幻想郷きっての敏腕記者(自称)、射命丸文の一日は顔を洗うことから始まる。

洗面台に向かい浴びるように水を被る。一度そうするだけで目が覚めるのだから効果覿面だ。新聞記者の朝は早い。特ダネを見逃すよりは、こうして無理にでも頭を活性化させる準備を行った方が文にとっては都合が良いのだ。

無論今日のような冬場はとても寒いので、文字通り烏の行水となって縮こまりながら居間に戻るのだが。

そうして頭を拭きながら朝食の用意をする。この辺りではもう覚醒しているので、その日一日の予定を頭の中で組み立てている。

今日は以前から予定に組み込んであった「取材」の日なので流れは殆ど決まっていた。

そこまで整理してから時間を見ると、存外針が進んでいた。少しのんびりし過ぎていたようで、文は慌てて白飯を掻っ込み外出用の服に着替えた。

出掛けに鏡と向かい合わせになって、服装の最終チェック。何も問題ないことを確認してから、「行ってきます」と誰に言うでもなく呟き家を元気よく飛び出していくのだ。

 

そうして文が訪れたのは、里の外れにある森の、奥深く更に奥深く。

誰も足を踏み入れない。誰も踏み入ることができない。

そんなところに、彼女達は巣を作っていたのだ。

文は木々を掻き分けながら、時折首だけ外へ出してキョロキョロと辺りを見回し、また内側へと潜り進んで行く。

進めども進めども、木より他のものは見えやしない。文は一つ溜め息を吐いた。

「やれやれ……もしかして一つ担がれましたかね」

その可能性もないわけではなかった。事実文も場所を訪ねたとき、余りにも現実味がなさ過ぎて疑っていたのだ。

しかし、彼女の屈託のない笑顔と楽しそうな口振りからは、どうしても嘘とは思えなかった。

だからその言葉を信じ、今日ここへ取材をしようと約束を取り付けたのだ。

――やっぱり、そうそう信じるもんじゃないわねぇ。

既に文は後悔し始め、引き返そうか迷いながらも更に奥へと進んでいた。

折角ここまで来たのだから、という思いと時間の無駄だ、という思いが文の頭の中で衝突している。

実力は拮抗している。どちらも譲らず一歩も引かない。手と手を組んで、両者は全力でぶつかり合っていた。

しかし、前者が足を滑らせてしまう。その隙にもう一方が勢いよく突いた。

二人が立っている天秤が傾こうとした瞬間――

「おー! 待っていたよ!」

快活で明瞭な声が文の耳に響いた。

文は突然のことに驚き、何も考えずに声のした方へ振り向く。

初めに見えたのはただの暗闇。

昼でもそこ一箇所だけ暗いというのは、何だかおぞましく思える。

その暗闇の中に、薄らと見覚えのある柔らかそうな金色の髪が見えた。

彼女なりのお洒落なのだろう。金の中でもよく映える小さな赤いリボンが揺れる。

肌の色は病的なまでに白い。恐らく意識していない間はずっと闇の中で生活しているからだろう。

その白さは二つの赤い瞳の色彩をより際立たせる。寧ろ鮮烈なまでのその赤が、彼女の肌を真白に見せているのかもしれない。

当の瞳は爛々と輝き、ともすればぞっとするような印象を与える。彼女の妖怪らしさは、ここに最もよく表れていた。

――宵闇の妖怪ルーミア。文が取材を申し出た相手だ。

 

 

ルーミア、というのは個体の名前でなく一種族をまとめた名称である。よって宵闇の妖怪、と言えばそれは間違いなくルーミアを示しているのだ。

名前で個体を判別できる妖怪はそう多くない。よく挙がるのはかの有名な八雲紫や笑顔が何よりも恐ろしいと評判の風見幽香ぐらいである。

一人一種族であれば問題はないが、多くの妖怪はそれに類しない。よって彼女達はかなり珍しい例だと言えよう。

広く知られた名称で一個体が示されるには、先述したように一人一種族であったり集団の中で際立って強かったりしなければいけない。

つまりは目立っていなくては、多くの者が個体を区別しようとはしないのだ。集団の中ではしっかりと区別されているかもしれないが、私たち人間は特に興味も示さないため区別する必要もない。無論、妖怪と交流を持っている者はその限りではないが。

博麗霊夢を例に挙げてみよう。彼女は知っての通り、博麗神社で日々を怠惰に過ごしているぐうたら巫女である。また同時に異変を解決することのできる数少ない人間の一人でもある。そのせいか、彼女のことを知らない者は誰もいない。

