一歩、また一歩と。

抜き足差し足忍び足。

誰にも気付かれずに、面倒を起こさず、しかし迅速に進め。

到底無理な話だった。

「……なーにやってんだい、お前」

「ぎくぅっ!! ……いーえ、別に何も?」

口でわざわざわざとらしい擬音を付けるのは俊足の天狗、射命丸文。

その文の先程からの奇妙な動きを背後からじっと観察していたのは感染病を操る土蜘蛛、黒谷ヤマメだった。

「こんな地底くんだりまで来て“何も”? そりゃちょっと無理があり過ぎるんじゃないかねえ」

ジト目で見詰めたまま文に迫るヤマメ。一方文は面倒なことになったなぁと呑気なことを考えていた。

取材をする時に戦闘などはあまりしたくない。弾幕を写真に撮るというのなら話は別だが、今回はただ地底の奥底にある地霊殿の親玉に会いに行くだけなのだ。

例え戦闘をしたところで負ける気はしないが、ただただ面倒臭いだけなのである。

だから文は苦し紛れに思いついた作戦を実行することにした。

「あー……分かりました分かりました、取材ですよ」

「取材? 何それ」

ヤマメが見事に食いついてきたので、懐からさっと一枚の紙を取り出す。

勿論文々。新聞である。

「実は私、こういったものを書いておりまして。いわゆる記者というものをやらせて頂いております射命丸文と申します。本日は地底の妖怪についての特集を組もうと思いまして」

勿論口から出任せだ。

しかし相手が乗って来て、且つ面白いネタが聞ければそれを記事にしてしまうのもアリだろうという考えも頭の中にはあった。

利用できるものはいつでも利用するのである。

「つきましては、まずは貴女にお話をお聞きしようと。すいませんが、まずはお名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?」

「私? 私は黒谷ヤマメだけど」

「く、ろ、だ、に……ヤマメ、さんですね。では本題に入りますが――」

相手がノリノリな以上仕方がない。

文は予定外ではあったが、ヤマメ相手に取材を敢行することに決めた。

 

 

「できたら私にも見せてね。楽しみにしてるよ」

笑顔で文へ手を振り見送りするヤマメ。文も手を振り返しながら先へと進む。

結局最後まで取材し切ってしまった。しかし気さくに取材に応じてくれたのは幸いと言うべきか。いつもよりは楽に話が聞けた気がする。

物は考えようとはよく言うわ。

実際に書くかどうかはまだ分からないが、とりあえずこれで一本は書けるだろう。そう考えると幾分かは気が楽になった文であった。

何しろ、今から訪れる予定の地霊殿。風の噂では、一際異能の能力を持つ地底の妖怪達でも裸足で逃げ出す伏魔殿だそうだ。

一応地上にいる巫女を利用して一度潜入したことはあるのだが、やはり間接的では大した情報は得られない。やはり自分の足で調べてこそその情報は価値があると言えよう。

何だかんだ言って、ただ“心を読む程度の能力”がどんなものなのかその身で体験してみたかっただけなのだが。

野次馬根性である。

「さて、と……形振り構わず飛んできたのは良いとして、ここから先は慎重に進まないとなりませんね……」

橋姫に見付かると少々面倒なことになりそうだったので、文は最高速度で地下へ地下へと潜り進んでいた。

そして途中で洞窟のような景色は一変し、辺りはまるで祭りの後を思わせるかのような気だるい雰囲気に包まれた。

橙色の街灯がそんな風に感じさせるのか。古く寂れた外見の飲み屋が何軒も連なり鎮座していた。

どこか浮ついた空気が漂っているのはここ独特の雰囲気によるものだろう。

羽を畳んで飛ぶのを止め、物陰に隠れる。

旧地獄街道。

文もとい天狗の直属の上司と言える鬼の一人、怪力乱神を体現する山の四天王が一人星熊勇儀が闊歩する旧都の大通りである。

前回は霊夢が不用意に出会ってしまったせいで黙っていれば分からないにも関わらず、平身低頭で挨拶してしまった。

恐らく今度直接に出会えば勝負事の好きな鬼のことだ、勝負を挑まれるに違いない。

やはり痛いのは嫌なのである。

けれど今の様子を見ると、どうやらそんな心配はいらなそうだった。

へべれけに酔った妖怪が二、三人ほどほっつき歩いているのみ。文の恐れているその人は、少なくとも視界の中に入ることはなかった。

ほっと胸を撫で下ろす。

……しかし、嫌なことと言うのは得てして嫌な時に訪れるもので。

「うぃー……お? そこにいるのは誰だい?」

「にゃっ!? あ、あなたは!?」

慎重すぎるのも考えもの。辺りを見回している間に、文の背後にその勇儀当人がいた。

流石に後ろまでに注意を払うことはできなかったようだ。

「あー……? 何だその羽? ……お前、ここのもんじゃないな?」

文の背中から生える黒い羽を指差し勇儀は言う。それを文は慌てて否定した。

「いえいえいえ! これはほら、あれですよ。いわゆるコスプレってやつで――」

「コスプレ? ……ははーんそうか。お前これから仮装舞踏会にでも参加するつもりだな? 私も混ぜろ!」

文は後ずさりしながら逃げだそうとするが敢え無く捕まってしまった。首を腕で締めあげられ、一瞬息ができなくなる。

ばんばん、と勇儀の腕を慌てて叩き、自分に戦う意思はないと伝える。

勇儀はおっとすまんねえ、と言ってぱっと腕を離した。

「悪い悪い。どうも酔ってると気分が昂ってくるんだよ……ひっく」

酔っ払いだ。性質が悪い。

「げほっげほっ……か、勘弁して下さいよ……。鬼は人一倍力が強いんですから」

「だから悪かったって。……冗談はさて置き、こんなところまで何の用だい? 山の天狗よ」

そのものずばり自分の種族を当てられて、文はぴたりと動きを止める。

「……何のことでしょうか? この羽は飾りですよ」

「惚けるなよ。声も覚えてるぞ? 確か……射命丸だったか。前回は怨霊の調査って言ったっけ?」

「……憶えておいででしたか」

諦めたように文が溜め息を吐く。自分の名前まで当てられては、もう言い逃れはできまい。

鬼の前では小さな嘘など無力なのである。それにここでは本当のことを言った方が賢明だと思えた。

「今回は個人的な取材です。この先の地霊殿の主にお話をお聞きしようと思いまして」

「それは本当かい?」

笑顔で勇儀は言う。

しかしその声に朗らかさはない。

目には見えないが、しかしそこに確かにある圧倒的な脅威。言わば威圧感とでも形容すべきか。

場には冷たい空気が流れる。

“私の前で嘘は通じない”、と……そう言いたいのかもしれない。

「ええ、本当ですよ。鬼にすら嘘を吐くのは愚か者と少年だけです」

「……そうかい。賢明な判断だ。……しかし、地霊殿だって? あんたも物好きだねえ」

地底でも忌み嫌われる。勇儀も嘘は決して吐かないが、心の中を覗かれるのはやはり心地の良いものではないらしい。

正直者の鬼ですらそうなのだから、他の者にとってはより嫌なものだ。特に、文のように言葉を状況に応じて使い分ける者にとっては。

「ま、取材のためならある程度の危険は承知しておかなければなりませんし。覚悟はしていますよ。……そろそろ宜しいでしょうか? 私にも時間の制限はあるので」

「おっと。足止めして悪かったね、行きな」

勇儀は文の正面を空け、そこを通れとばかりに手を差し出す。

何だか拍子抜けしながら、文は翼を広げ加速を付けて空へと羽ばたいた。

「悪さはするんじゃないよー!」

下から勇儀の叫ぶ声がする。文は苦笑して頷いた。

しかし、案外どいつもこいつも気さくなものだ。

恐い恐いと思っているから嫌なように感じてしまうのかもしれない。殊鬼に関しては、天狗や河童など山の妖怪達は畏敬の念を抱いていた。

まるで天の上の存在と思っていたのだが、話してみれば割と分かる奴だった。これは、自分達の認識を改めなければいけないのかもしれない。

新たな発見を胸に、文は旧都の上空を駆けて行った。

 

