博麗霊夢は、死んでしまいました。

 

 

しかし死んでもまだ意識が残っているとは。精神は脳に依存しないらしい。新鮮な事実であった。

もう既に死んでいる自分がそれを知ってもあまり意味はないけどね、と霊夢は思考を断ち切る。

今現在、霊夢はどこか分からない、白い霧の立ち込めた川原の畔でただぼぅっと立っていた。

ふと手元を見たり、俯いてみたりすることで自分の身体が多少ばかり透けているのを見ると、ああ、自分は死んでしまったのだなあとぼんやり思うことができる。

感傷も感慨もない。ただそうであったという事実を受け入れるのみである。

そうして突っ立っている霊夢の背後から、一つの人影が呼び掛けた。

「おやおや、次のお客さんかえ。もう今日は店仕舞いだよっと……お?」

どこか聞き覚えのあるような声に、霊夢には聞こえた。

そいつはひょこひょこと正面に回り、顔をまじまじと見て、大きな瞳を更に大きくくりくりとさせた。

「なんと。これは珍しい顔だね。また遊びに来たってわけじゃあ……どうやらなさそうだな」

少し哀しそうな顔になって言う。

自分はここに遊びに来たことがあるのか。じゃあこいつとは知り合いということになる。

うーむ、誰だろう。

「……ま、あんたなら昔の誼で運んでやっても良いかな。乗りなよ。営業時間はもう過ぎたけど、少しぐらいサービスしちゃる」

大きな胸を大きく張って、死神小野塚小町は寂しげに言う。

霊夢は頭の片隅で、まだ閉店には早いのではないか、とそんなことを考えていた。

 

「さぁさお客人。三図の川の渡し守は駄賃を先に貰う決まり。金額によっちゃあたまげる程に短い旅に、逆に凄まじく長い道程になることだってある。

さてさて。お前さんの生前の、評価はどれ程変わったかねえ?」

けらけら笑って手を差し出す。

霊夢は首を傾げた。

言っている意味がよく理解できなかったように見える。

「ん、分からないの? 懐にでも入ってるでしょ。早くお出しよ」

言われて頷き服の中を弄る。すると指先に何か硬いものが当たる感触があった。

取り出してみればそれは小袋。少しばかりの重量感が感じられ、そのまま小町に手渡すとジャリジャリと小気味の良い音が幾重にも響いた。

小町は袋の口を開き、中を覗き見てから言った。

「相も変わらず小銭ばっかり。しかも合計も少ないと来たもんだ。あれからちっとも素行を改めなかったな?

……それでも種類は多いな。人望はなくても人脈が多いのか。少しっくらいは仲良くする努力をしろよな」

そう言われても、霊夢にはピンとこなかった。

記憶がもう殆ど失われているのだ。

本来ならこうして本人の姿を取っていることもできない筈。魂と肉体が分かれてから七日である。犠牲になったのが未だ記憶のみなのは、果たして幸運だったのか。

どちらにしろ本人は気にも留めなさそうな問題だが。

「これじゃ全然足りないけれど……ま、今回は許してやるか。

……そんじゃ、ちょいと長い船旅へ、一名様をご招待!」

朗らかに小町は笑う。

そんな小町の手を借りて、霊夢は危なげに小舟に乗り込んだ。

 

「……しっかし、あんたが死ぬとはねえ。まさかまさかの前者だったか」

感慨深げに、小町は息を漏らす。

「第一印象はねぇ、こんなところに目出度そうな奴が来たと思ったもんさ。あたいもあたいでそれなりに騒がしい奴だとは思っていたけど、あんたはそれ以上にここにゃ似つかわしくなかったね。三途の河で紅白巫女だなんて、あんた、そりゃ不謹慎を通り越して清々しくすらあったわ」

あの時は楽しかったなぁ、とボヤく。

小町は怠惰の権化である。仕事に勤しむよりは遊びに興じる方が誰だって良い。それを極端化したのが小町だと言っても過言ではない。

故にお祭り騒ぎなどは大の好みで、日常を蝕む非日常をこの上なく楽しむタイプであった。

だから、霊夢と初めて出会った時などとても久し振りに胸がわくわくとしていたのである。

「その癖強い。生きてる奴がこの死人の川を渡ろうとするだけでもとんでもない狼藉なのに、あんたはその上私に勝負を挑んできたっけ。

……完敗だったなぁ。いんや、四季様すら倒しちゃうんだから、あたいが勝てる筈もない、か。

……ん? そうするともしかして天人にすらなれるんじゃないか? いやはや、そこまで行くと逆に恐ろしいね。もう死んじまってるから関係ないけど」

苦笑する。

天人は迎えに来た死神を撃退して束の間の生を勝ち取る。小町も水先案内人とは雖も死神の端くれだ。一ミリくらいは自負もある。

勿論死神を撃退する際は弾幕などというお遊びではなくガチンコの実力勝負なため、揶揄したに過ぎないが。

霊夢の反応はなかった。

「おや、だんまりかい。まァ相手が話せることなんざ滅多にないからあんまり気にしてないけどね。一人で喋るのには慣れてるさ。

……でも、折角人の形を取っているわけだし。一言くらい喋ってくれても良いんじゃないかえ?」

ぐらりと船が揺れる。

よろけた霊夢は船の縁に捕まった。

「おっと悪いね。ちっと心が乱れたみたいだ。私も少し黙るとするよ」

悪びれもせずに小町は言う。

霊夢は崩れた体勢を立て直し、また元通りに座るだけだった。

そうして小町が喋らなくなると、周囲に一層静けさが増した。

人一人喋っているだけでもそれなりに賑やかなものである。その上小町は騒がしい。実によく響く声で、一方的に喋り続けていたのだ。

それがなくなれば静寂はより際立つ。聞こえてくるのは小町が櫂を漕ぐちゃぽんという水の音だけ。

ともすれば、二人の呼吸する息遣いすら互いの耳に届きそうだった。

小町のようにやけに馴れ馴れしい死神はあまりいない。本来、こうした冷たい空気の中で粛々と行われるべきが渡しの儀である。

故に今の状態は正しいとも言える。

一人の死神と一人の魂を乗せて、小さな木船は静謐に満たされた川を進む。

 

「……ん、着いたか」

暫くの無音の後に小町が言うと、すぐに船ががこんと音を立てながら揺れた。

その衝撃で顔を上げた霊夢は、荘厳な雰囲気を全体から醸し出すその建物をじっと見詰めた。

是非曲直庁。

罪を裁いて魂の行く末を決める、死後の世界の分岐点である。

自分もここで裁かれることになるのだろう、と霊夢はおぼろげにそう思う。

その全景をよく見ようと立ち上がる。

「降りな。私の役目はここまでだ。後はしっかり裁かれると良い」

後ろから小町が言ったかと思うと、突然背後からどんと押された。

完全に気を抜いていた霊夢は、不意の衝撃によろけて前のめりに倒れる。

倒れる、筈だった。

視線は下方に、しかし地面に近付くことはなく。

「ほんじゃま、また縁があれば、ということで」

そう言って小町は櫂で地面を突く。見る見る内に小舟は離れ、段々と小さくなっていき辺りに立ち込めていた霧に紛れて消えてしまった。

早業であった。

霊夢は改めて自分の手元、否身体を見る。

 

それまでの霊夢の姿は既になく、そこにはただ一つの白い半透明の霊魂がふよふよと浮遊していただけだった。

 

 

そして数時間後。

漸く霊夢は列の最前線にまできた。

存外早いものである。

「――有罪。地獄で悔い改めなさい。次!」

少々冷たい響きが籠った、若い女性の声が響いた。

固く閉じられていた正面の鉄の扉が開く。

霊夢はすう、っと流れるように中へと入って行った。

 

是非曲直庁での裁判は私たちのそれとは少々異なっている。

被告人は魂。原告は裁判長。生前に積み重ねた罪の是非を問われ、そして最終的な判決を下される。

それも何人かの他の裁判官に囲まれたまま、だ。まるで詰問されているかのようである。

多くの霊魂は場に立ち入った時にあまりの威圧感に気圧されると言う。自らを取り囲む誰も彼もが徳の高い者なのだから当然だ。本能で上下関係を理解しているのだろう。

但し霊夢は例外であった。

 