このように私たちは自分と霊夢を区別できるが、他の種族からはそうは見られない。例えば宇宙人から見れば、恐らく彼女も含めて“ニンゲン”と呼称されることだろう。

ただ彼女は人間の中でも法外に強いため、ほぼ確実に例外としてカウントされるだろうが。

 

さて、ここまでを踏まえた上で、射命丸文には一つの疑問が湧いて出て来た。

それはどんなところでも、彼女の知っている“ルーミア”しか見掛けないということだ。

彼女に限らず、他の妖怪も同様である。人間――ここでは霊夢や魔理沙のことを指すのだろう――に倒された、という武勇伝なのか笑い話なのか、はたまた如何に自分が根に持っているのかを示したのか、どんな意味を込めたのか分からない過去の話もよく披露する。

文脈に関係なく「そういえば」で始まり「だったんだよ」で終わる一連の話は、文自身幾度も聞かされていた。

記憶は共有できない。故に同一個体である。些か飛躍し過ぎな気がしないでもないが、少なくとも文の知っている“ルーミア”は人を騙せるような高度な知能を持っていないと断言できる。

まぁ、つまりは皆同じ“ルーミア”を知っているのではないか、ということだ。

これはおかしい。幻想郷に於いて宵闇の妖怪とは低級妖怪の代表格である。ややもすれば妖精とすら同格に置かれるかもしれない。

強くないのだ。というか弱い。

弱いのに一人一種族とは、自然の摂理に反している。そんなわけがない。第一“ルーミア”自身もよく家族のことを口にする。

では、何故“ルーミア”だけしか観測されないのだろうか。

仮定だけなら色々挙げられる。ルーミア一族の中でも“ルーミア”だけが住家の外へ出る異端の存在だとか。

実は実力を隠していて本当は最初から“ルーミア”は強く、故に一人一種族の妖怪だったとか。

その真偽を確かめるべく、文はわざわざ取材と言う体を為してまでここに来たのだ。

 

「どうもどうも。本日は宜しくお願いしますね」

営業スマイル。曰く一回百円。

そんな文を、ルーミアは指差し笑った。

「あはは。お願いしますだって。変なのー」

平時は気軽にタメ口なのに、いきなり敬語になったのが余程可笑しかったらしい。

確かにそれも変か、と文は納得していつもの口調に戻した。

「そうね。ヘンか。ごめんごめん」

つられて笑う。

闇に包まれた少女と、頭に葉っぱや小枝をくっ付けたままの少女。

そんな二人が木々の中で、首だけ出して向かい合いながら笑う様は、少しばかり異様であった。

 

暫くして後、漸くルーミアが笑うのを止めた。

「はぁーぁっ! 面白かった!」

満面に笑みを湛えて言う。

こういったところが本当に可愛らしいのだと、文は常々思っている。

一人ペットに欲しい。

まぁ、それはそれとして。

「じゃあ、そろそろお家に案内してくれない? あんまりここに長く居ても仕方ないし」

「うん。いーよ!」

ルーミアは文の手を取ると、勢いよく枝が絡まり合う木々の中を走り出した。

案の定、後ろで引っ張られている文のことは何も考えてはいなかった。

 

そして、漸く視界が開けた。

ルーミアが木々の外部へと飛び出したのだ。

「着いたよ!!」

にこやかにルーミアは振り向く。

が、その笑顔は少しずつ薄れていき、次第に表情は青褪めていった。

誰の目から見ても明らかに狼狽している。

「あわわわわ……ご、ごめんなさい!」

最早半泣きであった。

それも仕方のないことだろう。しかしながら、彼女は不注意過ぎたと言わざるを得ない。

彼女の視線の先には、血塗れになった文がいたのだから。

顔は擦り傷、切り傷で酷い有様になっていた。髪はボサボサ、普段着とほぼ変わりないとは言っても外出着には違いない服装もところどころ破けてとてもみすぼらしかった。

文に構わずルーミアが全力で駆けた結果である。

静かな怒りが、文の全身から滲み出るように放出されていた。

「いえ、怒っていません。怒っていませんよ? ええ。取り敢えず責任は取って貰いましょうか」

半ば自らに言い聞かせるように呟く。何故か丁寧な口調になっている辺り、文も混乱しているのだろう。それとも怒りの余り、なのであろうか。

どちらにしろ、そんな文を見るのは初めてだったのでルーミアは恐れ戦いた。

「お、お家で手当てして貰うのだ! きっとお母さんがやってくれると……」

「えぇ。お願いします」

文はにこりと笑った。

が、血に塗れた笑顔はルーミアの恐怖心を煽るだけである。

どこぞの妖怪蛍のようにひえぇ、と悲鳴を漏らしながら、今度は背後に気を配ってまた駆け始めるルーミアであった。

 