 

「ほー……ここは変わらず豪華な様相なのですね」

地上にある洋風の館、紅魔館。それに負けず劣らずの大きさと重厚な荘厳さを持っているのがここ、地霊殿だった。

あれから半年も経っているというのに、その雰囲気は全く変わっていない。

「ま……気後れしては天狗の名が廃ります。ここは敢えて元気よく挨拶をしていきましょう」

目の前に聳え立つ大きな門を、拳で力強くがんがんと叩き文は叫ぶ。

「たのもーっ!!」

「それは間違った挨拶の仕方だと思いますよ」

「へ?」

即座に扉が地を響かせながら内向きに開き、一人の少女の姿が現れた。

少し癖の付いた紫色の髪の毛。底の見えないジト目。胸にある瞳の付いた球体から飛び出す幾つものコード状の何かは身体を取り巻き、手や頭など各末端部と繋がっている。

そして何より特徴的な、どこかの幼稚園で指定されているスモックのような服を着た彼女は、紛れもなく地霊殿の主古明地さとりだった。

「……『まるで幼稚園生のよう』、ですか。初対面でその感想は失礼なのではないですか?」

「あぁ、貴女は心が読めるんでしたっけ。これは失敬。あまりにも霊夢から聞いた通りの外見でしたので」

「霊夢? あぁ、あの目出度そうな巫女ですか。あの人はなかなか強いですね、こてんぱんにやられました」

淡々と喋る彼女の表情に感情は籠っていない。まるで機械のようだ。

文は少し怖じ気づきながら、それでも気丈に振る舞った。

「仮にも巫女ですしね、妖怪退治はお手の物です。……自己紹介が遅れました、私は射命丸文と申します」

「知っていますよ、あの時連絡を取っていたのは貴女でしたね。今回の目的は? ……あぁ、取材ですか。そう言えば種族が天狗でしたね、貴女」

心が読めるだけに話の展開が速い。予想以上のその能力の異常さに、文はすっかりペースを崩されていた。

そもそも新聞記者などと言うのは本音と建前の使い分けでやっていけているようなものである。それが通じないさとりが相手では、まともに会話できるかどうかも怪しい。

それでもここまで来たのだ。話を聞かないで帰るのではあまりにも割に合わない。こうなったら意地でもやり通してやろうと、文は心の中で決心した。

勿論それもさとりには丸分かりである。

「噂通りのようでして……。なら話は早いです。どうか取材にご協力」

「しませんよ。どうぞお帰り下さい」

「あや。これは手厳しい」

見た目と話し方、その物腰の柔らかさに比べるとこの返答は少し彼女には不似合いだった。

文はすっかり話を聞いてくれるものだと思い込んでいたのである。

「新聞で何をどう書き立てようと貴女の勝手ではありますが……失礼ながら貴女の心を拝見したところ、どうも私にとって不都合なことばかり書く可能性が高いようですね。それでは誰も取材など受けませんよ」

今までの所業は全てお見通しのようであった。やはりやり辛い。

それに、文としてはその言葉は心外だった。

「……私としては、読者に真実をより面白く伝えようとしているだけなんですがねえ……やはり客観的に見るとそうなんでしょうか」

文はただただ必死なだけなのである。

あまりにも面白さを追求し過ぎるが故に、その記事が一体どういうことを指し示しているのかが分からない時がある。

結果、文の記事は関係者の反感を買うことになる。

必死であるが故の盲目。さとりなどの第三者にそれを指摘されると、問題点は一層浮き彫りになってしまう。

文自身分かっていたからこそ、再度言葉にして突き付けられるととても悲しかった。

「……そう落ち込まないで下さい。話ぐらいなら、聞いてあげても構いませんよ?」

「…………本当ですかっ!?」

顔をぱあっと明るく輝かせさとりを見詰める文。その変貌振りには寒気すら覚える。

お前、ヘコんでたんじゃなかったのかよ。

憐憫を垂らした自分の判断は、もしかして間違っていたのだろうか。

さとりは早くも文の用意周到な策略にはまりつつあることを感じた。

 

 

大きく広い屋敷の中。豪華な装飾は部屋を明るく彩り、まるで今にも舞踏会が始まりそうな雰囲気を醸し出していた。

しかし、それに不釣り合いな程小ぢんまりとした、二人の間にある丸テーブル。

ぽつんと部屋の中心にあるそれの存在感は圧倒的に大きく明らかに浮いていた。違和感しかない。

「『こんな大きな屋敷にこんな小さなテーブルしかないなんて』、ですか? 来客も少ないのでこれで事足りるのですよ。ペットはテーブルを必要としませんし」

成程、確かにここにテーブルを必要とするのは彼女と彼女の妹以外にはいないだろう。思わず納得してしまう。

それでもどこか落ち着かないこの感情は、決しておさまりはしないのだが。

「どうぞ。紅茶です。お気に召しませんでしたら、他のものとお取り返しますが」

「へ……? ……あ、あぁはい! どうもありがとうございます!」

さとりが口を開いて初めて文はテーブルの上に置かれたティーカップに気付いた。

それ程周囲の風景に気を取られていたのもあるだろう。彼女の心は確かに浮ついていた。

主本人が目の前にいると言うのに、文は物珍しそうな視線をあちらこちらに投げ掛けていた。

存分に屋敷の雰囲気を目でも肌でも味わった後に、漸く文はさとりがずっと自分を見詰めていることに気付いてこほんと咳払いする。

そしてやや俯き加減になって言った。

「何だか申し訳ないですね……こちらが勝手に押し掛けて来たというのに、お紅茶まで頂いてしまって」

「構いませんよ。お客様には丁重な御持て成しを。……それも半年振りのお客様ですから、尚更です」

そう言ってさとりはにこりと笑う。主にふさわしく、その仕草もまた優雅なものであった。

……しかし、半年振りとは。以前自分達がここを訪れてから、誰も来ていないことになる。

改めてさとりという妖怪がどれ程嫌われているかを理解させられ、またそれ故に不思議に思う。

一見、というか今の今までさとりにどんな非があったろうか? ……ない。見当たらないのだ。地上ではその存在が特に取沙汰されることもなく、地底では名を口にすることすら禁忌とされる。それ程までに畏怖される対象とは到底思えなかった。

これでは地上の吸血鬼の方がよっぽど傍若無人で嫌われる対象ではないか。主として、妖怪としてはそれで正しいのかもしれないが。

「……不思議、でしょうか」

「え?」

「それでも、私には何も不足はありません。干渉さえしなければ、向こうからも干渉してくることはない。ただそれだけのことですから」

全く口にしていないのに、文の疑問に応じたさとり。

まるで文の心の中と会話しているかのような言葉。……いや、現実にさとりが会話しているのは文の心となのだろう。

何よりも直接的で、この上なく明確に。言葉は真意を修飾するものでしかない。一方的ではあるが対話というプロセスの壁を一つ取り除く彼女の能力は、こういった点に於いて最も優れていた。

その事実は、文に一つの閃きを齎す。

「……そうだ! 貴女、私と組まない?」

「…………はぁ?」

あまりにも突飛な提案。話の流れからすればそんな言葉が口から出てくるはずはないというのに、この女は一体何を聞いていたのだろうか。

今までの話を完全に置き去りにした文の言葉に、さとりは面食らった。

文は構わず続ける。

「貴女のその真実を見据える瞳があれば、嘘で塗り固められた言葉も一瞬で丸裸に! これは最強のタッグですよ、私たちは出会うべくして出会った運命の組み合わせなのです!」

立ち上がって明後日の方向を向きながら、まるでミュージカルの舞台のように高らかに叫ぶ文。狂言かとも思えたが、心の中も大体同じようなことを考えていたのでさとりは驚いた。