悔悟棒を片手に、高々と積み上げられた文書の山の向こうに彼女はいた。

まるでどこかの重役の机の上のような惨状だが、これらは全て霊夢の罪を並べた紙。それだけ霊夢は咎められる罪を犯していたということだ。

他の誰よりも高い段に座っている彼女は、全身から威光というべき重々しい気配を漂わせていた。

「はい、じゃあ罪状を読み上げま――」

そこで緑色の髪の彼女は言葉を切った。

立ち上がり目を大きく見開く。

そうして入ってきた霊魂と、自分の手にしている書類とを交互に見る。

瞳は彼女の能力に反して白黒目まぐるしく変化していた。

「……あ、貴女……博麗、霊夢、だと言うの……?」

震えた声でそう告げる。

霊魂は少し逡巡した後、身を捩じらすように本体を変形させ、そして縦に一度大きく動いた。

頷いたかのような動作であった。

それを見た彼女――十王が一人閻魔王である四季映姫・ヤマザナドゥは困惑したかの様に眉を顰めた。

「だ、だって貴女博麗の巫女でしょう? そんな……いえ、有り得ない、というわけでもないのだけれど……」

一人でぼそぼそと呟く。

混乱しているのが手に取るように分かった。

いつにない閻魔王の狼狽振りに周囲の裁判官もざわめき始める。冷静な一部の者は混乱を収めようと叫ぶが、誰一人としてその言葉を聞き入れる者はいなかった。

混乱は混乱を呼び、たった一つのざわめきが乗算されるかのように増えて行く。

喧々囂々。

静寂を保っていた法廷は、突如として秩序を破ってしまった。

 

騒ぎが是非曲直庁全体に響き渡る頃に、映姫は漸くこの事態に気が付いた。

衝撃的な事実に暫く放心状態となっていたが、こうもうるさくてはそうも行かない。映姫は額を押さえ、はぁ、と溜め息を一つ漏らした。

さて、と。

 

「――静かになさい」

ぴたり。

先程まで喧騒に包まれていた場は、その一言で全ての収拾がついた。

騒いでいた誰もが言葉を発した――映姫の顔を見詰めていた。

まさに鶴の一声。

地獄の閻魔、四季映姫の威厳がそこに顕現した。

「博麗霊夢。貴女が死んでしまったのは正直予想外でしたが――ここに来た以上、私たちには貴女を裁く義務があります。心して聞くように」

霊魂、つまり霊夢はぐるぐると回って新しい体を楽しんでいたが、映姫が口を開くとぴたりと止まって真っ直ぐ彼女へと頭を向けた。

先細っている方を尻と仮定した上での頭なので、本当は尻を向けて小馬鹿にしているのかもしれないが。

映姫はごそごそと何かを探るような仕草をすると、懐から一枚の手鏡を取り出した。

鏡面を霊夢の方に向けて言う。

「この鏡は映したものの生前の罪を暴く鏡。これで貴女の過去の罪悪は全て露わとなり、裁かれることとなる」

そこにはまだ生きていた頃の、いつかの霊夢が映っていた。

ナイフを手に構えた少女と対峙している。

ほんの一瞬に距離を詰められていたり瞬間移動したかのように思われるナイフが目前に迫ったりしながらも、間一髪で避け切り霊夢は何とか攻撃を凌いでいた。

――そうして何度も衝突し合い火花を散らし、遂には決着が着く。

銀髪の少女は薄目をぼんやりと開いて仰向けに倒れていた。

「一つ目。貴女は人間を殺めた。その上大量殺人犯ではない? 笑わせないで。人殺しは人殺し。その人数が多かろうが少なかろうが裁きは等しく下される」

紅き吸血鬼が言った言葉のことを言っているのだろうか。そうだとしたら的外れである。

あれはただの掛け合いの一つだと言うのに。と言うかあんたも会ったじゃないか。もう忘れたのか。

何れにしろ今はもう喋ることのできない霊夢にはどうでも良かったが。

――そして鏡はまた別の情景を映し出す。

霊夢が如何にも弱そうな妖怪を払い除けるように退治する様が映っていた。

低級妖怪では到底太刀打ちできない。ただ目の前に現れただけで次の瞬間には紙切れのように宙を舞っていく。

一方的な展開であった。

「二つ目。異変に何ら関係なく、害を与えるような意思すら持っていない妖怪を一方的に攻撃する。

その上家主が倒れたのをいいことに盗みまで働く。恥ずかしいとは思わないの?」

思わなかった。

霊夢と映姫の価値観には大きな隔たりがあるのだから当然だ。

しかし閻魔の決定は絶対である。その上霊夢に反論する術は残されていなかった。

間髪入れずに次の虚像を鏡は映し出す。

暗い暗い竹林の中。月の光が照らすのは、一人の人間と一人の妖怪。

無論霊夢と、そのサポート役を務める大妖、幻想の賢人が一人八雲紫であった。

全く動く気配を見せない月の下、二人は凄まじい速さで竹林の中を駆けて行く。

「三つ目。幾ら異変解決のためとは雖も、他の者を巻き込むのは感心しない。

明けない夜に一体何人の者が怯えたと思っているの? 自然を無闇に乱すのはそれだけで罪。やり過ぎよ」

難癖にしか聞こえない。

映姫の言うことはいちいち尤もなことなのだが、そうやって追求されるとカチンと来るものがあった。

場面は次の舞台へと移る。

先程の黒一色とは打って変わって、色取り取りの葉が鮮やかに辺りを彩っていた。

思わず霊夢も見蕩れてしまう。

そこにいたのは二つの威厳。

乾を司る神八坂神奈子。坤を司る神洩矢諏訪子。

二柱を合わせて天地と成る。

霊夢にとっては、まさに乾坤一擲の大勝負であった。

しかし映姫は溜息を吐き、呆れた表情で言う。

「四つ目。神を相手に陣取って、一世一代の大立ち回り? 貴女、本職を見失っているんじゃない?

巫女よ巫女。どこの神を奉っているのかは知らないけれど、ここは古来よりあらゆる者を受け入れる八百万の神を信奉してきた。

幾ら新参者と言えど……いえ、この二柱は伝承に伝えられる大御神たちね。尚更よ。神を奉る心のなくなった神社は必要ない。巫女失格ね。廃業したら?」

これには流石の霊夢も耳が痛かった。

誰が何と言おうと神である。巫女の立場でそんな雲の上のような存在をしばきあげるなど滅茶苦茶な話だ。しかし霊夢はやってしまった。普通ならやらないことを、いや畏れ多くて出来る筈もないことをやってのけてしまったのだ。

消せない事実。知られたのは大きな痛手である。

霊夢が苦々しい言葉に顔をしかめていると、鏡はまた別の景色を映し出した。

地面の下の奥深く。全てに拒絶された妖怪たちが封印された地底のそこである。

巫女の片手には陰陽玉。それを使って霊夢と会話しているのが、先程の大妖八雲紫だった。

つい先日の異変の時のことだ。

霊夢は嫌々ながら、紫に言われたままに地底へと向かって行ったのだった。

「五つ目。本来退治はしても交わることのない巫女と妖。それがいつからこれ程までに密接な関係になったのでしょうね。その上妖怪に好いように使われているとは……とうとう来るところまで来ましたね。

もっと自分の立場を自覚なさい? 貴女の役目は神を奉じることであり、異変を解決することであり、妖魔を退治することなのよ。中立であることは博麗の巫女として正しいけれど、少し妖怪側に傾きすぎているのよ。貴女は」

もう何も言い返せない。

霊夢自身も分かっていた。自分は中立の立場でありながらも、どこか妖怪と同じ位置にいるような錯覚を覚えていることに。

そもそも神社に妖怪、それも力の強い者たちが入り浸っていること自体がおかしいのだ。ましてや博麗神社。恐れるのであればまだしも、好んで近寄ってくることは異常としか言いようがない。

映姫はそこで鏡をまた懐に戻した。

「もうこのくらいで良いでしょう。余罪もまだまだたっぷりとありそうですが……彼女の尊厳を傷つけるのは私たちとしても不本意です。

己の罪を思い出しましたか? よーく考えて贖罪なさい。……まぁ、今のままでは無理だとは思いますが」

もう充分に傷つけられている、と思った。

だがそんなことは映姫はお構いなしである。自らが犯した罪なのだから当然だ、とも思っている。

徹頭徹尾正しく裁く者としての心構えであった。

 

「――では、そろそろ最終審判を下すとしましょうか」

映姫は居直り、姿勢を正して威圧的な視線を霊夢に向けた。

厳粛な空気に包まれているせいか、霊夢も自然と佇まいを正してしまう。

……そして映姫は、毅然とした態度で言った。

「被告人博麗霊夢。貴女は本来の巫女の職務を忘れ、信仰することすら放棄し、その上神に刃向うような真似までした。

また本来ならば必要のない罪のない妖怪まで退治し、あまつさえ妖怪ですらない者までを手に掛けた。

いずれの罪も非道の極みであり、被告人には更生する意思もなかった。何よりも業が深過ぎる。既に個人では雪ぐことのできない水準にまで達してしまった。残念だけれど、私には貴女を是と認めることなどできない。