 

「ごめんねー、ウチの子が迷惑掛けちゃって」

「あ、いえ、お構いなく……すいません、顔にベタベタ絆創膏貼られるのはちょっと」

せめて軟膏にしてほしい。

齢は四桁を数えども、心の中はまだまだ乙女。余り目立つようでは困るのだ。

というより普通何枚も顔には貼らない。もう七枚目を貼り終えようとしていたところだった。

やはりルーミアの親なのだろう。どこかそそっかしいところがある、と文は結論付けた。

「あらら。ごめんねー」

そう言って、一度貼ったそれをぺりりと剥がす。

傷が引っ張られていたいと感じながらも、どこか遠慮が邪魔をして文はそう言いだせなかった。

……しかし、こんな森の奥深くで集落ができていたとは。

痛みと怒りで最初こそ気付いていなかったが、あの時、二人の前にはとても大きな一本の樹が聳え立っていたのだ。

ルーミアに連れられて空を飛び、すれ違いざまに様子を観察する。

時折姿を見せるルーミア種の妖怪達は、どうやら木の洞を住居にしているように見受けられた。

稀にだが、二人に気付き手を振ってくる者もいた。ルーミア当人は必死過ぎて気付いていないようであったので、代わりに文が振り返した。

――そうして、ルーミアが自分を降ろしたのもまた、大きな洞の前だったのだ。

独自の文化を築くことにでも成功したのだろうと文は推測する。

そうでもなければこんなところに巣は作らない。きっと彼女たちなりの必要性があってここに居を構えたのだろう。

ならば真面目に取材をさせて貰おうかとも考え始めていた。

ルーミアは恐らく「取材」の言葉を遊びに来ることの比喩と受け取っていただろう。文もまたそう取って貰って構わないと思っていたし、そういった目的も少しはないでもなかった。

元々は自己の知的探究心を満たすために今日ここを訪れたのである。疑問さえ解消されれば、後は遊ぼうとも何だって良かったのだ。

しかし、あの樹を見て気が変わった。

恐らく幻想郷の誰もが知らないであろう事実。下級妖怪になんて誰も見向きもしない。だからこそ、この驚くべき事実は今日まで他に知れ渡ることなく秘められたままでいたのだ。

文は直感した。これはスクープであると。

記者の勘が、そう叫んでいた。

……まぁ、勘とかもうそう言った類のものを取っ払って、確実に誰もが驚くような事実が目の前にいるわけなのだが。

 

「はい終わり。痛かった? 大丈夫?」

「いえいえ。どうもありがとうございました。突然押し掛けてはご迷惑だったでしょうに」

一応謙る。文流の処世術である。

「良いの良いの気にしないで。元々はあの子のせいだし、それにあの子が友達が連れて来たのも初めてだったから……少し、嬉しいの」

そう言って彼女は可愛らしく笑う。文も心の中で、そりゃそうだろう、と同意して笑っていた。

そしてルーミアの方を見遣る。

「終わった? 終わったの? じゃあ一緒に遊べる!?」

瞳をキラキラと輝かせている。

その煌きは文の部下の仕草を思い起こさせた。

しかし、こう見比べると異なったところなど全く見られない。

ルーミア母。文の知っている“ルーミア”と彼女とは、全くの瓜二つであった。

遺伝やらそういったレベルを超えている。双子と言っても通る。寧ろ母子という関係だと誰が思うだろうか。

口調こそ“ルーミア”より多少大人びてはいるが、外見は寸分違わない。これで母親と通すのなら、お前は一体どれだけ童顔なのだと問い掛けたくなる程であった。

――実は、それは彼女に限った話ではない。

先程見掛けた同種の仲間と思われる者たち。皆が皆、遠目からではあるが“ルーミア”と同じ背丈で、同じ服を着、同じ髪型で同じ髪の色をして同じリボンを付けて、

そして、同じ顔で笑っていたのだ。

ぞっとした。

ここには自分以外、“ルーミア”の顔をしたルーミアしかいないのかと思ってしまった。

だがしかし一方で、文は冷静な視点からこの異常な空間を観察していた。

混乱している頭とは別に、この異常を解体する整然とした理論を構築せんとしている頭があったのだ。

例えば、ルーミア種の妖怪は皆同じ外見を持つ特徴がある、とか。

同種間では外見が似通っているという話はそう珍しくはない。今のこの二人、否ルーミア種の酷似している度合いはそれと比類するものではないが、どんな場合にも例外というものはどこかに必ず存在するものだ。

