某年八月中旬、小さな古刹の墓地に彼が眠ったことを知った。
*
墓参りに行ってきなさい、祖母にそう言われて、兄弟は渋々墓地へと向かった。
祖母の家に行くのは楽しい。親戚たちは皆優しいし、なにより手伝いをしなくてもいいからだ。
しかしこの墓参りだけは嫌いだった。どうして顔も知らない人たちのために、こんな面倒なことをしなければならないのだろうか──それにもし自分たちが死んでも、両親は近場に新しい墓を買い求めるだろうから、ここに入ることはない。そう思うと足取りは自然と重くなった。
「さっさと終わらせて、帰ろうぜ」
「うん」
墓地は山の斜面を階段状に削って作られたもので、兄弟の家の墓はその中程にある。当然その先に行ったことはないし、行こうと思ったこともない。墓場など冒険したって、見つかるものなどたかがしれているからだ。
しかしその日は違った。
だらしなく和服を着た男が一人、この墓地に唯一備え付けられた桶と柄杓を持って、奥へ奥へと行ってしまったのだ。桶がなければ墓まで水を運ぶことができないし、柄杓がなければ墓石の汚れを流すことはできない。どうするか考えた末、兄弟は男の後を追うことにした。
「あの人が使った後に貸して貰えばいいんだ。あの人だって片付ける手間が省けていいにきまってる」
「そっか、そうだよね」
「そうだよ。早くいこうぜ」
うなずき合って兄弟は駆けだした。スニーカーで湿った斜面を駆け上がる。途中にはいくつも急な石段があって、兄弟で手をつないでそこを上った。
男はどうやら一番上まであがったようで、とうとう追いつくことはできなかった。
「あのー、すみません!」
最後の石段をあがると丁度半円形の地面が広がっていた。その先は崖になっているらしく、遠くの山々が見渡せる。平素ならきっと見とれてしまっただろうが、だがこのときばかりは薄気味悪いとさえ感じた。
男は墓石をぐるりと囲む低い塀に、だらしなく腰掛けて缶コーヒーを啜っていた。尊大な態度に半ば気圧されながらも、用を済ませようと意を決して声を張り上げる。
「あの、使い終わったらでいいんですけど、桶と柄杓を貸してください!ひとつしかないみたいなんで……」
「ああ、それならもう持って行って構わない」
「ありがとうございます」
よかったな、後ろを向いて弟に笑いかけようとして、凍り付いた。
手をつないだ感触はある。しかし弟は確かにいないのだ。──ならば今、この手を取っているのはなんだ?
「決まっているだろう、桶だ。しかも中には柄杓まで入っている。本当はひとつにつきひとつを貰う決まりなのだが、ここの主は礼儀の正しい人間が大好きでね。久々にそういう子供を見られてきっと喜んでいるから、今日はサービスしておこう」
ひとつにつきひとつ。手をつないでいるのは柄杓入りの桶──
「桶がほしかったんだろう、それは今おまえの手にある。そのまま墓を掃除して帰ればいい。何を躊躇うことがある?」
「なに、って……お、桶なんかいらない、弟をかえせ!」
「残念だがそれは……なんだ警部殿、不服か?そうだな、それじゃあ」
男は墓をちらりと見やって立ち上がった。猫背気味だったのを正しただけで威圧感が増す。子供の位置からは、逆光で、表情はよく見えなかった。
「もうひとつだけサービスだ。弟くんが、最初からいなかったことにしてあげよう」
そうすれば君は誰に咎められることもない、男はそう唆す。
「よかったな、警部殿はよほど君が気に入ったようだ。俺はあまり好きではないがね」
「なにがよかっただよ!何もいらない、何もしなくていい、弟をかえせ!」
「だからそれはできない」
「だったら……代わりにオレを連れて行けよ!どうせ食べるんだろ、それならオレでも味なんて大して変わらな、」
言い終わる前に言葉がとぎれた。男が忌々しげにまた座り込んだからだ。
「くそっ、どいつもこいつも似たようなことを言う。おい警部殿、あんたのせいで俺はまた食いっぱぐれだ。餓死したら責任をとってくれよ」
「は?」
「ふん、こっちの話だ。俺は死んだあいつにも勝てないらしいぜ……弟は帰してやろう、桶もやる。さっさと墓参りをすませて帰れ」
舌打ちと同時に、背後の気配が弟のものになった。振り向くとその手の中には件の桶と柄杓、それにサービスのつもりか手ぬぐいまで入っていた。忌戸部商店街と藍で染められたロゴが、この場にひどくそぐわない。