だから虚を突かれる。

ぼけっとしている内にいつの間にか、さとりは文に両手を握り締められていた。

「そうと決まれば話は早い。さぁ、地上へ出て早速手伝って貰いますよ! あぁ楽しみです、貴女がいれば我が新聞は更に輝きを増すことでしょう!」

「え? いや、あの……」

「何かご不満ですか? あぁ、歓迎会がまだでしたね! 宜しい、では先に里へ行きましょう。私の行きつけの店に、とても美味しい料理を出すところがあるんですよ!」

文はジョッキを一気に飲み干す手振りまで付けてさとりに説明する。眼は爛々と輝いてさとりを離さない。

それまでとは真逆に、文の勢いにさとりはすっかり呑まれていた。

「では行きましょう! ね? ねっ!?」

「はぁ…………え?」

「よぉーしっ! 行きますよ、しっかり掴まってて下さい!」

文はさとりを抱き抱える。目を白黒させながら、何が何だか分からないと言った表情でさとりは文にしがみ付いた。

次の瞬間。

そこに二人はいなかった。

残されたのは黒い羽が数枚と、どこかとても遠くから届くか細い悲鳴のみだった。

 

暑い暑い真夏の日差しが、二人の体を焼き焦がす。

しかしそれよりも何よりも、眩しい光が目を貫く。

「うっひゃー! 眩しーっ! 暫く暗い所にいたからかなぁ、目が全然使い物にならなそ……どうしました?」

文はぴたりと飛ぶのを止め、ゆっくりと地面に降りた。

さとりを背中から下ろす。

目が虚ろのままぐったりとしている様は、爽やかな日差しの中ではとても浮いていた。

「もしもーし」

「……………………」

へんじがない。ただのしかばねのようだ。

「うーん……やっぱりスピードを出し過ぎたわね……ごめんなさい、全力は久し振りだったもので」

ハイテンションの塊であった気持ちが少しずつ落ち着いて行く。

冷静な判断を取り戻して、文はとりあえず木陰でさとりを休ませることにした。

 

ひやりと、額に濡れた布の感触。

さとりは薄らと目蓋を開く。

「あ……起きましたか。大丈夫ですか? 気分はどうですか?」

心配そうな表情の文が、さとりの顔を覗き込んでいた。

さとりは大丈夫です、と小さく呟いて上体を起こす。

「少し気分が悪いだけですが……乗り物酔いの類でしょうし、暫くすれば治るかと」

「そうですか……すいません、無理やり連れ出してしまったばかりに」

文が申し訳なさそうに頭を下げる。

こう言ってはなんだが、さとりはあまり外に出ていないのだろう。妹がいつの間にかいなくなっているのは日常茶飯事だし、捜さずともいつの間にか家に戻っている。食糧や調度品の管理調達もペットたちがしてくれている。

彼女自身は家から出る必要はなかったのだ。勿論必要がないからと言ってそれをしないのはただの怠慢だが、姿を見せないことが他の妖怪にとっても自らにとっても良いということをさとりは自覚していた。

家から外出すらしなければ、自然と体力は落ち体は弱る。外見からもその事実が容易に読み取れるのに全く気遣わなかったのは、完全に文の落ち度であった。

しかし、さとりは全く意に介さないと言った様子で首を横に振る。

「いえ、気にしてはいませんよ。……久し振りの地上ですし、寧ろ良い機会だったとも思います」

無表情のまま喋るせいで、文にはさとりの真意が掴めなかった。

「でも、もう少しだけ……休ませて下さい。大分落ち着いてきましたので……そうしたら、貴女の言うお気に入りのお店に行きましょう」

「……良いんですか? ご迷惑なのでは……」

「ありませんよ。私も、人付き合いが嫌いなわけではありません。でも……そうね、謝られるくらいなら、里でも案内してもらいましょうか。私のいた頃とは大分様子が変わっていそうですし、ね」

そう言って、さとりはいたずらっぽく笑った。

 

暫く経ってからの道中。

文はさとりが自分よりとても永い間を生きていることを知った。

「……ってことは……えぇ!? 貴女が地上にいた頃って、私が生まれたばかりの時ぐらいじゃないですか?!」

大仰に文が驚き、さとりは事も無げに頷く。

確かに、その可能性がないとは言い切れなかったし考慮もしてはいたが、少し現実が予想を上回り過ぎた。

文も外見に反して、なかなか永く生きている妖怪だった。それは自他共に認めていたし他の妖怪と比べても確かにそうだったのだ。

しかしさとりはその倍は生きていた。彼女の口から出る過去出会ったという妖怪の名は誰もが知る様な錚々たるものだった。

外見からは全く想像できない事実。しかし彼女のとても落ち着いた雰囲気を鑑みると、精神年齢と実年齢は一致しているのかもしれない。

……なら、その服もどうにかした方が良いと思うのだが。

「これは私の趣味です。それに貴女だって天狗の一人だとは思えない程短いスカートを穿いているでしょう? 人のことは言えないと思います」

「あや? また読まれてしまいましたか。……私のこれはファッションなんですけどねぇ……」

「あれが……今の里、ですか?」

他愛のない話を唐突に打ち切り、さとりは真っ直ぐ前を指差す。

文も笑うのを止め、顔を正面へと向けた。

恐らくさとりの知っている里とは全く変わってしまったであろう、技術も文化も進み妖怪と共存していくことを選んだ人間の集まる里だった。

 

 

「お、新聞屋! 新しい記事は書けたのか? こっちに新聞を回してくれるのはあんただけなんだから、しっかりしてくれよ!」

「射命丸さんじゃないですか。ツケ溜まってるんですよ? 早く払って下さいね」

「文ちゃん! また今度お空に連れてってね! 約束だよ?」

はいはい、また今度ね、と文は笑いながら少女に手を振り返す。

その様子をさとりは不思議そうに眺めていた。

「……どうしました? また気分が悪くなりましたか?」

「いえ。……随分と仲が良さそうだと感じたので」

それがさとりにはどうにも腑に落ちないらしかった。

文は苦笑する。

「あぁ、確かに貴女は知らないかもしれませんね。最近、人間と妖怪は交流を持つようになったんですよ。

人間が妖怪を恐れることもそうありませんし、妖怪も人間をただの食料として見ることを止めました。

今ではもう何の隔たりもありません。人間と妖怪は、共存生活を取ることを選んだのです」

得意げに語る文。現在そんなことは繰り返して認識する必要もなくなったのだが、地上との交流を絶ったさとりには新鮮な驚きをもって迎えられた。

半年前に人間と妖怪が一組になって異変を解決しに来たが、博麗の巫女は昔から特別視されていた存在だったし魔女も人間にしては強い力を持っていたので、力の弱い妖怪程度なら従わせることも可能だと思っていたのだ。よもや、互いに信頼し合うような関係であったなどとは。

人間は妖怪に襲われる存在で、妖怪は人間に調伏される。それが当り前であったさとりには到底信じられなかった。

「まぁそれも、利害関係の上に成り立っているんですよ。スキマ妖怪が間に入り、人間を妖怪から守る約束を取り付ける代わりに食料としての人間を何人か定期的に差し出させる。

勿論そんなこと関係なく関わりを持とうと昔から努力をしていた者も双方におりましたが、協定を結ぶ前とではやはり実現は難しかったと思われます。

とにかく、今は仲良くやっていけているというワケです」

文はそう結論付けた。

なんてこと。人間と妖怪の共存? それも仲良く?