それに、この仮説を採れば里周辺の目撃情報の謎も解決する。

皆が皆同じ顔であれば“ルーミア”と勘違いしてもおかしくはない。寧ろこれで間違えない方がおかしいというものだ。

そうなるともしかしたら自分たちが今まで会話してきた“ルーミア”も、必ずしも目の前にいる“ルーミア”と一致するとは断言できないが、向こう側が文のことをよく知っている様子なのでそれは疑わなくても良いだろう。

その仮説が咄嗟に構築できたからこそ、今文はこうして平然と会話ができているのだ。

しかし仮説は仮説。脆弱な土台の上にぐらぐらと、不安定にバランスをとりながら、須臾の間の安心に浸かっているに過ぎないのだ。

今の文は、どこで崩れるか分からない状態だった。

けれどそれに自身が気付くことはない。心の奥底でどこか漠然とした不安を抱きながら、平時と変わらない態度で会話を続けるのみであった。

「あぁ……ごめんね、私、“取材”しなくちゃ」

「えー」

大げさに残念がる。

確かに自分の予定で急遽予定を変更したのだし、仮にも案内して貰っておいてそれもないと文は思った。

そこではたと思い付いた。

「なら、協力してくれる? 一人だけだと色々大変だし」

「協……力……?」

「そう、協力。色々な人にお話を聞いて回るの。楽しいわよ?」

文はカメラを片手に持ってウィンクする。

ルーミアの曇った表情が、次第に晴れやかになってきた。

「――やる!」

「ん。良い返事」

文はルーミアの頭を撫でる。

ルーミアは目を細めて嬉しそうにはにかんでいた。

……これだけ似たようなのがいるのなら、一人くらいいなくなっても露見しないのではないか、という不埒な思いを抱きつつ。

「そうと決まれば話は早い。それじゃあ行きましょう。どうもありがとうございました、お母様」

「いえいえ、こちらこそ。娘を宜しくお願いしますね」

そう言って笑うルーミア母の姿は、やはり“ルーミア”そのものにしか見えなかった。

 

そしてルーミアは去り際に行ってきます、と声を張り上げて大きく手を振る。

文も苦笑しながら一緒になって手を振った。こういった時は、共に莫迦になる方が楽しいのだ。

いつもと違う予感を抱き、文たちは外へと繰り出していった。

 

 

――かくして、鴉天狗と宵闇の妖怪という珍妙なコンビが誕生したのであった。

 

 

「あぁ、貴女だったの。……隣にいる人はだぁれ?」

最初に、ルーミアに彼女の叔母さんだという女性を文は紹介された。

当然外見はルーミアと変わらない。こうして向かい合って話しているとまるで鏡合わせでもしているのかと思ってしまう。

ルーミア曰く色々知っていて頼りになる人、らしい。ゼロから始めるよりは幾らか事が進むのが早くなりそうだ。案外ルーミアを誘ったのは間違いではなかった、と文は思った。

「――と言うわけで幾つか質問にお答えして頂きたいのですが……どうでしょうか?」

「どーなのかー?」

文の語尾を引き継ぐようにルーミアは言った。

ルーミア叔母は笑顔で答える。

「ええ、どうぞ。幾つか答えられないかもしれないけれど、頑張ってみるわ」

「本当?」

「本当」

ルーミアは文の方に向き直り、口を大きく開いて笑った。

「本当だって!」

「うん、聞いていたわ。……それでは、宜しくお願いしますね」

文はルーミア叔母に向って頭を下げる。対して彼女はあらあら、とくすくす笑っていた。

“ルーミア”と同じ外見をしていると言えど、その艶のある笑みのせいか幾分か大人びて見えて、一瞬文はドキっとした。

 

しかし、やはりルーミア種はルーミア種と言ったところか。

幾つか質問を投げかけたところその内まともに使える返答は一つか二つだった。これでは仕事にならない。

そこでどうにかならないか、とルーミア叔母に聞いたところ、その件に関してあそこ、この件に関しては向こう、といったように他の者の家を紹介された。

どうやら専門分野があるらしい。

しかしながら三丁目のあの人なんて言われたって文には分かる筈もない。寧ろ分かる方が驚きである。

そこでどうしようかと悩んでいたところ、ルーミアが先導して道案内をしようと文に提案した。

莫迦とは言っても多少の土地勘はあるらしい。こういった時に頼りになるのは、やはり地元民なのだ。

使いどころは違うのかもしれないが、持つべきは友、という先人の言葉が酷く共感できた一瞬である。

存外コンビを組むのも悪くない、と文は感じ始めていた。

 