よって――有罪」

断罪。

霊夢の罪はヤマザナドゥの名に於いて、今ここに決定された。

しかし有罪と宣告されたにも関わらず、霊夢はまた気楽そうにくるくると飛び回り始めていた。

右へ左へ左へ右へ、下から上に上から下へ。360度あらゆる方向へと飛ぶ。

あらゆる物に縛られることのない彼女らしいと言えば彼女らしいが、やはりその行動は映姫の神経を不必要に逆撫ですることになった。

更に映姫は続ける。

「……ですが、貴女は余りにも罪を重ね過ぎた。地獄にすらいけない、と言ったでしょう? 冗談ではなかったのですよ。転生など以ての外です」

淡々と述べる。

小町とは異なり情に絆されることはないらしい。初めこそ少しばかり混乱していたが、冷静さを取り戻した今では実に公正な判断を下していた。

博麗の巫女とは調和の象徴。それがなくなっては幻想郷のバランスが崩れてしまう、どうすれば、という思考の上での思考停止だったのだ。

しかし幻想の大賢人の内誰もがその対応を考えていなかったとは考えにくい。恐らく代替案は用意されているのだろう、と推測して映姫の脳はまた活動を開始した。

映姫にとって巫女は飽くまで巫女でしかない。個人として見るのではなく、その本質、その価値を見極めて初めて白黒をはっきりと付けられるのだ。

人を裁く裁判に於いて、個人的な感情は不要である。

「貴女は何よりもまず先に、重過ぎる罪を軽減する必要がある。それでは例え善行を積んだとしても何も現状が変わることはない。

誰かに導かれない限り、その先が開かれることは決してない。地獄の閻魔の推薦状がなければ罪を雪ぐことすらままならない。それだけ貴女の罪が重いってことよ、これから先は善処なさい。

――故にヤマザナドゥの名に於いて、被告人博麗霊夢に労働の義務を課す」

労働? と霊夢は首を傾げる。

本人の感覚なので傍目にはただもぞもぞと蠢いているようにしか見えなかったが。

「貴女もよく知っているでしょう。冥界の白玉楼、そこに住む富士見の娘。あの娘に仕えなさい。暫く頭を冷やして奉仕に執心すること。これが今の貴女が積める善行よ」

映姫は笑顔で言い放つ。

彼女なりの優しさだったのだろう。知り合いの下であれば少しは頑張れるだろう、まだ更生できるかもしれない、という甘い考えでもあったのだろうか。

きっと閻魔は忘れていた。霊夢は誰かに縛られるということを、性根からして嫌っていたことを。

ましてや、あんな華胥の亡霊の配下だなんて。冗談でも笑えない、と霊夢が真顔で言いそうなことだった。

 

今では記憶の残っていない当の霊夢にも、ただぼんやりとした不安だけは心に浮かんでいた。

 

 

「初めまして。私はこの白玉楼の主、西行寺幽々子よ。閻魔様からお話は聞いているわ、これから宜しくね」

「私は西行寺家に仕える庭師兼剣術指南役、魂魄妖夢と申します。家事やその他雑事も担当しているので、何か不都合があればどうぞ相談を」

そう言って二人は笑顔で同時に手を差し出す。

同時に、という時点でおかしいのだが、そもそも今の霊夢に手がないということを二人は分かっていないのだろうか。

霊夢は困惑しながらふよふよとそこに浮かんでいた。

 

白玉楼。

名をも忘れた幽霊たちは地獄や天国へ行く前に、一旦この冥界でその日が来るのを待つことになる。

主は浮世離れした亡霊、西行寺幽々子。天衣無縫なその性格は時に多くの他人を巻き込む程の大騒動を引き起こすこともある。いわゆるトラブルメイカーである。

あの八雲紫をして友人と言わしめるのだから、彼女自身の底の知れなさも相当であるということが窺える。

そんな彼女の従者を務めるのが半人半霊の少女、魂魄妖夢である。

剣士としての腕前はなかなかのもの。祖父から受け継いだ家業を日々懸命にこなしているが、幽々子が主では苦労も多いと思われる。

残りは全てが裁きを受ける前の幽霊。家事の類は彼(女)らが一手に引き受けている。が、やはり幽霊なので至らない部分も多い。そもそも脳がない幽霊に知的な仕事をさせようとするのが無謀な話というものだ。

よってその皺寄せは妖夢に行くことが多い。

しかし妖夢にも限度というものがある。

何の因果か、霊夢は意識だけは残っていた。思考もできるし質問の答えをボディランゲージで相手に伝えることもできる。これは大変珍しいケースであった。

その辺りを映姫は見破ったのだろうか、霊夢を奉仕労働の一環として家事を任せるために白玉楼に送り込んだのである。それも罪を軽くするには必要なことだと映姫は語っていたが、霊夢にはどうしても雑事を任されたようにしか思えなかった。

映姫は二人にこの幽霊のことを霊夢だとは伝えていなかったらしく、“初めまして”の言葉通り既に見知った屋敷の内部の構造を延々と霊夢に説明した。

余計な気を回されても霊夢のためにならないと判断したのだろう。だが幽々子がそんな配慮を霊夢に対してするかと言うと、そうとは思えなかったのが何とも言えない心境である。

兎にも角にも、ここでしっかりと仕事をこなさなければ霊夢は永遠にここから出られない。決意を新たにして、彼女にしては珍しくやる気を出したのであった。

 

 

結論から述べると、霊夢は逃げ出した。

その期間僅か一週間。三日坊主でないだけマシかとも思われるが、実際は五十歩百歩というのが正しいのだろう。

元々小町並みに怠けることを楽しんでいた霊夢。彼女がそう簡単に労働を受け入れるかと言うと、やはりそんなわけがないのだ。

できることなら休みたい。だが隙を見計らって寛いでいる時に限って、必ず幽々子か妖夢のどちらか一方に見付かってしまう。

そして罰として更に仕事を増やされる。霊夢としては溜まったものではなく、やはり同じようにサボって繰り返すのだ。

悪循環であった。

だから霊夢は逃げ出した。幽霊になっても仕事に忙殺されるとはどういうことか。死んで尚殺されるなんて真っ平である。

 

八日目のまだ空が薄暗いような早朝、妖夢が挨拶とその日の仕事を伝えるために霊夢の部屋を訪れた。

戸を控えめの音でこんこん、と叩く。

「お早うございます、妖夢です。本日も宜しくお願いします」

そうして一歩引き白い餅が出てくるのを待つ。

しかしその日は、いつまで経っても彼女が出てくる気配はなかった。

「あれー……おかしいな、もしかして寝坊かなぁ?」

最初の一週間は興奮してやけに早く起きていた、という可能性もある。始めたばかりで慣れない職場環境だ、そういったこともあるのかもしれない。

これからも続くようなら問題だが、今回は大目に見てやるかという気持ちが妖夢の中に芽生えていた。

更にもう少しだけ強く、中にいれば聞こえる程度には音が立つように叩く。

それでもやはり何かしらの反応が返ってくることはなかった。

「あのー……すいません、開けますよ? 私もあまり暇ではないので」

そう言って妖夢は失礼と思いながらも取っ手に手を掛ける。

鍵はないので入ろうと思えばいつでも入れたのだ。ただ、プライバシーの問題もあるのでそうそうそんなことはしない。第一妖夢自身がそういった傍若無人な行動を嫌っていた。

けれどこれでは仕事にならない。だから妖夢は心の中で謝りながら戸を開いた。

カーテンは既に開いているようで戸の向こうから光が射す。それなら起きてはいるのだろうと、逆光で目が眩みながらも妖夢は手で光を遮って中を見回した。

そこには誰もいなかった。

 

――そうして、霊夢が逃亡したことが発覚したのだ。

どこを探しても見つからない。誰かと喋っていて時間を忘れているというのも有り得ない。

そもそも妖夢より先に起床しているというのが考えられない。今までだって妖夢が起こしていたようなものだった。戸を叩いて初めて飛び起きるのだ。最初から寝坊助の兆候はあったのである。

その程度なら見逃してやろうと思っていた妖夢だったが、それはつまりそれ程勤勉でないことも示している。これまでの仕事の態度からもそれは窺えたし、これがもしいつまでも続くようであれば拳骨の一つでも喰らわせてやろうと考えていたのだ。