さとりは軽いカルチャーショックを覚える。

しかしそれでも、文は特別な扱いを受けていることに違いはないのだろう。妖怪だと言うのにどこか人間に近い性質。さっぱりとした性格。誰とでも平等に接し、拒絶することもない。

簡単に言えば、取っ付きやすいのだ。

だから好かれる。だから交わる。だから気軽に話し掛けられる。

さとりはそんなこと全てお見通しだ。

……しかし。

「私の扱いが、気に入りませんねぇ……」

「はい? 何がですか?」

「……なんでもありません。それよりここの名所でも案内して下さいな。もうすっかりここも変わってしまったみたいですし」

言葉に冷たい響きが交る。

急に不機嫌になったさとりを、不思議に思う文であった。

 

「あら。大きなお屋敷。まだ残っていたのですか」

「知っているのですか、ら……さとりさん?」

さとりはこくりと頷く。

「大ボラ吹きの阿礼。姿を直接見たことはありませんが、その名前はただの一妖怪であった私の耳に届くほどでしたよ。

何でも虚空蔵求聞持法を修めたとか。記憶力は良く、当時の天皇に仕える程度には有能だったようですが……到底信じられませんね。

終いには自分が転生するとまで公言しましたし。妖怪の殆どの者が天皇まで騙し果せた、稀代の大嘘吐きと思っていました」

恐らく、当時の妖怪はそう考えていたのだろう。さとりが嘘を吐いていなければ、の話だが。

しかしさとりが嘘を吐くとも思えない。

「……でも、家が残っているってことは誰かに買われたのかしら? あの後家が代々続いたとも考え難いし……それが妥当かしらね」

「あのぅ……もしかして、稗田阿礼さんのことをお話していらっしゃるのですか?」

「おや、名前を知っていましたか。やはり新聞記者ですからそれくらいは基礎知識なのでしょうか……ちょっと待って、貴女、それは嘘でしょう?」

さとりが目を見開いて文に問う。

文の心を読んで真実を知ったようだ。

「いいえ、嘘ではありませんよ。

稗田阿礼は求聞持法をしっかりと修めましたし、そうした通り記憶力も格別良い。

そして何より、彼自身が転生していることがその証拠です。とは言っても、今は彼女、ですが」

さとりは驚愕する。彼女の内ではその話は鼻で笑うべき与太話と同列に扱われていたのだ。それが現実に起こる? なんて馬鹿馬鹿しい。呆けたことを言うのも大概にしてほしい。

……だが、文の表情は変わらない。それが事実と証明する大きな証拠なのではないか? 第一そんな嘘を吐いたとして、合理主義である彼女に何の利があると言うのだ。私を騙したとして、一体何の意味が。

ない。

つまり……それは、稗田阿礼が虚空蔵求聞持法を実際に修め、……とても信じられないが、公言した通りに転生したということ。しかも、文の記憶によれば、

「九代目阿礼乙女、稗田阿求。いわゆる御阿礼の子……つまり、稗田阿礼の生まれ変わりのことです。今現在彼女はまだ幼いですが、その知能レベルの高さは同世代の子供に比肩できるものではありません。まさに神童。故に稗田阿礼の生まれ変わりであることに疑いはありません」

……こういうことなのだ。何の曇りもない、純然たる事実。里に深く分け入った文の心の中の言葉だからこそ疑いのない、しかしさとりにはやはりどうしても信じられない現実だった。

高々人間が菩薩の領域に達するなど、おこがましいとすら思っていた。

でも、いるのだ。実際に。恐らくは、この扉の向こうに。

……地底にいる間に頭が固くなってしまったのかしら。別にそんなこと、決して有り得ないというわけでもないのにね。

さとりは漸く事実を呑み込む。

「成程……未だに信じられませんが、現実に転生できる、それも人間がいたわけですか」

「はい。多分今もこの家にいると思いますが、会いましょうか? きっと先方も快諾してくれるでしょうし」

阿求は人間である。最新の幻想郷縁起は地底と地上の行き来が簡単にできるようになる以前に発行されたものだから、さとりの記述はそれにはない。

きっとその取材も含めて、彼女は会ってくれるだろうと、文はそう言っているのだ。

「……いえ、止めときます。少し興味はありますが、今日はそんなことのために来たわけではないですから」

「そうですか? ……そうですね。また今度にしましょうか」

笑顔で文は言う。

実際当人のいないところでボロクソに言っていたことがさとりには後ろめたかっただけなのだが、どうしてもそのことは文には言えないとさとりは思った。

……その時。

「あれ。……ここに何か用ですか? 妖怪さん方」

「あ」

急に扉が開いて、ショートカットで紫色の髪を持つ、誰あろう稗田阿求その人が顔を出した。

 

「ほー。私の先祖……って言っていいのかな? ……の稗田阿礼を知っているのですか。それは珍しい」

妖怪は長寿と言えども、1000年を超える齢の妖怪はそういない。そういった意味で、阿求はさとりのことを珍しいと言った。

阿求はたまたまお使いへ出ようとしていたところだったらしい。幾ら御阿礼の子と言えども、まだ年齢では子供の範疇だ。親の言うことはよく聞いているようである。

が、文の『地底に封じられた妖怪、地霊殿の主』という紹介を聞いて阿求の探究心が疼き始めてしまったらしい。使用人にその面倒事を押し付けて、自身の部屋に彼女らを招き入れたのであった。

しかし三人共に敬語ばかり使うので、誰が喋っているのかが少し分かり辛い。

「では……少しばかり、貴女のことをお伺いしても宜しいでしょうか? 古明地さとりさん」

さとりは黙ってこくりと頷く。

文が余計なことを言わないのをただただ願うばかりであった。

 

「はい、ありがとうございました。後日……とは言っても百年以上後でしょうが、次回の幻想郷縁起にはしっかりと貴女たちのことを書き留めることを御約束致します。

完成の折には私の子供――勿論私自身であることに変わりはないのですが――に持参させますので、どうぞ誤記がないかお確かめ下さい」

「はぁ……そうですか」

正直それ程興味はなかった。

質問の数はそれ程なく、時間も掛かってはいない。しかし、その内容はさとりからすれば少々首を傾げるものがあった。

「あの……」

「はい? 何でしょうか?」

阿求が大きな目をくりくりと輝かせて尋ねる。

中身は何代も転生を繰り返しているおっさんだとは到底思えなかった。

「先程の質問……どうも私の能力を知った上でのものとしか思えなかったのですが、どうして人間である貴女が……?」

ずっと地底に引き籠っていた。妖怪退治専門の巫女ですらさとりのことを知らなかったくらいである。幾ら幻想郷の識者と言えども、記述すらされていない筈の彼女のことを知る筈がない。

が、阿求の答えはさとりの予想の斜め上を行っていた。

「あぁ……それなら、昔話ですよ」

「昔……話?」

全く意味が分からない。

きょとんとしているさとりに、文が得意げな顔で説明を始めた。

「人里に伝わる昔話のことですよ。……そうそう、さとりさんのことについての話もありましたっけ。

確か……あ」

そこで文は気まずそうな顔をする。

阿求も同様に、眉を八の字にして困った顔をさとりに向ける。

それでもさとりはどうぞ、私は何も気にしませんのでと先を促した。

どうやら大方の予想はできていたようだ。

本人が望むのであれば、と阿求は話を続けることにした。

「では、お話しましょう。……もうお分かりだとは思いますが、さとりさんについてのお話です」

昔々、の下りから始まるその話は、さとりの思っていた通り『妖怪さとり』についてのものだった。

曰く、人の心を読むことのできた妖怪、さとりは毎日悪戯を繰り返していたそうな。

その悪戯にほとほと困っていた里人は、どうか心を読むことを止めてくれないか、それでなくとも悪戯を止めてくれないかとさとりに直談判した。

しかしさとりは全く聞く耳を持たない。それどころか、一層悪戯の程度は酷くなっていったのだ。

そこで里の若い者たちが協力し、さとりを罠に嵌め、地底に封印してそれ以後悪戯をする者は現れなくなったそうだ。

めでたしめでたし。

……無論、心を読むことは出来たがそんな悪戯など全くしたことがない。完全な濡れ衣であった。

要するに嘘である。

思えばその昔、自身が封じられた時もその話のレベルの理由だったか。覚えのない過去の罪を問われ地底に閉じ込められた時はそのことに憤ってばかりいたが、最近はそうでもない。