「俺のことは誰にも言うなよ。言えば、」
「わっ解った、言わないよ、だれにも」
「ならばいい」
「なあ……ここは誰のお墓なんだ?」
おそるおそるといった子供の言葉に、男は皮肉気に笑った。
「警察官だよ。人間を信じて死んだ。馬鹿なやつだ……本当に、あいつは馬鹿だ」
言い終わったのと空き缶が放られたのは同時だった。子供はあわててキャッチして、桶に入れる。
「捨てといてくれ」
それで最後だった。鬼が面倒くさそうに手を振ると強風が吹き、目を閉じている間に件の墓は石段ごとみえなくなった。
*
ようやっと墓参りに行こうと決心したのは、彼が死んでから半世紀も経った日のことだった。
当然まず墓を探すことから始めなければならなかった。実家は高名な陰陽師の家系だと言っていたが、笑えないことにその家は絶えていた。それだけの月日が経ったのだと、己と彼の時間の流れ方は違うのだと、改めて目の前に突きつけられたような気分になった。
あらゆるつてを辿ってあたってみたものの結果は思わしくなく、結局墓の場所が解ったのは、物入れの奥から出てきた、随分昔に彼の親戚から送られてきた手紙によってだった。
「ベニーの遺言書にしたがって、彼が生前に残した手紙を送ります」
アメリカの親戚の手によるのだろう、流麗なアルファベットからようやっとそれだけが読み取れた。鬼丸は未開封だったベニーからの封書を破り捨てた。時代錯誤な墨痕がなつかしい。
宛名には、鬼丸三郎太巡査部長とあった。何年経っても己にとって彼が警部であったのと同じように、彼の中でも己は巡査部長だったのだと思うと、素直に嬉しかった。
*
君はいつかした話について憶えているだろうか。自己犠牲とその逆と……自分を助けるために他人を犠牲にする、どちらがひとの本質なのだろうか。あれはあんな話だったね。結局結論は出なかったわけだが、どうだろう、今度こそあの決着をつけないか?
君にはまだまだ時間があるだろう?わたしの墓に住んで、実際に数えてみる気にはならないか?もちろん、自己犠牲を選んだものも、そのものが助けたものも、食べてはならないという制約つきで。
わたしの言うとおり、人間がまだ救いのある生き物ならば、君はあっという間に死んでしまうだろうね。だが、君の言うとおり人間がどうしようもない生き物だったならば、君は永遠に飢えることはないだろう。
君の食事については奇妙な老人から話を聞いたよ。君はひとを食らうのだそうだね。ところが、わたしはね、最低なことに、君に食事をするなとも言いたくないのだよ。君に飢えて死んで欲しくなどないんだ。そうするには君とあまりに長い間を過ごしすぎたようだ。
陰陽師どころか、警察官、いや人間すらも失格だな。でもそれだけ、わたしは君のことが、
いや、それは言わないでおこう。とにかく君が君の信じる道により生き延びる、その方法だけは残しておきたいと思っているのだと、それだけ知っていてくれればわたしには十分だ。
伸るか反るか、君がどちらを選ぼうが構わない。どちらにせよわたしには知りようのないことだ。
ああ、次に会うときには敵対などせずにすむ立場がいいな。もっとも、この生だって、わたしが一方的に敵視していただけで、君にはなんともなかったのかもしれないが。
思えば楽しい人生だったよ。特に日本に戻ってからは最高だった。君のおかげだ。
本当にありがとう。そして、すまなかった。
*
手紙の最後には、彼の署名と血判があった。
鬼刑事さん、どこかからかうような彼の声が蘇る。
(君は人間など信じるなと言ったね。だが私は、人間というものを信じずにはいられないのだよ。それがたとえ、どんなに汚いものを見た後でも)
そう言って苦笑したベニーの横顔を思い出す。たまらなく会いたくなった。
着なくなって久しいよれよれのスーツを引っ張り出し、件の葉書とポケットサイズの時刻表とを持って、部屋を出る。
ふと思い立って、バー女郎蜘蛛へ寄った。
ほとんど自殺の手伝いをさせるようなものだ、無理な頼みだろうし、いい顔だってされないに違いない。それでもこんなことをするには今でなければならないような気がした。
そして鬼丸は山を登った。蜩が喧しく鳴く、ある年の盆のことだった。