だから、妖夢も薄々は分かっていたのである。一応淡い期待を込めて捜索していたに過ぎなかった。

最終的に、幽々子の「どうせ逃げたのでしょう」という言葉が切っ掛けとなって全ての捜索活動は停止された。

 

「全く! 閻魔様の推薦だったからこそ快く受け入れたのに、一体あの態度は何だと言うの!? もー」

妖夢は憤慨していた。

生真面目一本の彼女である。仕事をサボり、あまつさえ逃亡するなどとは言語道断。切って捨てる程の価値すらないとまで言い切ってしまうだろう。

それとは対照的に幽々子は特に何とも感情を抱いていない様子で、ただ淡々と言った。

「まぁ……あの娘ならそうするだろうとは思ってたけど」

「え?」

主人の何か含めた物言いが引っ掛かり、妖夢は思わず聞き返す。

しかし幽々子は首を横に振って、それからはもう何も言うことはなかった。

何かを知っているのだろう、何を知っているのだろうと疑問に思いつつも、妖夢にはその答えが見出せない。本人に聞いたところで答えが返って来る筈もない。

結局主が気にしていない様子なのだから、もう放っておこうと妖夢は最後に決めた。

 

 

その後霊夢は、当てもなくただ彷徨い始めた。

風の吹いた先、とでも言えばいいだろうか。しかしそれも正しくはない。本当に霊夢は無意識に、ただただ身体が向かう方向へと進んで行ったのだ。

だから自分にもどこに行くのかは分からない。きっとどこへ着いても一緒のことだろう。そう割り切って自分の意識外の選択のままに身を任せていた。

ただ、どこか身体が惹かれているような感覚だけは頭に残っていた。

 

そうして、漸く無縁塚に至った。

そこには霊夢と同じような外見で、ふわふわと漂う魂が無数に浮いていた。

誰も彼もがそんなものだから、やはり川を渡りきるまでだったとはいえ生前の姿を留めていた霊夢は珍しいケースだったと言えよう。

さて、どうしようか、と霊夢は思い悩む。

ここにこのままいたとして、何も進展がないことは確かだ。

それにここにはかの美しき紫の花がある。彼岸の者たちが来ないにしても、白玉楼の者はその限りではない。

もし見付かった場合。そうなれば全てお終いだ。恐らくは閻魔に引き渡されて、そして……。

何をさせられるかは分からないが、今のように自由な行動は二度と出来なくなるだろう。それだけは嫌だ。

否、下手をすれば三途の川に放り込まれないとも言い切れない。そうなった場合はもっと酷い。

故意でも過失でも一度落ちれば皆同じ。未来永劫川の中を絶滅した生物たちと共に過ごすことになる。

勘弁願いたい。

事によってはすぐにでもここを出なくちゃ、と霊夢は心に決めた。

さて。

どうしようかな、とまた最初の問いに行き着いた。

 

しかしここの霊たちはとても楽しそうに見える。

子供がはしゃぐように宙を飛び回るもの。

恐らくは何もしていないのだろうが、輪になって集まるもの。

ぼうっと宙でふわふわと止まっているもの。

色々な霊が、色々な表情で好き勝手に行動している。

――けれどそれでも。

霊夢だけは浮いていた。

この感覚を何と言おうか。馴染めない、とはまた違った類のものである。

ただごわごわとした違和感が、ここに来た時から体を包み込んでいるのだ。

そこで霊夢ははたと気付く。

…………あぁ、そうだった。

生きている時から、こうだったんじゃない。

自分は、いつでも独りだったんだって。

 

外見の差異がなくなって、純粋な個性だけが露わになって、霊夢は初めて自分を見詰めることができた。

そうして目の前に突き付けられる事実。

結局、霊夢は何もかもを自分と一線を引いて区別してしまうのだ。

自分自身のことでさえも。

だからどこか他人事のように考えてしまう。まるで関係がないかのように区切ってしまう。

そういう思考をしている限り、霊夢はどこまでも孤独であった。

今までの付き合い、会話、関係など全てが茶番。仮初めのもの。

そう考えると、これまでなんて無駄な時間を過ごしていたのだろう。

そのことに気付くと心のどこかにぽっかりと穴が開いたような気がした。

おぞましい程の虚無感が体を覆う。

どうしようもなく居た堪れなくなって、霊夢はすぐさまそこから逃げ出すように飛んで行った。

 

 

「もう半年も前か……」

以前は人気、と言うよりも妖気があった、宴会も時たま開くそれなりに盛況であった神社。

それが今では寂れて久しい。掃除もしていないせいで境内には枯れ葉がたくさん落ちている。神社内部では埃の積もっている場所も多いだろう。

悪霊は既にどこかへ去り、鬼は人気のなくなった神社を嫌った。紫の大妖は元々博麗の巫女を特別視しているだけであり、霊夢個人が死んだところでどうということもなくただ次の候補を育てている最中であった。

故に、今ではここにいるのは少しばかりの過去の残滓とも言えよう。

真っ黒の服を身に纏い、金色の髪を風に靡かせながら人間の魔法使い、霧雨魔理沙は悲しげにその様子を見詰めた。

「大分ここも変わっちまったな……あの博麗神社が、だぜ。なかなか厳しいもんだなぁ、猫?」

吐き捨てるように、隣にいる赤髪の少女に問い掛ける。

「あたいは猫じゃなくてお燐だよ。全く、お姉さんはあんまり学習しないみたいだねぇ」

手慣れた様子で言葉を返す。お約束のやり取りのようだ。

その時不意に風が吹き、辺りに砂埃が舞った。

魔理沙は咄嗟に顔を庇う。

お燐と自称した少女は少し反応が遅れたようで、顔全体に直撃を受ける。

風が止んだ頃に、魔理沙は砂にまみれた服を払いながら言った。

「ぶーっ、ぺっぺ……掃除もしてないから砂が舞う舞う。……おい、大丈夫か?」

お燐の方を見遣る。

目に入ってしまったようで、蹲って両手で顔を覆っていた。

 

既に蜘蛛の巣がところどころに張られているそこは、どこかひんやりとした雰囲気を漂わせていた。

霊夢が死んでしまってからは恐らく換気もしていないのだろう。例えるなら空気が死んでいるような、そんな感じがした。

「うへー、埃臭ぇ」

「文句言うならお帰りよ。ここは今や私の家さ。そんなことを言われるのは心外だよ」

つんとそっぽを向く。

魔理沙は悪い悪い、と頭をぽりぽり掻いて謝った。

「……にしても今はお前一人か。大丈夫なのか? あいつももういないし餌とかはどうしてるんだ」

魔理沙が心配するのも当然であった。

お燐こと火焔猫燐は元来地底の地霊殿の主、古明地さとりのペットである。

しかし以前騒ぎを起こした首謀者の一人だったため、霊夢の下で監視されることになったのだ。

とは言ってもやはり他人のペットだ。行動を極端に制限することはなかったし、霊夢はいつでも好きな時に地底へ戻らせてやっていた。

監視とは名ばかりで、ただ餌を上げていただけのようなものだ。

……不思議なのは、霊夢が死んでからというものお燐が一度も地底へ帰らないことであった。ただの一度も、である。

そのことを知っている辺り、魔理沙も少しは気にしているのかもしれない。

「餌なんてどこででも手に入るさ。仮にもあたいは地獄猫。舐めて貰っちゃあ困るねぇ」

別に舐めてはいないけどな、と魔理沙は一人ごちる。

そのまま二人は黙って、奥の茶の間へと進んで行った。

 

以前、霊夢と共に座して談笑していた茶の間。

一体何人の人妖がここに集まったのだろうか。座布団の上で茶を飲んでいたころが懐かしい。

魔理沙の胸に寂しさが込み上げてくる。

「なぁ燐。ちょっと……霊夢の仏壇、拝ませてくれないか。」

それらを振り切るように無理に魔理沙は笑ってお燐に問い掛ける。

お燐もそれを分かっているようで、勿論、と答えてすぐ隣にある仏間へと案内した。

何故か立ち入り禁止、と書かれた紙が貼られている襖。当然の如くお燐は無視してそこを開けた。

その奥には、立派な仏壇と霊夢の遺影が飾られていた。

 

遺影の撮影者は新聞屋の鴉天狗。霊夢の訃報を聞いて、少ししんみりとした表情で黙って過去に撮ったその写真を渡し、そしてそのままどこかへと飛び去ってしまった。

お燐はそれを受け取ったが、彼女と霊夢がどういう関係にあったかをお燐は知らない。だから不思議に思いながらも彼女を追うことはできず、ただ手元の写真を見て二人の関係を推測するしかなかった。