地底での生活も悪くない。寧ろ迫害されることがない分だけ、さとりにとっては心地の良い毎日であった。

できることなら、無用な争いは避けたい。心優しく礼儀正しいさとりの信条にさえ合致すれば、道理が通らずともさとりは納得するのだ。

……やはり、今でも嫌われているのだろうか。そうだとしたら、酷く心苦しくはなるが。

そこで突然、でも、と文が立ち上がった。

「今そんな失礼なことをしたり言ったりする奴がいたら、この私がぶちのめしてやりますけどね!」

そう冗談っぽく言って、文は派手に笑う。

阿求もそれにつられてくすりと小さく笑う。

しかし、ただ一人。

さとりだけは、暗い顔をして俯いていた。

 

 

そして里を見回る。

魚屋へ行って、勝手に商品を素手で触って、さとりが怒られたりした。

寺小屋へ行って、白澤に新しい生徒と間違われて授業に参加させられそうになった。

駄菓子屋を見ていると、お店のお婆ちゃんが飴玉をくれたりした。

全部がさとりにとって新鮮な体験で、人間と妖怪の関係が密接になったという何よりの証拠だった。

でも。

それは、さとりの先述の不満の原因でもあった。

 

「……あっはっは! あーおかしい! あーっはっはっはっは!!」

文はとうとう腹を抱えて地面の上で笑い転げてしまう。

対してさとりは真っ赤になってぷるぷると震えていた。

「な、何がおかしいんですかっ! 私にとっては屈辱の極みの大問題なのですよ?!」

目に涙を浮かべてまで。

それでも文は笑うのを止めない。道行く人が妙なものを見る目で文のことを見ていた。

「だって……だって……そんな、幾らなんでも反則ですよ! 子供扱いされた程度で怒るだなんて!」

そう。

さとりは、外見で自分が子供だと判断されていたことに怒っていたのだ。

読む人読む人全員がそうだ。自分のことを、『よく見る妖怪が珍しく子供を連れている』ぐらいにしか認識していない。

確かに仕方がないと言えば仕方がない。服装は言わずもがな、童顔で背も低く声も高いとくれば誰もが子供としか思わないだろう。

その“子供扱い”が、さとりには何よりも不満だった。

「はー……はー……そ、そう言えばおかしいと思ったんですよ……いつもならこれ程までに話し掛けられることもない、って……ぶふっ!」

さとりの顔を直視してなおも吹き出す文。さとりの目に更に涙が溜まった。

それもさとりには分かっていた。心を読めば分かるから。『いつもは見ない子供を連れているなぁ、いったい誰なんだろう』と思いながら文と話していたことが分かっているから。

だから、余計腹立たしい。

本来ならなんでもないことなのに、外見だけでそう判断されたことが何故か頭にくる。

さとりにも相応のプライドがあったということなのかもしれない。

「笑わないで下さいっ! ……ええ分かっていますよ、私が少し子供のような外見をしているからそう判断されるってことは」

少し、ではないような気もする。

文に指を突きつけ、さとりは宣言する。

「でもっ! 私にだってプライドはあります! ……文さん、貴女の言うお店、当然お酒はあるんですよね?」

「あー……へぁ? あーはいはい、ありますよありますよ」

目から涙を流し、口から涎を垂れ流すのを止めて冷静を装って答えた。

しかし完全には収まらないようで、時折ぶほっと吹き出している。

そんな文を無視するかのように、さとりは話を続けた。

「……勝負しましょう。私と貴女、どちらがよりお酒を呑めるかの勝負。私が外見通りの子供でないってこと、証明してあげますよ」

さとりの言葉が耳に入ると同時に、文は笑うのをぴたりと止めた。

酒を呑む。お酒は大好物だ。幾ら呑んでも飽き足りない。きっとお店を一軒潰してしまう程だろう。そのお酒で勝負? 笑わせる。

勿論、断るなんて野暮なことはしない。

「良いでしょう。その勝負、烏天狗の射命丸文が正々堂々お受け致します。……先に言っておきますが、本気で呑みますから。負けて泣かないで下さいよ?」

「望むところですよ。吠え面かくのはそちらです。私のことを笑ったこと、後悔させてあげますよ」

何の因果でこんな展開になったのか。二人は睨み合い、ふふふと不気味な笑いを漏らしていた。

 

 

「おお、文ちゃん! 久し振りだねえ、元気だったかい? ……おや、そちらのお嬢……」

店主が言葉を言い終わる前に、文とさとりの二人はカウンターに音が鳴るかと思われるほどの勢いでどっかと座った。

その眼差しは真剣そのもの。何も知らない店主が思わず後ずさりし、他の客は二人からオーラが見えるかと錯覚する程であった。

『店主……生ビール!』

二人声を揃えて注文する。その声で店主ははっと我を取り戻し、慌ててジョッキを取り出しビールを注ぎ、二人の前に差し出した。

同時に掴み、大きく空を仰いで喉を鳴らしながらそれを飲み干す。

その間僅か三秒。どちらが先に呑み切り、先にジョッキを置いたのか。呆気に取られながらも見詰めていた他の客にも店主にも誰にも分からない。

口元を拭い、文がにやりと笑う。

「やはり生は喉を潤すのに丁度良いですねぇ……どうですか、そちらは?」

「全く同感です。これならエンジンを掛けるには、丁度良いかと」

言葉を交わせども、しかし視線は交えない。真っ直ぐ前を見詰め、二人はまた同時に宣言した。

店の中にいる客、全員に届くような大声で。

『ここにあるだけの酒、全部持って来いっ!!』

 

それからというもの、店の中は店員が慌ただしく動き回る破目になった。

妖怪の大酒喰らいは有名である。そこらにいる力の弱い妖精でも、人間で例えれば酒に強いレベルなのだ。

妖怪の呑みっぷりは妖精のそれを軽く凌駕する。凡そ人間では太刀打ちできない程に。

それこそ、たった一人の妖怪で酒屋が一つ潰れるくらいには。

後日本当に里に無数に存在する酒屋の内三つが潰れることになるのだが、それはまた別のお話である。

しかし、それを計算に入れても二人の呑む速度は速かった。競い合っているのもあるからなのだろうが、呼吸をする度に空のジョッキが一つ増えているような気さえする。

その様子を間近で見ている店主は、参ったなぁ、とぽりぽり頭を掻いた。

「文ちゃーん……お願いだから、少し抑えてくれないかなぁ? 他のお客さんもいるんだし、第一まだ日は昇ってるんだよ?」

日が昇っている内に酒を切らすなんて事態にもなりかねない。店主は歯止めの効かないであろう暴走二輪車に、淡い期待を持って尋ねた。

が、やはりと言うべきか。文にはそんな言葉など届かなかった。

「うるさいっ! 邪魔しないでよ! そんなこと言ってる暇あったら、どんどんお酒持って来て!」

文の一言で一層店員がわらわらと忙しなく動き始める。こりゃだめだ、と店主は頭を抱えた。

駄目元でもう一人の見たことのない少女、さとりに話し掛けた。

「ね、お嬢ちゃん……もう一人はあんな感じだからさ、君だけでも分かって貰えないかなぁ? 困るんだよ、本当に……」

お嬢ちゃん。

その一言が、さとりを怒りに燃え上がらせる。

さとりは店主をぎろりと睨んで淡々と言った。

「お嬢ちゃん? 子供扱いは止めて貰えますかね。言っておきますが私、そこにいる彼女より二倍は年行ってますよ。外見だけで判断しないで下さい? 後悔することになりますから」

そして言い終わると間髪入れずにまた呑む。そのスピードは話し掛けられる前より加速しており、そちらの酒の補充にも店員はてんやわんやであった。

店主は諦め、カウンターに肘をついて大きく溜息を吐いた。

いつものことだ。きっと文ちゃんが何かやらかしたんだろう。全く、被害を受けるのはこっちなんだから良い迷惑だよ。

でも、売れ残るわけじゃないんだしまだ良いか、と楽観的に考えられるのが、この店主の最も良い所である。

 