北へ南へ東へ西へ。

その叔母に紹介されたのは、殆どの者が僻地と呼べるような場所に居を構えていた。例えるなら択捉島、南鳥島、与那国島、沖ノ鳥島にそれぞれ住んでいる者を紹介されたようなものか。

しかもルーミアは場所と場所との距離を頭に思い浮かべていないようで、毎回最長距離を文は走らされていた。

嫌がらせか。

それでも成果がなかったわけではない。ルーミアの叔母の言った通り、穴が開いていた質問は少しずつ埋められて行き、最後の一人で丁度全ての問いが埋まる運びとなった。

何の不足もない。これだけあれば記事一本は楽々書ける量であった。それ程期待していなかった割にきっちり全部揃ったのはまさしく予想外のことだった。

きっと彼女の叔母は物知りなのではなく、人脈が広いのに違いない。文は疲れた頭でそう思った。

 

ふと、文は立ち止まった。

それに気付いたルーミアも立ち止まり、文にどうしたの、と尋ねる。

「ん、いえね、ここは見たところ女性しかいないみたいだけど」

どこもかしこもルーミアルーミア。ルーミア三昧とはこのことである。

しかし同時に、それはここにいる者が全員女性なのではないかという疑問を提起する。

純粋な疑問であった。

「うん、そうだよ。男の人は私も見たことないもん」

「なら……どうやって、子供を作るんだろう、ってね」

やはり夜な夜な里人を襲うのでしょうか、性的な意味で、などと下卑たことを想像する。

するとルーミアは突然文の手を引いた。

「なーんだ、そんなことか。それならこっち来て」

言うが早いがルーミアは宙に飛び上がる。文も同様に羽を羽ばたかせ、空へと飛翔した。

 

 

そこは大樹の上層部の、更に一番上。

今まで見た中でも一番大きな洞がぽっかりと口を開いていた。

「この中。私たちの子供が産まれるところ」

その言葉を聞いて文はぎょっとする。

否、そんな、自分がそんな神聖な場所へと入って行っても良いのだろうか、と考えたのだ。

ある程度は清純である。はぐれ新聞記者清純派が彼女のキャッチコピーなのだ。

しかし、尋ねたのも文自身だ。ある程度はその責任も取らなければいけない。

結局はむっつりなのだが。

「ほら、早く」

ルーミアは痺れを切らしたのか、乱暴に文の手首を掴んで進んで行く。

手を引かれるままに、文はその洞の中へと入って行った。

 

初めに抱いた感想は、どこか空気が生温い。

人肌のようなぬるぬるとした大気が身体全体に纏わり付くようで、それが文には不快に感じられた。

どうしようもなく鬱陶しい。文は懐から羽団扇を取り出し、それで顔を扇ぎ始めた。

しかし、問題はその蒸し暑さだけではなかった。

辺りは生臭い。夏場に肉がそのまま放置されたかのような、腐敗臭がそこには充満していた。

そんな中で風を送っていてはとても息などできやしない。文は代わりに手巾で鼻と口元を覆うことにした。

そうしている内に、自分のいる場所が何か段々ねじ曲がって来ているような錯覚を覚えた。

平衡感覚が少しずつ失われ、自分がしっかり立っているかどうかすらも判断がつかなくなる。

「ル……ルーミア……ここ……」

「大丈夫だよ。地面は動いてないから」

きっとルーミアには文が何を思っているのか分かったのだろう。何も言わない内から尋ねようとしていたことの対処法を答えられてしまった。

……しかし、なら、この違和感は一体何なのだ。

この、空間が歪むような、不思議な感覚は。

その時漸く文は気付いた。

歪んでいるのは空間ではない。壁だ。

この樹が、とくんとくんと脈動しているのだ。

さながら心臓の鼓動の如く、一定のリズムを刻み続けている。

なんだこれは。動く樹など見たことも聞いたこともない。少なくとも文の常識内ではそうであった。

でも、確かに動いている。自分の目の前で、今にも音が聞こえそうな程激しく脈打っている。

それでも文は自分の見ているものを信じられなかった。己の目がおかしいのではないかとすら疑いさえした。

だって、そんな、これじゃあ、まるで、

――胎内の、中みたいじゃあないか。

胎内? 莫迦な。ここは木の洞の中だ。そんなわけがない。

ならこの生温さは? この臭いは? 脈打っている目の前のそれは一体何?