そこには少女の笑顔が写っていた。

……とても自然な、笑顔であった。

 

魔理沙にとっては見慣れた表情。

しかし、もう二度と見ることはできない表情。

仏壇の前にまで歩み寄り、そして正座をする。

お燐もそれに倣い魔理沙の横に並んだ。

「餅を喉に詰まらせて死んだんだっけ、お前。……全く、馬鹿だよなー。本当馬鹿だ。そんな理由で死ぬなんて、全く笑っちまうぜ」

魔理沙は笑う。

乾いた笑いだった。

お燐は魔理沙の過剰なまでのカラ元気を聞いていられなくなり、代わりに自分が虚勢を張ることにした。

「なんならあたいの車に乗せてやって行ったのに。全く、お姉さんもさっさと逝っちまうなんて非道いお人だよ」

芝居がかった身振りを加えて言う。

実際にやりはしないが、それでも本気なのだ。実行しないだけで覚悟はある。地霊殿の面々、霊夢に続いて彼女と共にいた時間が長い彼女だからこそそう言える。

猫でも一応の恩義は感じているらしい。但し彼女流の。

……しかし。

「ばーか。お前が運ぶとあいつは未来永劫転生できなくなるだろ。私がさせないぜ」

「あ痛」

魔理沙はこつんと、お燐の頭を小突いた。

地獄の輪禍、火車のお燐。彼女の持っている火車には、悪事を犯した亡者が放り込まれる。

それに載せようと彼女は言ったのだ。

そうすれば、地獄でずっと一緒にいられるから。

冗談と思いつつも、本当にやりかねないという危機感と本当に霊夢のことが好きだったんだなぁという好意とが頭の中で交錯する。

結局、お燐も魔理沙も同じなのだ。

霊夢のことが大好きだということに変わりはない。

だからお燐はずっと博麗神社を守っていたし、魔理沙もこうして霊夢に顔を見せに来る。

他の者は四ヶ月を過ぎもう来なくなっていた。

二人とも仏壇の前では涙を見せなかった。否、見せたくなかったと言った方が正しいのかもしれない。

霊夢の前では、自分たちが泣くことなんてなかったから。

だからこうして気丈に振る舞い、元気な自分たちの姿を見せびらかすように冗談を口にし合ってばかりいた。

痛々しいまでに。

それでも、だ。

「――なぁ、どうしてなんだろうな。私とお前とじゃ、そんなに年も違わない。これからもずっと、同じように一緒に過ごせるって思ってたんだ。少なくとも私は、そう思ってた。

なのに、だ。……お前は私を置いて逝っちまった。冗談みたいな理由で、簡単に、お前は……っ!」

やはり。

堪え切れない思いが涙となり、言葉となり、魔理沙の感情に圧力を加えた。

お燐もそれまでは堪えていたのに、魔理沙の嗚咽が引き金となって爆発してしまった。

遣る瀬無い。

どうして、どうして霊夢だけが。

あいつはまだ若かったのに。あいつはまだ生きていられたのに。あいつは私程悪いことなんて、そうそうしていない筈なのに。

なのに、どうして。

「なぁ、どうしてなんだよっ……霊夢……!」

 

 

「我を呼ぶのは何処の人ぞ」

 

 

頭の中で響く声。

はっとなって顔を上げる。

そこには。

「……なーんつって。私にゃ似合わないわね」

頬をポリポリと掻きながら、少し恥ずかしげに笑う、見紛うことなき博麗霊夢がいた。

見覚えのあるような巫女服ではなく、ゆったりと余裕ができるように白布を上半身、赤布を下半身に一枚ずつ身体に纏っているだけだったが。

その声、その顔、その表情は、確かに魔理沙の知っている霊夢であった。

「――れ、いむ――?」

頭では理解し切れない。何が起こっているのか咀嚼できない。

隣にいるお燐も同じように、口をぽかんと開きながら唖然としている。

そして当の霊夢は、魔理沙の問いに答えるようにしっかりと頷いた。

それで金縛りが解けたかのように、二人は霊夢に詰め寄る。

「な、な、な、どどどどういうことだよ!? 説明しろ霊夢っ!」

「そうだよそうだよ一体どうなってんのさ?! 確かに死んでた、地獄の火車のあたいが言うんだから間違いない! なのにどうして生き返ってるのさ!」

怒濤の口撃である。

霊夢は少し気押されながら、両手で二人を制して言った。

「ちょ、ちょっとあんたたち興奮し過ぎよ! 落ち着きなさい!」

「これが落ち着いていられるか! だって霊夢が……霊夢……うわあああああああん!」

「びええええぇぇぇぇ!! おねーさーん! おねーえさーん!!」

二人とも同時に崩れ落ちるように泣き始めた。

そして二人は霊夢に抱きつく。

叫ぶ叫ぶ。

阿鼻叫喚の地獄絵図である。

耳元で叫ばれてはたまらない。うるさい、と二人を引き剥がし、それでも泣き止むことのない魔女と猫を見詰める。

霊夢は頭を押さえ、ややこしい奴らが揃っていたもんだ、と聞こえない程度に呟く。

普段であれば持ち前の地獄耳を発揮していただろうが、如何せん自分たちの泣く声でそれは掻き消されてしまった。

「ほれ。何びーびー泣いてんのよ。二人とも涙と鼻水で顔ぐちゃぐちゃよ、汚いから拭きなさい」

そんな二人を急かすように、霊夢は平時と変わらぬ調子で言う。

しかし逆に二人の表情はもっともっと崩れ、泣き、鼻水を垂らし、

そして笑っていた。

 

 

「……あぁ、驚いたぜ、心底驚いた。何だってお前はここにいるんだ?」

厚く腫れぼったい眼で魔理沙は霊夢を見る。

少しは落ち着いたようである。

ずっと掃除をしていなかった畳の上をごろごろと暴れていたせいか、服は埃にまみれていた。

「え? だってここは私の家よ。いちゃおかしいことでもある?」

対する霊夢は呑気そうに答えた。

婆臭く音を立てながらお茶を啜っている。

二人が喚いている間に淹れたのだ。

霊夢の言葉にお燐が耳をぴくりとさせる。

「十分におかしいよ! だってお姉さん、一回死んだでしょ!? 戻って来れないこともないけど、そのままの姿で帰ってくるなんてそんなの聞いたことないよ!」

「そういやあんた人型のままね。珍し」

聞いていない。

お燐は諦めふぅと息を吐き、無駄に入っていた肩の力を抜いた。

いつだって霊夢はそうだった。相手が幾ら怒っていても、自らのペースを乱すことはない。

逆に怒っている方が脱力してしまうのだ。筋金入りである。

「あーあー分かった分かった。分かったから今までのことを全て話せ。私たちにゃお前の考えてることがさっぱり分からないんだよ」

魔理沙が手をひらひらと振って諦めたように言う。

霊夢はきょとんとした顔で魔理沙たちを見た。

それならそうと早く言えば良いのに、と小さく呟く。

「そうね、今までのことって言うと――」

 

 

――あの後、霊夢は自身の縁の地を見て回っていた。

例えば紅魔館。洋風のとんでもなく広い紅き屋敷を、常々探検したいと思っていた。

メイド妖精にさえ気付かれなければほぼ危険はなかったし、霊夢も自由に空が飛べること自体は変わっていないので思う存分隅々まで飛び回った。

思ったより屋敷の中は広い。疲れて曲がり角で休もうとしたら誰かの足音が聞こえて来たので慌てて逃げ出した。

窓から外へ出てそーっとその人物を見れば、見覚えのある銀色のショートカット。

誰も見ていなくても常に瀟洒な彼女は辺りをきょろきょろと見回して、変ねぇ、と一つ呟くとまた元来た道へと戻って行った。

霊夢のいる気配でも察知したのだろうか。

もしそうでなくともこれ以上は危険だと察した霊夢は、また別の場所へと移動した。

 

 