 

もうすっかり店の中が酒臭くなってきた頃。

客は時間も忘れて二人の対決を見守っていた。

「へっへっへ……どうですかぁ……まだまだ私はいけますよぉ……」

「どうだか……すっかり酔いが回ってる顔してますよ……っとと」

「へへ……そりゃそっちもですって……ひく」

二人とも真っ赤な顔をして、臭い息を吐き出しながらまだ呑んでいる。

しかしその速度はもう既に遅い。一般人レベルにまで落ちている。恐らく、近い内に決着はつくだろう。

じっと勝負を見守ってきた店主、何もかもを忘れて見入っている客、肩で息をしている店員。

それぞれの期待の視線が、たった二人の少女に集まる。

――そして、その時ごとん、と。

ジョッキがカウンターに落ちる音がした。

同時に、一人が崩れ落ちる。

幸せそうな顔で。

実に、実に幸せそうな顔で、射命丸文はビールジョッキの山の中に倒れて行った。

沈殿した空気を切り裂くように、その体はゆっくりと横に倒れて行く。

さとりは目を見開き、その一部始終をしっかりと見ていた。

そして、大きな音を立て、文は仰向けに落下した。

「……文さんっ!!」

さとりは思わず立ち上がり、ふらふらと危なげに文に歩み寄る。

しかし、それを文は手で拒絶した。

「来ないでっ! …………見ての通りです。私は負けました。あれだけ大きなことを言っておきながら、やはり貴女には勝てなかったんです」

「…………っ」

そう、勝負ということは勝ち負けを、つまり上下を明確にすること。勝者が敗者に垂れる憐憫は、即ちこれ以上ない侮辱に等しいのだ。

「あっはっは……笑って下さいよ、無様でしょう? 貴女を笑っていた私が、今では笑われるべき対象になったのですよ」

そう言って力なく笑う文。その姿はどこまでも痛々しく、とても目を当てられるようなものではなかった。

だが、さとりは目を背けない。しっかりと文の瞳を見据えて、また一歩ずつ文に歩み寄る。

そして、文の手をしっかりと握った。

「……? 何を……」

「私たちは共に戦った、……いわば戦友です。そんな貴女を、一体どうして笑うことができましょうか?

……さあ、立って下さい。貴女は決して敗者などではない。貴女は……私の、友人です」

そう言って、少し恥ずかしそうに、にっこりとさとりは笑った。

文は涙を薄らと浮かべ、こくりと頷く。

……そして、ぱち、ぱちと。

一つ、また一つと増えていく。

いつしか、それは店の外にまで漏れるような。

大きな大きな、拍手となっていた。

「良いぞーっ!」

「お前ら最高だあーっ!!」

「射命丸!」

口々に思い思いの言葉を叫ぶ里人。

振り返ると、店員、そして店主までもが、笑顔でさとりと文の健闘を讃えていた。

ぽりぽりと恥ずかしそうに頭を掻き、さとりに手助けされながら立ち上がる文。

さとりの方を改めてみると、同じ様に頭を掻いていた。

その姿があまりにも重なり合っていて。

不思議にも、二人が一瞬姉妹に思えた。

それが何故だかおかしくなって、自然と笑い出してしまう。

思えば、さとりも文も向かい合って心から笑ったことなんてなかった。いつも心のどこかに空洞があった。

その空洞は、今満たされている。

丁度噛み合って、一つのハートの形に戻ったような、そんな不思議な気持ち。

出会いは偶然ではあったけれど、今こうして考えれば、本当は必然だったのかもしれない。

いつもはそんな感傷的なことを想いもすらしないのに、何故だかそう思った。

さとりは手を差し出す。

「……今更、こうするのもなんですけど……改めて、友人として。これから宜しくお願いします、文」

当然のように、

「勿論です! 宜しくお願いしますね、さとり!」

 

 

その言葉が、切っ掛けだった。

 

 

瞬間、空気が冷たく変わる。

穏やかだった世界は一変、鋭く尖った切っ先をさとりに向けた。

聞こえる、その声が。

聞こえないように、いや、本当は聞こえるように、わざとそのギリギリの境界線で、ひっそりと。

さとりの悪口を言っている。

――ねえ、今の聞いた?

――ああ、さとりだってな。

――じゃあ、あれが昔話の妖怪のさとり? 嫌だ……心読まれるんでしょ?

――おい、誰かあいつどっかやれよ。迷惑だし。

――人の心を読むなんて、気持ちが悪い。

さとりは両腕を抱え、ぶるぶると震え始めた。

「……さとり? どうしたの? さとり!?」

すとん、と腰が抜けたように座ってしまって。

そのまま、頭を横に振り続け、動かなくなってしまう。

その理由を文は微かに聞こえる言葉の数々に見つけることができた。

……文は、もう少し気を付けるべきだった。

彼女自身も知っていた。里に伝わる昔話を。

その一つ、妖怪さとりに纏わる話を。

……決して、良いイメージには取られない、その、誰もが知っている昔話を。

文は知っていたのだからこそ、もっと気を付けるべきだった。さとりの名を不用意に出さないことに、もっと注意を払うべきだった。

でも、そんなこと誰が責められる? 妖怪が、人間如きの心など、分かる筈もないのだから。

それこそ、妖怪さとりでもない限りは。

どうしようもない、やり場のない後悔は、既に怒りへと変換された。

向かうはそこで先程まで共に笑っていた、今はただの屑共。

怒りで酔いなど、もう既に吹き飛んでしまっている。

力の限り、声の限り、文は叫んだ。

「……っ、人間共!! よく聞けぇっ!!」

文のよく通る声が店内に響く。

客は全員驚いて、背筋を強張らせながら声のした方を恐る恐る見た。

そこには、天狗でありながら。

鬼と化した、文がいた。

「あんたたちはね、今! たった一つの昔話だけを根拠にして! この娘をとても傷つけた!

ねぇ! あんたたち、今見たでしょ!? 確かに彼女は妖怪よ! それもさとり! えぇ、心を読みますとも! 昔話の通り、あんたたちの心を読むわよ!

……でもね、でもねぇっ!!」

でも、怒りにただ身を任せた鬼ではない。

泣いている。

他の存在のために涙を流せる、哀しみの心を持った鬼。

……いや、最早それは鬼の姿ではなかった。

例えるなら、風神とでも言うべきか。

文の気迫に押されて、人々は段々壁の方へと後ずさる。

「……決して! 決して嫌なことはしないわ! 人が人を傷つけるのは相手の心の中が分からないから! じゃあ、もし心が読めたなら、どうすると思う?!

決まってるじゃない! 相手の嫌なこと、そんなことは絶対にしないってことなのよ!!」

それは彼女の慟哭か。まるでさとりの代わりに泣き叫ぶかのように、文は叫び、暴れ、泣いた。

文を中心にするかの様に、如何してか店の中で風が渦巻く。

抑えきれない衝動が、今にも暴れ出しそうな衝動が、文の口からどんどん吐き出される。

或いはいわゆる呪詛に近い性質を持った、とても攻撃的な言葉なのかもしれない。

「もし、あんたたちがそれでもあの娘を毛嫌うのなら!

