた。食事は御手洗と一緒に外で、と考えていたため何も食べていないのだ。彼の乗る便は十二時ちょっと過ぎの到着だったはずだから、案外もう待っているかもしれない。私は心配になり、小走りで到着ロビーへと向かった。
ロビーは狭く、円形のベンチは全部埋まっている。ぐるりと周囲を見回して、私はもう何年ぶりなのか解らない、懐かしい顔を見つけた。
「御手洗!」
やたらと背の高い男が眠そうな顔で立っている。私は彼が見知らぬ人を相手に弁舌をふるっているとか、歌ったり踊ったりしているとか、そういう状況を想像していたため、彼が柱に凭れているだけだと気付いたとき心底安堵した。ただし、それは少しだけ甘かったのだが。
「やあ御手洗君、久しぶりだね。元気そうで安心したよ。その酷い顔は時差ボケの所為かい?」
実はこのとき、この嫌みったらしい喋り方は昔の御手洗のようだと少し可笑しく思っていた。だが、そのいい気分は、五分ともたなかった。
「食事はまだだろう?何か食べたいものはあるかい?」
「……ああうん。ところで大変申し訳ないのだが……君は誰だい?」
私は御手洗を殴り飛ばしていた。
これならまだ、帰国早々に脳の構造だの薬害だのについて延々と語られた方がマシだった。
結局食事をする気になどなれず、御手洗を引きずるように自宅に帰ってきてしまったのだ。勿論私はまだ名乗ってもいないし、殴られたことに驚いたのか、御手洗も殆ど口を利かなかった。ただ、電車を降りたときに、やや呆然とした口調でなにごとか呟いた。
私は、この時彼が「まだここに住んでいたのか」と云いたかったのだと推測しているのだが、実は十日前に、彼は馬車道の私の部屋の固定電話にかけてきたばかりなのである。これで私は、興味のないことは覚えていないという彼の習性が未だ健在であると確信した。
「ほら早く入って」
突き飛ばすように先を歩かせ、後に続いて鍵とチェーンを掛けた。そういえば、周囲の勧めもあって鍵をひとつ増やしたのだった。御手洗が突然帰ってきても締め出される事になっていただろう。ざまあみろ。
「昨夜まで仕事漬けだったから、何も用意してないぜ」
「ああうん構わないよ君。ただ、今の僕は、食事よりも君に自己紹介をして貰いたいね」
「……何でだよ」
本当に膝から力が抜け、私はみっともないことに座り込んでしまった。一時間以上ずっと黙っていたので、彼の中でもう結着がついたものとばかり思っていたのだ。
「まだ思い出さないのか!?」
「なんだいその言い方は」
「だってそうだろう!?僕は君と、ええと……とりあえず長い間一緒に暮らしていたわけだし、君はたったの十日前に僕に電話をしたばかりじゃないか!」
すると御手洗は肩をすくめ、
「別に君のことを忘れた訳じゃない。ただ名前が思い出せないだけなんだよ。出会った切っ掛けとか、あの時の事件なんかは覚えているさ」
私はまた、猛烈に腹が立つのを感じた。人が気にしていることを──自分でもしつこいとは思っているが、ああいうのは忘れられないものなのである──蒸し返すとは、いったいこいつはどんな神経をしているんだ!
「……一遍死んでこいよ」
真剣にそう思った。もしかしたら言葉にしていたかもしれない。良子の生涯に命の重さだとかそう云うことを学んだ私は、「死ね」と考えることすら自分に禁じていたのだが。なんだかどうでも良くなったのだ。
とにかく、御手洗が自力で思い出すまで、食事は作らない。そう決めた。
御手洗が帰ってきたらバタバタするだろう、それくらいの予想はしていた。だから夕飯用に鯖のみそ煮だけは作って置いたのである。私はそれを一人分だけ温めて、わざわざ御手洗の向かいに座って食べてやった。彼は未だ思い出さない、というか思い出そうという気すらないらしく、分厚い書類の束など読んでいる。
ものすごーくむかつく。事件でも起きてどっかに行ってしまえ!
すると念が通じたのか、御手洗は立ち上がって自分の部屋へと入っていった。
そして日が暮れた。
私は昼に食べたため半分になったみそ煮の、残り半分を温め直していた。沸騰させないように気は遣っているが、さすがにそろそろ風味が飛んできている。
「……飽きた」
言葉にしたらますます食べたくなくなった。仕方ない、御手洗にでもくれてやろう。そう思い、そっと彼の部屋の扉を開ける。
「やあ石岡君!」
そう云ってにっこり笑う御手洗の手には、「改訂文庫版・異邦の騎士」があった。名前を確認したのだろう。そして──その背後には、目一杯に散らかった部屋。
「ミタライィ?」
後になって考えたことだが、この台詞は我ながら「地獄の釜の蓋が開いた」ような声だったと思う。とにかくなんだか、猛烈に腹が立ったのだ。
「出て行け!掃除が終わるまで、京都でもスウェーデンでもどこでも行って、帰ってくるな!この馬鹿!!」
「何を怒っているんだい?」
解らないのかこの研究馬鹿。
もう一発殴ってやろうと拳を握りながら、私はああ御手洗が帰ってきたのだと、ようやっと実感した。