次に入ったのは永遠亭。

妖怪兎と月の民。

これまでに二回彼女たちに振り回されてきたのだが、その記憶は霊夢には残っていなかった。

ただ、何かと大事に巻き込まれてきたので他より少しばかり強い繋がりがあるとだけ、霊夢の心には刻まれていたのだ。

先程の紅魔館とはまるで正反対で、昔の日本のあるべき姿を体現したかの様な大きな屋敷であった。

やはり元々がそう言う場所に住んでいたからか、永遠亭を見ただけで幾分か霊夢の心は安らいだ。

……ここには月の頭脳、まさに天才そのものである八意永琳が住んでいる。

天才である彼女なら、部外者である彼女なら、もしかしたら自分に何をすべきか最善の道を教えてくれるかもしれない。

そんなことをふと考えたが、すぐに首を横に振って思い直す。

きっと彼女ならそれより先に、自分で考えて答えを見つけろと言うだろう。

如何にも年長者が言いそうな台詞だ。

否、それどころか実験対象にされる危険性も含めて考えねばならない。

考えるだけで背筋が寒くなる。

妖怪兎たちに見つかっても面倒くさい。霊夢はそそくさとその場を後にした。

 

 

その次に霊夢は地底まで足を運んだ。

地底のそこは暗く湿っている。霊体となった今ではとても快適な環境だ。

他の妖怪たちも自分たちが迫害されたからか、見ない顔、いわゆる新参には余り話しかけないようにしているらしい。お陰で霊夢も伸び伸びと動き回ることができた。

場合によってはここに住んでも悪くはないだろう。

しかし、そうやっていつまでも引き延ばしていて良いのだろうか。今こそが自らの行く末を決めるべき時なのではないのだろうか。霊夢は珍しくそんなことを考えていた。

閻魔に言われた生前の罪も含めて、自らのしたことに後悔はない。しかし、死んでしまった今、けじめはつけなければいけないとも霊夢は思っていた。

死んだことによりあらゆる柵から解き放たれた今。無縁塚にて自らを見詰め直した今。生前の霊夢とは考え方が劇的に変わっていた。

一皮剥けた、とでも言うのだろうか。風の吹くまま気の向くまま、周囲に流されるままに行動していた霊夢が自ら行動を起こすにまで至ったのだ。

以前の厭世的な感情は今やない。

……しかし。

未だ不安定であることには、何ら変わりはなかった。

地霊殿には向かわなかった。心の内を読むことのできる地霊殿の主古明地さとりには、自分が誰なのか知られてしまうから。

最初は彼岸に関係する者たちから身を隠していた筈なのに、今では誰にも素性を知られないように霊夢は気を払っていた。

いつの間にか目的がすり替わっていたのだ。

実際すり替わったところで、霊夢としてはやることは全く同じなのだから別段変わったことはないのだが。

……まぁ、本当の理由は。

それより何より、旧都の異常に陽気な妖怪共を直視できなかったからなのだが。

 

 

どうせ色々回っているのだから、と霊夢は自らの住居である博麗神社を次の行き先に定めた。

……そこで見たのは、空っぽの家。

家主であり元来唯一の住居人である彼女が死んでしまったのだから、ある意味当然でもあった。

あの後はどうしたのだろうか。自分の遺体はきちんと葬られたのだろうか。そんな思いが頭を過る。

――ふと。

過去に、自分がここで多くの人妖と共に過ごしていたような記憶が一瞬蘇る。

錯覚に思えたので、錯覚と思うことにした。

映姫の言うような大罪人であれば、そんな風に自分が人気者なわけがない。

何かの間違いなのだろう。現にこうして廃墟と化した神社があるじゃないか。

少し寂しい思いを抱きつつ、霊夢はその場を後にした。

 

――ひょい、と。

黒い猫が縁の下から顔を覗かせたのにも気付かずに。

 

 

流石に白玉楼まで回ることはできなかった。あまりにも危険過ぎる。

幾ら自分の素性が知れていないとはいえ相手はその道のプロフェッショナルだ。幽霊が区別できないとも思えない。

万が一見付かったとしたらその時が本当の最期なのだろう。

せめて最期くらいは自分で決めたいわねぇ、と霊夢は思う。

死んで尚最期を語るとは、思ってもみなかったが。

 

 

結局彼女の心の空洞が満たされることはなかった。

自分は孤独だ、などといった高尚な言葉はもう出す気力すら失っている。色々見て回って来て、なんだか疲れてしまったのだ。

もうどうでもいいなぁ、としか思えなくなっていた。

 

 

――そして最後に彼女が向かったのは妖怪の山。

他の場所は記憶が殆どなくなりかけているのに目印らしい目印がなくてなかなか辿り着くことができなかった。

その点この山は大きくどこからでもその姿が見えるので行くのだけは簡単であった。

霊夢はここ妖怪の山を、自らの最期の場所にしようと考えていた。

裁かれない。天国に行けない。地獄すらいけない。生きてはいない。死ぬことも不可能。ならばせめて、妖怪に食べられようではないか、と。

喰い意地の張った連中だ。餅の振りでもしていれば誰か呑みこんでくれるに違いない。

霊夢はそうやって、ただふわふわと漂っているこの不安定感を消し去りたかったのだ。

いつかひょんなことでぽっと消えてしまいそうで。いつかひょんなことでぱっと壊れてしまいそうで。

それならば、いっそ妖怪の腹の中で永遠の眠りに就こうと考えた。

今彼女は大きな木の下で休息を取っている。

既に夕暮れ時。そろそろ妖怪たちが盛んに活動を始める頃だろう。

そうなれば何れは自分が見付かり、そして目論見通りになる筈だ。

――どうせなら、痛くない方が良いなぁ、と思いつつ霊夢は目を閉じた。

 

「――ん? なんだお前?」

声がした。

聞き覚えのある声だった。

 

 

人は大いなる脅威を目の当たりにすると、足が竦み体は震え歯をガチガチと鳴らしながら目の前のそれに恐怖するという。

実際にそこまで行くことは少ないが、大抵の者はただただ呆然とするしかなくなるらしい。

簡単に言えば判断力が鈍った状態になるということだ。

“彼女”は向かい合う相手をそういった状態にさせるに十分足る存在だった。

威信が服を纏った、そんな畏怖されるべき対象。

全身から脅威を迸らせ、対峙する者は畏れを抱かざるを得なくなり、あらゆる者を従わせるという。

相手の虚を突き一口で呑み込むその様はまさに蛇。

かくしてその者の正体は、山坂と湖の権化八坂神奈子であった。

……が、いつものような御柱や注連縄は身に着けておらず、代わりに顔を隠すように白い布を頭から被っていた。

どこからどう見ても只の変質者である。

霊夢も神奈子と分かるまでは正直関わりたくはなかった。

「……失礼なことを平然と思うのね。これは変装よ。山の神が人里に出入りしてると知れたら大問題じゃない」

神奈子はジト目で霊夢を睨んだ。

神様には神様なりの事情があるのだろう。

成程考えてみれば確かにそうである。今霊夢のいるところは山の麓。最近幻想郷で急激に広まった信仰対象の神が、下々の者と同じ場所にいるのでは何かと問題も起きやすい。神奈子の考え方は実に合理的であった。

しかし、変装と称して頭から白い布を被ってしまっては逆に目立ってしまうような気がしないでもないが。

……そんな瑣末な問題は霊夢にとってはどうでも良いのであった。

それよりもっと重要なことがある。

――何故私の思っていることが分かった?

そう。

神奈子は今、霊夢の心中の言葉に反応したのだ。

元より口がないので会話することはできない。だから無意識に喋ってしまっていた、なんて馬鹿みたいな話でもない。

なら何故?

「そのままよ。私は人の心を読める。神通力って言葉、知らない?」

神通力。

神に通じる力。

通じるどころではない。神そのものだ。

「私ゃ神様だよ。人の心を読むどころか、それこそ何だって……む?」

神奈子は突然口を動かすのを止めた。

そして霊夢を覗き込むように凝視する。

「んー……どっかで見た覚えがあるなあ」

小さくぽつりと呟いた。

霊夢は少しどきりとした。

しかしすぐに、否、分かる筈がない、と考え直した。

何しろこの外見だ。見る者が見れば少しの違いはあるのかもしれないが、少なくとも霊夢自身には見分けは付かない。

また、この姿では初対面である。当てられる筈もない。

そんなことを思っていると、神奈子はまたもや突然に手をぽんと叩いて、

「分かった。お前、博麗の巫女だろ」

当てた。

当てられた。

神通力とかもうそういったレベルではない。意味が分からない。

バレてはいけないのに。逃げ出したことが知られてしまうのに。

そうなれば捕まって、ここで死ぬことすらできなくなるのに。

本当にそうなのかどうかはさて置き、霊夢は錯乱し始めた。

直後逃げ出そうとするのを神奈子がむんずと捕まえて止める。

「ちょっと待ちな! 私は何もしないよ、落ち着きなって!」

宥めるように神奈子は叫ぶ。

しかし霊夢は言うことを聞かず、尚も暴れ続けた。

 