……もう私は許さない。さとりを無闇に傷つけた、あんたたちを許さないから!!」

その言葉が、発せられ終わると同時に、文を取り巻く風が四散した。

人を襲うこともなく、風はぴたりと吹くことを止めた。

……風神の化身の、最後の憐れみか。それとも余りにも弱い存在に対してなど、自らの力を使うべきでもないと思ったのか。

兎にも角にも、文は怒りの矛を収めてさとりの方へ向き直った。

「……さとり、帰りましょう。私たちはどうやら、ここにいるべきではなかったようです。……やはり、貴女の言うとおり妖怪と人間は相容れぬ存在だったのかもしれませんね」

文は悲しそうに頭を振って、さとりの腕を掴んだ。

しかしその手は力なく垂れ、まるで生気を感じられることがない。

文は仕方なくさとりを背中に背負い、そしてもう一度里人たちの方に振り返って言った。

「…………。私は、もうすっかり貴方たちと分かり合うことができたと思っていました。……でも、高が昔話程度で関係が揺れるのならば、……どうやらそれは私の思い違いだったようですね。

……御自身の目で見て下さい。彼女が、本当に、恐ろしい存在であるかどうかを。昔話通りに、意地悪で狡賢い妖怪であるのかを。……私はそうとは思いませんけど、ね」

そうして文とさとりは、店主に呼び止められようとも一切口を利かないまま店を後にしたのだった。

二人が去った後の店は、漸く安堵の空気に包まれる。

どこかもやもやとした気持ちになりながらも、何事もなかったかのようにまた席に座り料理を楽しむ。

そんな里人たちの様子を見ながら、店主はまた一つ溜め息を吐いた。

「文ちゃんはああ見えて頑固だからねぇ……あの娘を連れるとなると、大変だろうね」

そう一人ごちた。

 

 

そうして、文はさとりを自分の家へ連れ帰った。

勿論すっかり自己喪失状態になってしまったさとりを看るためだ。

今現在はベッドに寝かせていたが、上半身を起して会話ができるまでには回復していた。

「ごめんなさい、さとり……私が、もう少し気を付けていればこんなことには……」

文は項垂れて繰り返し謝る。

さとりはゆっくりと首を横に振り、そんな言葉はいらないという意思を文に伝える。

「良いんです、良いんですよ……私が悪いのですから。こんな、こんなどうしようもない能力を持った私が、悪いのですから」

自己完結。

全てを内に閉じ込め、答えを他に求めない、窮極の自問自答。

……でも、この場合の自己完結は、酷く、哀しい。

それは違いますと文が否定する。

「悪いのはあの人間たちです! 貴女のことを何も知らずに、ただただ自己の保身だけを考えて……心が読まれたからと言って、何が悪いというんですか! 読まれて困ることを考えている方が悪いのでしょう!」

酷く憤る。

だが、それをさとりは更に否定する。

「いえ……やはり、それは仕方のないことなのだと思いますよ。自分の心が相手に見透かされているなんて、そう面白いことではありません。寧ろ、気にしない文さんの方が私にとっては不思議ですよ」

そうしてさとりは苦笑する。

文は苦々しい顔でさとりの顔を見詰めた。

「……私、知らない内に読んでいたんです。あそこにいた方々の心を。……凄まじかった。私のことを如何に嫌っているかが、よく分かる心だった……!

だから、……もう良いんです。私一人が姿を見せなければ、それで何も起こらずお終いなのですから」

そう言って、またさとりは頭を抱えて顔を伏せる。

妖怪は精神的な要素が多分に関わって漸く存在するに足るのだ。

自分の存在価値がないと自己否定していれば、……いずれは、消滅してしまうだろう。

さとりは今、そのギリギリの境界線にいた。

自分を否定する。自分を拒絶する。自分を嫌悪する。どれもどれも、読むもの全てが心の中では嫌悪感を露わにしていた。

切っ掛けはあの潜めようとも思っていない話し声だったが、何も口にしていない者でも、心の中では何を思っているのか分かったものではない。

だって、真っ黒だったから。

心の中が、さとりを罵倒する言葉で埋め尽くされて、真っ黒になっていたから。

そういった全ての言葉が、思いが、さとりの心を責め苛む。

さっさと帰れ、気持ち悪い妖怪め、と。

「そうですが……そうだとしても! ……私には納得できません。貴女は何をしたというのですか? その能力を持って生まれてきてしまった貴女に、一体何の非があると!」

「存在自体が害悪なのです。少なくとも、人間にとっては。……勿論、妖怪にとっても。だから私は地霊殿に籠り、同じように心を痛め瞳を閉じてしまった妹と共に、これから先を過ごしていこうと決心したのですよ。……おっと、勿論ペットも含めて、ですよ」

家族だけで生きていくことを選んだと、そうさとりは言っているのだ。……悲しいことではあるが。

それはとうの昔に選んだ道。そして、これからもそれは変わらないであろう道。

文が何と言ったとしても、その選択はさとりにとって間違ってはいないのだ。

……でも、そんな終わり方は、文は嫌いだった。

「なら……またいつか、私の家に遊びに来るというのは、どうでしょうか? 友人の貴女なら、いつでも歓迎しますよ。是非とも、御持て成しをさせて頂き……」

文の、最後の一抹の希望を如実に表した願い。しかしさとりは首を横に振った。

「残念ですが……お断りします。もう、地上にも未練はありませんし……貴女と友人になれたことは、僥倖でした。

……でも、それまで。元来、私は地の下にいるべき存在だったのです。……ですから、今までも、そしてこれからも。変わらず、地霊殿の主として務めていくことでしょう。

今日のことは、ただの夢だったのです。そう考えれば何も変わりもありません。……文には、とても申し訳ないのですが」

さとりは頭を下げる。

しかしそんな言葉は文の望んでいた言葉ではない。例え頭を下げられても、納得できることなんか何一つない。

そしてさとりは続ける。

「…………そもそも、私は全体から見ても明らかなイレギュラーな存在。言ってしまえば……そうね、幻想郷からも拒絶されているってことかしら。あはは、そりゃ人間にも嫌われるわ」

自嘲気味にさとりは笑った。

そこで文が唐突に口を挟む。

「あれ? 待って下さい。……もしかして貴女、幻想郷のことが嫌いとでもいうわけじゃないですよね?」

あからさまに不機嫌な顔になってさとりは言う。

「……えぇ。私は嫌いですよ、幻想郷のことが。私をこんな存在に産み落とした幻想郷が、大っ嫌いです」

半ばやけくそ気味に。

だが、文はそこに食い付いた。

「…………どこぞの隙間妖怪は幻想郷のことを愛していると言って憚らないそうですが……何も、それは彼女だけの専売特許ではありません。

私も、そして勿論他の妖怪も! みんなみんな、幻想郷を愛しています!

なのに貴女が幻想郷に嫌われていると言って自分から遠ざかることが、私は凄く悲しい。……だから。

今から、貴女にも幻想郷の姿を見せてあげます。私が、私たちが、幻想郷を愛していると公言してやまない、その理由を教えてあげましょう!」

 

そうして、さとりの手を引いて勢いよく外に出てから。

背後からさとりを抱き抱えると、文は空高く飛んだ。

「うわっ!? ちょ、ちょっと! 何してるんですか! 放して下さい!」

「良いんですか? 今放すと落ちますよ」

そうなった場合、どうなるかをさとりは思案する。

答えはすぐに出て、その結果に小さく身震いした。

「はいはい。分かったら目を瞑っていて下さい。……もっと加速しますから!」

その言葉を言い終わるか言い終わらないかの内に、文はそれまでの何倍ものスピードでさらに空高く目指して羽ばたいた。

 

「さぁ、もう良いですよ。下を見て下さい!」

文は空中に響き渡る様な凛とした声で叫んだ。

その言葉に従って、さとりはゆっくりと目蓋を開く。

 