何より、本能が憶えているでしょう。

自分が産まれる前、どこにいたのか。

――駄目だ駄目だ、そんなの思い出してない。

そんなの思い出してはいけない。

そうだ。こんな異常な光景、今まで見たことなどあるものか。

文は必死に否定する。そうして自己を肯定する。

でも、そんな異常な光景の中で、尚ルーミアはへらへらと笑っていた。

「……ちょっと、ここ……おかしいわ。早く出ましょう」

「何を言っているの? 私たちがどうやって産まれたか、知りたいんじゃないの?」

毒気の全くないきょとんとした表情で、ルーミアは文を見詰める。

何を言っているのだろうか、この子は。

意味が理解できない。

「……ど、どういう」

「見れば分かるでしょ?」

「見れば……分かる……」

否。

もう既に、この洞の中へと入った時から文はそれを見ていた。

ただ、認めていなかっただけで。

――茶色くデコボコした壁は、ところどころ不自然に突出して膨らんでいる箇所があった。

大きさは丁度、小さな子どもが丸まって入れるくらい。

やや透けていて、だらんと壁からぶら下がっている様はまるで水風船のようだった。

とくん、とくん。

ふるり、ふるり。

全ての水風船が、鼓動に合わせて小さく揺れる。

とくん、とくん。

触れば今にでも弾けて潰れてしまいそうな、何かがいっぱいに詰まった果実。

ふるり、ふるり。

不気味に揺れる、釣鐘型の球体。

不規則に並んだそれらが規則的に震える様子を見詰めていると、喉が異常に乾いてくる。

あぁ、今にでも水を飲みたい。暑い。服を脱ぎたい。もうここに倒れてさっさと楽になりたい。

それでも、ゴクリ、と生唾を呑みこみ更に凝視し続ける。

もう目は離せなかった。

 

その時、一際大きな水風船が、一際大きくふるりと揺れた。

「あぁ、もうすぐ産まれるね」

ルーミアが楽しそうに言う。

産まれる? 何が?

――言っただろう。『見れば分かる』と。

見ろよ。

目を逸らすなよ。

どんなに怖くても、どんなに恐ろしくても、自分の望んだものをしっかり一秒たりとも瞼も閉じずに瞳に焼き付けろよ……!

風船がぐにぐにと形を変える。

形を変える? 違うな。

あれは、内側から膜を破ろうとしているんだ。

そう、例えるなら雛が孵化する時のように。

だから、そんなことをすれば、当然の如く、

爆ぜる。

オレンジ色のネバネバとした液体を撒き散らしながら、勢いよくそれは爆ぜる。

どくどくと、後から後から液体は流れ出る。粘着性のある液体が、少しずつ床を侵食していく。

樹液なんてものじゃない。あれは、間違いなく体液だ。

文は余りにもおぞましいその瞬間を目撃して、思わず後ずさった。

――ねちょり。

一歩下がる時、何か違和感があった。

そうして、足元を見ると。

先程あの風船から流れ出でた粘着性の液体が、床一面を浸していた。

「ひぃっ!?」

悲鳴が口から飛び出る。

今まで自分はこんなところに足を突っ込んでいたのか。

気付いていなかったとはいえ、自分からそこに足を踏み入れた事実に文は卒倒しそうになる。

何でも良い、早くここから逃げ出したいという衝動的な欲求と、もうこの靴は使えないわね、などの妙に現実的な思考が混ざり合う。

文は完全に混乱していた。

「産まれたー。おめでとー」

そう言って、ルーミアはたった一人でぱちぱちとかわいた拍手を送る。

無邪気に笑っていた。

 

――何がおめでとう?

産まれたから。

――何が産まれた?