結局霊夢が諦めたのは数分後。

羽交い締めにされればもう逃げられないことは分かっていたが、それでもどうしても霊夢は逃げ出したかったのである。

――これはおかしい。

本来の霊夢であればこんな風に悪足掻きなどしない。死んでも邪魔な相手は実力を行使して退かすような奴だったから尚更だ。

何かあったのだ、と、神奈子は既に看破していた。

「紅白にしては珍しい。相手から逃げ出すなどらしくもない。……何があった? 申してみよ」

そう尋ねる。

しかし返ってくるのは無言のみ。

否、初めからそうなのだが。

「私を信じろ。悪いようにはしない。さぁ」

それでも神奈子は怯まず説得する。

全てを受け入れることのできる広い懐を持っているのが八坂の神である。

だから話してみろ、楽にしてやるからと神奈子は誘っているのだ。

その誘いは、今の霊夢にとって至極甘美なものだった。

この神なら。

神奈子ならきっと教えてくれる。

自分がどうすれば良いか、どんな選択をすれば良いのかを。

この期に及んで尚他人に身を委ねようする霊夢にとっては、とても心地の良い言葉だった。

 

……そうして、霊夢が死んでからのことを全て話し終えると、

「お前が悪い」

ばっさりと斬り捨てた。

『ちょ……ど、どういうことよ! 話が違うじゃない!』

「話なぞしておらぬ。私はただ話を聞いただけだ」

今や霊夢は神奈子が心を読めるのを利用して普通に会話をしていた。

だから促されるままに話したのだ。自分が罪人であること、罪が重すぎてどこにも行けないこと、罪を軽くするための奉仕労働から逃げ出したこと。

そして、その後の放浪の中で自分の内には全て虚像しかなかったことに気付いたことまで。

全部話した結果がこれだ。もう脱力するしかない。

山に来る前より更にどうでもよくなってしまった。

「悪い悪いと思っているのならそれを償えば良い。何も悪くないと思っているのなら全て撥ねつければ良い。何をするにも中途半端過ぎるんだよ。どっちか決めて突き通せ」

『…………う』

小さく唸る。

正論であった。

生前のマイペースさなど見る影もない。映姫に叱られて気弱になったのか、今の霊夢はころころと自らの意見を変えてしまう。

否、意見がすぐに変わるのは以前から同じだったが、その原因は自らの内にあった。だから主体性がなくなった、の方が正しいか。

自覚はあった。だから余計耳が痛い。

神奈子は悠然とした態度で続ける。

「まぁそれはまだ良いよ。一応分社も建てて貰ったしね、恩もある。考えを改めるなら閻魔から逃れる手伝いをしてやっても良い……が、ただ」

『……ただ?』

予想外にもあっさりとしていた。

その上何か考えもあるらしい。神奈子に出会ったことが、この上ない僥倖にも思える。

が、ただ。

「お前、何か勘違いしとりゃせんか?」

不機嫌そうな表情になって言う。

それまで陽気であった空気が一変、冷たく鋭い氷の針となる。

『……何がよ』

「分からぬか? 問い返すということはそうなのだろうが。

……無知は罪であるなぁ。真実、お主は罪人よの」

くつくつと笑い出す。

急に古めかしい口調で話し出した。

ここからは真に神様という立場で話す、という意味なのだろう。

どちらにしろ霊夢の対応は変わらないわけだが。

「一つ話をしよう。記憶、というものは脳には依存しない。お主もそうであろ? そうでなければ驚きだ。

……ならば、どこにそれは蓄積されているか。分かるか?」

『分からないわよ。回りくどいわね、さっさと話して』

苛立った様子で霊夢は答える。

神奈子は溜息を吐いた。

「全く堪え性のない奴だな……少しは考えろ、博麗よ。

お主が自ら気付かねば、お主は本当の罪人だよ」

冷たく言い放つ。

一方霊夢は神奈子の言っていることが全く理解できていなかった。

記憶がどこに放り込まれていようが知ったことではない。第一今の霊夢に記憶など殆ど残っていないのだ。考えたところで何がどう変わると言うのか。

神奈子の真意が掴めない。

「……分からないか、そうか。

まぁ、生きている時からそのような態度だったからな。分からないのも無理はない。

……これは大サービスだ。大量出血で死んでしまう程だぞ。感謝しろ」

勝手に自己完結した。

しかもいきなり感謝を求めてくるのである。意味が分からない。

霊夢が困惑している内に神奈子はまた口を開いて続けた。

「――先程お主は無縁塚にて悟ったようなことを言ったな。その内容をもう一度申せ」

『……悟った、ってわけじゃないけど。言えってんなら何度だって言ってやるわ。

私はいつでも孤独だった。最初っから分かり切ってたことよ。それを再確認したに過ぎない』

不貞腐れたように霊夢は言い捨てる。

神奈子は眉をぴくりと動かした。

「それがいかぬ。だから勘違いしてはおらぬか、と問うたのじゃ。再度考えよ」

『だから何も勘違いなんかしてない! 私はいつでも独りだったし、常に周りから浮いてたのよ。そんなこと知ってるくせに!』

「戯け。何が勘違いしておらぬ、だ。何が独りか。小娘如きが驕るな馬鹿垂れ」

突然の暴言。

霊夢は頭に来て叫んだ。

『驕ってなんかない! あんたなんかに何が分かるって言うの!? 諏訪子とか早苗とかに囲まれて、いっつも幸せそうに家族ごっこしちゃってさ! 馬鹿じゃないの!?』

「はん。己が姿を己のみで見ることができると言うか。景色というものは一歩離れた方がより広きに亘って見ることができよう? 莫迦はお前だ。いい加減にしろ」

『っ……な、なら言ってみなさいよ。私が何を勘違いしてるっていうのか、言ってみなさいよ!』

霊夢は激昂する。

彼女は熱しやすく冷めやすい。それが彼女の長所であり短所だと、神奈子はそう思っている。

ストレートに感情をぶつけてくる。どこぞの皮肉屋やら戯言ばかりを並べる者より何とやりやすいことか。

だから神奈子は敢えて霊夢を挑発したのだ。

「ならばこれが最後のヒントだ! これで気付かぬのなら畜生道にでもどこにでも堕ちてしまえ!

良いか――――お主はいつ、独りであったというのだ!!」

声を張り上げる。

突然の大声に驚いたのか、霊夢はびくりと小さく跳ねた。

面食らいながら、それでも言葉を続ける。

『い……いつ、って、そりゃ、いつだって』

「自惚れるな!」

一喝。

びくり、とまた霊夢の身体が跳ねる。

「高が童の考えなど知れておるわ。底が浅いことよ、博麗霊夢。……受け入れられぬのならば、一つ答えよ。

お前は今まで幾度人に助けられてきた?

答えられぬだろう? 幾度も、そう幾度も! お主は数え切れない程人に助けられ今日までを過ごしてきたのだ!

己が如何に未熟であったかを思い知れ! 人なんてな―― 一人で生きていくことなんか、出来る筈がないんだよ!」

 

一陣の風が吹いた。

霊夢の蟠りが風に乗ってどこかへと飛んで行く。

――そうだ。私は、いつだって誰かと一緒にいた。

必ず傍に誰かがいた。それは一人の時もあるし、宴会ができるような大人数がいた時もあった。

とても、居心地が良かった。

気付いた今だからこそ分かる。軽口を言い合って、お茶を飲んで世間話をして、時には酒を飲んで下らないことを喋って。

そんなどうでも良いような毎日が、とても大好きだった。

異変を解決するのは面倒だったけど、その度知り合いが増えて神社に来る者も増える。それが妖怪でなく参拝客であればどんなに良いことだろうかとボヤくこともよくあったが、人妖入り乱れて喋り合う毎日が、霊夢は何よりも好きだった。

それでどうして、独りぼっちなどと言えようか?