「わぁ……!!」

さとりは思わず驚嘆の声を漏らす。

それを聞いて文は満足気に言った。

「どうですか? ……幻想郷もまだまだ、捨てたものじゃないでしょう」

眼下には圧倒的な風景。

さとりの眼には幻想郷の美しく雄大な自然が映し出されていた。

若々しい木々に囲まれた山。鬱蒼と生い茂った森。米粒より小さな人間達が忙しなく動き回っている里。霧に包まれた湖。そのすぐ傍にある洋風の館。まっさらな丘。

そして、それら全てを橙色に染める夕焼け。

全身で風を感じ、生きている自然を自分の目で見て。

古明地さとりは生まれてから感じたことのない最上の開放感を今、得たのだ。

自分の知らない世界。自分の知らなかった世界。自分の知っている世界。自分の知っていた世界。

それらどれもが皆違って、それらどれもが全て同一。

次々と押し寄せる未知の感情の波に突き動かされるが如く、さとりの目には涙が溢れていた。

「……なんだか、馬鹿みたいですね、私」

袖で涙を拭うこともせず、さとりは目の前の景色から目を離すことなく見続ける。

文は静かに首を横に振った。

「いいえ。……貴女は、幼い頃に悪い人に会い過ぎたんです。だから、こんなに美しい景色を知ることも見ることもなく地下へと追いやられてしまった。

……何も悪くなんかありません。ただ、環境が良くなさすぎたんです。貴女は、何も悪くない」

「まるで……私の心を読んでいるみたい。いつもは私が読む側なのに、今は読まれる側だなんて……少し不思議な気分ですね」

「どうですか、心の中を読まれる気持ちは?」

さとりはすっと目を閉じた。

「……悪くない。寧ろ嬉しくすらあるわ」

それこそが、さとりの本心。

今まで嫌がられ、忌避され、爪弾きにされ存在自体を禁忌とまで言われた、そんな者達が集まった地底ですら疎まれる妖怪、さとり。

生まれつき備わっている能力が何よりもさとりの心を苛んだのだ。だから自分が悪いとさとりは思い、自ら地霊殿を建て引き籠った。

なのに文は、悪くないと諭した。

それまでお前が悪いとしか言われなかったさとりに対して、文は初めて悪くないと言ったのだ。

さとりにとってそれは何にも代え難い愛の言葉。

文が友人として、自分のことを思ってくれたが故に発せられた言葉。

これ程嬉しいことが、他にあるだろうか?

さとりは今初めて、実際にある二つの目ではなく、能力として持つ第三の目ではなく、心の中にある真実の瞳を開いた。

「幻想郷も……悪く、ないですね」

風に吹かれて乱れた髪を掻き揚げ、さとりが言う。

「でしょう?」

文はフランクに笑った。

 

 

――文々。新聞 第○○○号――

何が起こるか分からない、そんなちょっと危険な冒険を、たまには楽しんでみては如何だろうか。

あなたの知らない未知の世界が、そこには広がっているかもしれない――ちょっとした旅行もほんの少しのスパイスで刺激的な風味に大変身。そんなことを思わせる何かが、ここ地底にはあった。

地底と言えば地上で忌み嫌われ追い出された妖怪達が棲んでいる場所。下手に近付けば取って喰われてしまうという話が多い場所だが、本紙のこの度の取材でその認識を改めざるを得ないということが分かってきた。

例えば感染病を自由自在に操る土蜘蛛の妖怪も、その能力故に地底へと追いやられた。しかし彼女からしてみると、それは偏見極まりない話だそうだ。

「私が危険な存在だって? あはは、そりゃ誤解だよ。ちょーっとした認識の差異ってやつさね。別に近付いただけで病に侵されたりはしないよ? まぁ、そっちから仕掛けてくるんなら話は別だけどさ」(黒谷 ヤマメ)

彼女の言葉が真実なら、それ程脅威の存在ではないということである。寧ろ地上の妖怪の方が物騒な奴は多いのかもしれない。

筆者も取材をしたが、彼女はとても明るく取材を快く受けてくれた。地底の中でも人気は高く、彼女の周りに笑い声はいつも絶えないらしい。

伝説や伝承、それに先入観だけでは分からないこともあるということである。

また、地底の中でも恐れられている妖怪、“さとり”が棲んでいるという地霊殿にも足を運んでみた。

さとりとは相手の心を読む妖怪。誰だって自分の心が読まれては不快だろう。筆者も半ば嫌々ながらそこを訪れたのだ。

門を叩くといきなり地霊殿の当主、古明地さとり(妖怪)が現れた。物腰や喋り方はとても丁寧で、何故嫌われているのか私にも分からない程だった。

残念ながら取材は拒否されてしまったが、自分の心を読まれているという不快感もなく自然に話せた。とても紳士的な対応で、終始不安の念に駆られることなく気楽に話せた。

相手の心を読むということは、相手の気持ちが分かるということである。相手の気持ちが分かるのであれば、相手にとって不快なことはわざわざしない。

相手の気持ちを顧みないことの多い昨今、さとりさんのように相手を思いやる気持ちが大切なのではないか。

思っているのとは全く違った地底の妖怪像。あなたも一度訪れて、自分達の都合で追いやった彼女達の真実の姿を今一度見るべきなのではないだろうか。(射命丸 文)

 

「……はーん。たまにゃこういった読み物も良いかもしれんね」

勇儀は新聞を丁寧に折り畳みながら一人呟く。

「何を考えてるんだか知らないが。……もしかしたら、近い内にあの天狗に感謝しなきゃいけない日が来るかもねえ」

そう言って空を仰ぐ勇儀。そこには丸くぽっかりと、真っ青な空が穴のように開いていた。

地底と地上をつなぐ唯一の穴。上から見れば大きいだろうが、ここから見るとテニスボール程度の大きさでしかない。

……いつか、あそこから外へ出られる日が来るのだろうか。

…………そうなれば、楽しいだろうなぁ。

懐かしい顔もいるだろうし、見たことのない強い敵も沢山いるのだろう。

……そういやあの巫女と魔女も強かったっけ。地上に出て、今一度闘ってみるのも悪くない。

あぁ、楽しみだ。

勇儀は仰向けになって寝転がり、そんなことを考えるのだった。

 

 

「凄いですよ、妖怪どころか人間達にも大好評で今増刷中なんです。これも偏にさとりのおかげですね」

「……それはあなたの今までのやり方が悪かっただけでは?」

「そうですか? 今まで通り本心を書き記して皆さんにお届けしただけですが」

ぶっ、とさとりは危うく飲んでいるお茶を吹きかけた。

まるで冗談にしか聞こえない。

咄嗟に抑え込んだので代わりに咽る。文が心配しながらその背中を擦った。

「大丈夫ですか? ……無理して地上に出てこなくても良いんですよ、別に」

「ええ、ありがとう。……いえ、妹も結構遠くまで出歩いているようですし、その監視も含めて、ですから。一応健康にも良さそうですし」

そう言うさとりの肌は病的なまでに透き通るように白い。ずっと地下に潜っていたからなのだが、確かに健康状態は悪そうに見えた。

それに、とさとりは付け加える。

「折角できた友達ですから。遊びに来ても宜しいのでしょう?」

これまでに見せたことのない、最上級の笑顔で。

本当に心を許したからこそ見せられる、さとりの本心をよく表した笑顔。

文は急激に真っ赤になりながら、拗ねたような表情でそっぽを向いた。

友達と言われたことに照れているのだ。

「……そりゃ、遊びに来ても良いと言ったのは私ですけど……。…………あーもう! この話は止めよ止め!」

「ふふふ。文って面白い方なのですね」

その言葉で文の顔は更に紅潮する。

直後突然がたんと立ち上がり、全くもう、とかこれだから妖怪は、などと訳の分からないことを呟きながら文は部屋を出て行ってしまった。

恐らく別の部屋で自分の熱を冷まそうと考えたのだろう。

さとりはふと横に向き、部屋の窓から外を見た。

太陽が燦々と輝き、青々とした葉っぱが眩いほどに光を乱反射する。

天気は晴れ。さとりの心の中にも、薄暗い雲の隙間から幾筋かの光が射していた。

あとがき

前作の失敗を踏まえた上での主人公文。

拒み続けた者同士の橋渡しとして活躍して頂きました。

里人たちを悪く悪く書きましたが、実際心を読むなんて存在が目の前に現れたら私たちも同じような態度を取るのでしょうね。悲しいことですが。

そうならないためにはお互いを思いやり受け入れることが大切です。ですがそれはなかなか難しい。このお話では文が間に入ることで何とか希望を持てる最後となりました。

その後本当に人間とさとりの仲が良くなったかどうかはさておき、ですが。

 

今更ながらタイトル酷いなぁ、とか思ったり。