見れば分かる。

見れば分かった。

それまで詰まっていただろう液体が抜けきって、既に萎びていた薄い一枚の膜。

突如動き始めた。

いや、蠢き始めたと言った方が正しいかもしれない。

もぞりもぞり。そんな妙な擬音を立てるかのように、膜は時折ズっと動いた。

そして中から“それ”は這い出た。

伏せていて顔は見えない。しかし、その他の特徴から“それ”が何なのかを推測できることはできた。

光沢のある、水に濡れた金髪。

血管が透けて見えるほどに青白く細い躰。

そして、ズっともう一度こちらへ寄って、漸く顔を上げた。

文を見て、にたりと笑う。

人を射抜くような鮮烈な赤。口元が歪み、頬まで上がりきったそこからは可愛らしい犬歯が覗いていた。

――紛れもなく、ルーミアである。

ゼラチン状の膜で覆われ、粘着質な液体に体を浸していたそれは、真横でへらへらと無邪気に笑っている“ルーミア”と寸分の狂いもなく違わないルーミアであった。

産まれたばかりだと言うのに背丈は“ルーミア”と変わらないように見える。

まるで、あの膜の中で十年程成長し続けていたような、そんな錯覚すら覚えた。

……錯覚? 何故そうと断じる。寧ろ成長していた方が、まだ常識に近い位置にはあるだろう。

そんな、産まれた時から今現在のルーミアと同じ外見だなんて、そっちの方がよっぽど非常識だろうに。

だから文は見ていたのだ。最初から、その半透明の球体一つ一つに、何が入っていたのかを。

例えば、大きな球体には半分以上肉体が形成されていて。

例えば、小さな球体には腕や手などパーツだけ。

薄い膜の中で少しずつ組み立てられるように肉体が形作られ、そして完成した時産まれ落ちる。

そう考えると何とおぞましい光景なのだろう。文は吐き気を催して口を押さえた。

「丁度良かったね。産まれる瞬間を見るのは珍しいことだと思うよ。私も初めてだし。どうせだし写真撮ったら?」

「……ルーミアも、産まれた時はこうだったの?」

あれ、と文は思った。

聞こうともせず、そもそも頭の中にすら浮かんでいない言葉を今口にしてしまっていた。

何か、途轍もなく嫌な予感がする。

やっぱり何でもない、と文が言い出す直前にルーミアは口を開いた。

「うーん、そうなんじゃない? 皆同じように産まれてきたみたいだし」

事も無げに。

しかし、その言葉によって文の頭の中で一つの理論が構築される。

――皆同じように。

それって、本当の意味で皆同じなんじゃないかしら。

そう、いわゆる、クローンってやつ――

駄目だ駄目だそれ以上はいけないだってもしそれが本当だとしたら

 

例えば、もし彼女らがクローンだとしたら。

“ルーミア”の母親と言った彼女もまた“ルーミア”で。

叔母だと言われた彼女もまた“ルーミア”で。

だから知識も同じように有しているし、記憶も同じように共有している。

ただ、“母親”や“叔母”など与えられた役割により使える引き出しが減ったり増えたりするだけで。

その本質はどこまでも同じ。私たちが上辺の多少の差異で違う人物と認識しても、その奥底ではやはり同一だったのだ。

だから、里でよく目撃される彼女もまた“ルーミア”で、私たちの知っている彼女もまた“ルーミア”で……。

全部全部、同じだったのだ。

 

文はもう限界だった。

何で自分がここにいるのか。早く帰りたい。ただただそれだけを願っていた。

その願いは文の口から思ってもみない言葉を飛び出させる。

「す、すいません。気分が優れないようなので、私は取り敢えず帰ることにします。今日はどうもありがとうございました」

いきなり敬語である。まるで取材を終える時のような言葉。文の混乱を如実に表していた。

文の言葉を受けて、やはりと言うべきかルーミアは怪訝な顔をした。

「えー? まだ時間あるでしょー? あ、ほら、あそこのももうすぐ産まれそうだよ」

そう言って真っ直ぐ指を差す。

つられて文はその先を見る。

先程割れた球体と、然程変わらない大きさのそれがあった。

「ねー」

言いながらルーミアはニチャニチャ音を立てながらそれに近付いて行く。

液体が跳ねて服に付いてしまうことを気にも掛けずに無邪気に駆ける。

そしてぶよぶよとしたそれの前に座り込んで、人差し指だけを突き出し、勢いよくぶすり、とそれを突くのだ。

当然薄い膜でしか覆われていないそれは、そんな勢いよく指を突き差されては破れて爆ぜてしまう。

ぐにょりとルーミアの指が膜の内側に入り、慌てて引っ込めるとそこからぴゅーと勢いよくオレンジ色の液体が噴出した。

「わ、わ」

更に慌てて手で塞ごうとする。だがそのせいで更にショックが加えられた膜は亀裂が走りより大きな穴が開く。

まるで、対処を知らない子供の咄嗟の行動である。

勢いよく飛び出していた液体は少しずつその勢いを弱め、次第に大きく開いた穴からどろりと緩慢に流れ出て行く。

「あー」

ルーミアが諦めの声を上げる頃には、もう既に全ての液体が流れてしまっていた。

中にいたそれは、まだ完全には形成されていなくて。

少しばかり、全身が溶けたようにネバネバと泡立っていた。

……そしてそれは、やはり動くことはなかった。

「…………っ!!」

文は戻す直前の状態になって、思わず口を手で押さえる。

ルーミアは突っ込んだ人差し指を鼻の穴に近付け、くんと一回嗅ぐと顔を顰めて指を遠ざけた。

「うわー、くっさーい」

ああ、駄目だ。

心底文はそう思った。

子供の純粋さは時に残酷な一面を表す。きっと彼女は、これも遊びの一環としてしか見ていないのだろう。

精神が成長していないのだ。

そしてそれは、ここに住んでいる全員に共通している。

“ルーミア”と同一存在である、“ルーミア”全員に共通しているのだ。

成長し、子供から脱却した文には、その残酷さを直視することはできなかった。

吐き気を堪えながら、頭を抱えて文はか細い声で言う。

「無理。もう無理。おかしいよ、こんなの。だってルーミア、今あんた、“仲間”を」

「ねーねー。今日泊まってかない? 夜も一緒にあそぼーよ」

ルーミアは文の方へ首だけ向け、にたりと笑った。

全身がオレンジ色の粘着性の液体に塗れている。

鼻が曲がる程の腐臭と、蒸し暑い程生温い空気の中で、べたべたとした液体を全身に浴びて、ルーミアは笑っていたのだ。

――話が通じていない。

もうどうにも我慢がならなくなった文は、そこから逃げ出した。

兎に角そこから離れるため。兎に角“ルーミア”から遠ざかるため。

どこへ向かっているのかも分からないまま、文は駆けた。どこまでも駆けた。

後に残ったのはただ一陣の風のみだったという。

 

すぐ脇では、裸のルーミアが呻きながら蠢いていた。

きっとその内黙ってここから出て行って、他の皆と同じように生活を始めることだろう。

もしかしたら、“ルーミア”と時たま役割を交換し合うことにもなるのかもしれない。

それを他の者が知る由はないのだが。

別れの言葉を告げる暇もなかった“ルーミア”はただ一人洞に残されて、ぽつりと一つ呟いた。

「ヘンなの」

 

 

ルーミアの生る樹。

その大樹は、宵闇の妖怪を実らす。

どうして妖怪を実らすのかは分からない。どうして妖怪が実るのかも分からない。

ただただ、文の見たモノが事実として存在することが確かなだけである。

だから、そんな現実離れした事象が現実に起こっていることが恐ろしくて、先人はルーミアについて調べることを止めたのだった。

 

 

それから文は五日間、自宅に籠って一歩も外へ出なかった。

毎夜夢に見るのだ。あのおぞましき光景を。

家の中ですら、常に誰かに見られている気がする。オレンジ色の粘液に包まれた、“ルーミア”たちがついてきている気がする。

そんな状態では外には出られない。友人たちが心配して文の家まで訪れたが、鍵は閉まっていて呼び掛けても返事は返ってこない。

その上夜な夜な聞こえる悲鳴も手伝ってか、三日目には誰も文のことを持ち出す者はいなくなった。

精神がある程度落ち着き、日常生活が水準レベルにまで戻ったのが六日後だったというだけの話である。

 

久し振りに姿を現した文を、同僚たちは快く出迎えた。

文自身もそう大きな変化はなかったし、通常業務もしっかりとこなし今までと変わらぬ仕事振りを見せていたそうだ。

周囲の者は一体何があったのだろうと思いながらも、次第に文が一時期おかしくなっていたことを忘れていった。

 

しかし、ただ、一つ。

宵闇の妖怪の話を彼女の前ですると、異常に怯えて逃げ出すようになったそうな。

あとがき

求聞史記に一人一種族の妖怪もいる、と書かれているように殆どの妖怪は多くの同種族の仲間がいると考えられます。

ですが私たちの知っている“ルーミア”や“ミスティア”が求聞史記に記述されているのは少々おかしくないでしょうか?

言い回しが少々ややこしいですが、読んで頂けたのなら私の言っている意味も分かる筈。何故私たちの知っている個体が広く知れ渡っているのか。そういった疑問から生まれたお話です。

タイトルは「生る樹」。原題は「ルーミアの生る木」でしたがあまりにもそのまま過ぎるので敢えてひらがなに。

ある意味文三部作の内一つ。