 

……そして、霊夢は夢から覚めたような心地になった。

なんて、なんて新しい境地なのだろう。

自分の長年固く冷え込んだ思い込みが、少しずつじわりと氷解して行くのが分かる。

「……どうやら」

「――ええ。私は――とんでもない、大きな勘違いをしていたみたい」

霊夢は少し視線を下げ、自らの両手を見詰める。

今まで出会った何人もの人妖の、温もりがそこに確かにあった。

なんという温かさだろうか。自分は今までこんな温かい繋がりに包まれていたのだ。

自然と涙が溢れてくる。

「うむ。それだけ分かれば今は上出来よ」

神奈子は微笑む。

そしてまるで聖母のように、霊夢をひしと抱き締めた。

 

「さて、ここでもう一つお主は気付いたことがあると思うが」

ふと神奈子は口を開いた。

霊夢は首を傾げるような動作をする。

「……分かっとらんか? 察しが悪いな。まぁ、こんなことぐらいは教えてやるとするか。

お主、記憶が戻っただろ」

その言葉ではっと気付く。

すっかり抜け落ちていた過去の記憶が、全て元通り頭の中に戻っていたのだ。

名前も容姿も性格も、いつどこで出会って一緒に何をやったかも全て思い出せる。

無論思い出せなければ先程のように“気付く”ことはできなかったわけだが、霊夢はそのことに全く気付いていなかった。だからまるで今全ての記憶がふっと蘇ったような奇妙な感覚に襲われたわけだ。

「記憶は魂に刻まれる。死ねば時間が経つ程にそれは薄れてしまうが、お前は“気付”きそれを思い出すことができた。より克明に心に刻むことができたってわけだ。

だからそれはお前の頑張った結果。よくぞ思い出した。褒めてつかわすぞ」

何だか分からないが取り敢えずありがとと返した。

何はともあれすっぽりと抜け落ちていた記憶を取り戻せたのだ。これは大きな進歩である。やはり元々あるものがあるのとないのでは全く違うのだ。

喜ぶべきことである。

……と、そこで霊夢は自分が死んでからのことを思い返した。

何を考えていたのだろう私は。私らしくもない。しかも一部始終を神奈子に話した上に泣き付いてしまった。

ああ恥ずかしい。

すっかり赤面して、霊夢は縮こまって何も言えなくなってしまった。

 

霊夢が恥ずかしさの余り何も考えられなくなってしまってから更に数分後。

漸く霊夢が落ち着いてきたのを確認してから、さてと、と神奈子は呟いた。

「私としちゃお前の罪はそれくらいなもんなんだけどねえ。他人との繋がりに気付かないことはこの上ない罪悪だよ。でもお前はそれに気付いた。だから私はお前を許す。

……でもねぇ。地獄の閻魔、か。あいつらちーっとばかし規律にうるさいから困ったもんだよ」

独り言のようにぶつぶつと呟く。

取り敢えず神奈子の中では霊夢は既に罪を雪いだことになっているらしい。映姫の言っていることとはまるで違う。

「私たちのいたところもなんだけどね、どうも閻魔ってやつは小回りが利かない。口を開けば規律だ規則だたまったもんじゃない。

こっちの閻魔はどうかとついこの間挨拶回りに行ったが、あいつは更にその上を行くね。神に罪を説くとは何事かー、って怒鳴ってやったけどな」

そして笑う。

霊夢もつられて笑ってしまった。

閻魔様というのはどこの世界でも同じようなものらしい。罪を裁く者なのだからそのぐらいが丁度良いのかもしれないが、説教を聞かされている方はそんな悠長なことはとても言っていられない。

ましてや心当たりがあることばかりなのだから尚更である。

「まぁそんなわけで私も閻魔にはちーっとばかし不満があるわけさ。

……そこでまぁ、お前を利用するような形になってしまうんだけど……一つ、あいつらに目に物見せてやりたくってね」

悪戯っぽく神奈子は言う。

何を言いたいのかさっぱり分からなかった。

そのことを神奈子も察したようでつまりはだな、と更に続けた。

「そこで霊夢、お前には上手く立ち回って奴らの手から逃れて貰いたい」

『……そうするとどうにかなるの?』

「なるさ。何せどこにも行けなくなるような大悪党だ。それを取り逃せばあいつらは赤っ恥をかくと言う寸法よ」

霊夢は納得した。

神奈子には閻魔には好い感情は抱いていない。どころか批判めいたことまで口にしている。

過去に喧嘩でもしたのだろうか、恐らく閻魔との間に何かの確執があるのだろう。だからこれは映姫に対しての、ではなく十王全員に対する仕返しと言うわけだ。

……仕返しと言うには、少しばかりやり過ぎな気がしないでもないが。

『それで……何をすればいいの? 私には何の策もないのだけれど』

「うむ、そこは何も問題はない。私に考えがあると言っただろう。至極簡単なことである」

『……それは?』

「神になれば良い。単純なことよ」

『…………はぁ?』

霊夢は素っ頓狂な声を上げた。

無理もない。いきなりとんでもないことを言い出したのだ。

なんだそんな簡単なこと、とでも言うかのように神になれと言ったのだ。ふざけているとすら思える。

「閻魔は裁く者である。ならば閻魔の裁くことのできる対象の内から逃れれば良い。

神が閻魔に裁かれるか? つまりはそういうことよの」

まぁ、そりゃそうなんだろうけど。

子供の屁理屈レベルの話なんじゃないだろうか、それ。

第一神様になろうって言ってそんな簡単になれるものなのだろうかとも思う。

まるで冗談だ。

しかし神奈子は至極真面目な表情で続けた。

「巫女が神となって何が不都合か? 伊豆能売のような例もあろう。何もおかしくはない。

第一人は神になれる。前例もある。またお前は既に人間から一歩遠のいた位置にいるのだ。全ての柵から解き放たれたらば、既に人間の域を脱しておる。

巫女と言うよりは神に近い存在であると私は思うぞ? さぁ、他に何の不都合があると言うのだ。言うてみぃ」

「……まぁ、私が世間一般の人間とは、少し違うってことだけは認めるけど」

それでも神奈子の言葉は暴論に聞こえた。

そんな霊夢の心配を余所に、神奈子は豪快に叫ぶ。

「大丈夫大丈夫! 全て私に任せておきなさい!

そうと決まれば……まずは準備だな。守矢神社に戻るぞ。ついて来い」

言うが早いが、神奈子は鼻歌を歌いながら勝手に頂上に向かって歩き始めてしまった。

慌てて霊夢もそれに続く。

何だか妙な話になったものだなぁ、と霊夢は早くも後悔し始めていた。

 

『あ、そうだ。

あんた閻魔に何されたの? そこまでして仕返しをしたくなるってのもなかなかない話じゃない』

霊夢はふと疑問に思ったことを口にした。

しかし神奈子は予想外にも狼狽して視線を横に逸らす。

「いや、何、そう言う程のことでもない。聞き流せ」

『言いなさいよ。言わないと手伝わない』

顔を突き合わせて迫る。

霊夢は飽くまでも譲らない姿勢だったので、仕方なく神奈子は答えた。

「……いやな、ここの閻魔――映姫だっけ? あいつにゃ恨みはないんだが……私の知り合いの閻魔がな、昔私のプリンを食べたのよ」

『…………はぁ?』

また思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。

「分かるだろう!? 乙女のスイーツは何物にも代え難い至宝! なのに彼奴は私が大切に取っておいたプリンを、私が厠に行った隙に全て食べてしまったのだぞ!

これが仕返しをせでいられるか!!」

『あんた乙女って柄かよ』

……下らねぇ。

しかも映姫は確実にとばっちりを喰らうであろう。今からそれを考えると逆に憐れんでさえしてしまう。

そしてそんな下らないことの片棒を担がなければいけないことが、酷く情けなく思える霊夢であった。

 

そうして、山を登っている道中。

ふと立ち止まり、神奈子の方へと体を向ける。

『……ねぇ』

「ん? 何だ」

『何で、私が博麗霊夢だって分かったの?』

霊夢は不思議そうに首を傾げるように体を傾けて聞いた。

霊夢が錯乱した原因はそこにあった。何故知られる筈のない自分の正体を、彼女は看破してしまったのか。不思議でならない。

神奈子は鼻をふんと鳴らして事も無げに答えた。

「魂ってのはね、一つ一つ形が違うんだよ。私でも、早苗も、諏訪子だって皆皆形は違う。

一度会えばそいつの形は分かるのさ。だから分かった。少し時間は掛かったけど、これは博麗の巫女の形だな、ってね。

……まぁ、お前さんのは少しばかり他の奴らと違うところが多いから余計、ね」

『…………ふーん』

そんなものなのだろうか。

そんなものなのだろう。

からくりを知れば、何と言うこともない。知り合いの顔を見掛けたってレベルの話だ。

納得はしたが、釈然としない表情で霊夢はまた黙った。

 

 

そうやって適当に駄弁っていると、感覚的には程なくして神社に着いた。

守矢神社。一人の風祝と二柱の神が住んでいる、幻想郷では比較的新しい神社である。

山奥なので人間が参拝に来ることはあまりないが、それでも参拝客の数は博麗神社より多いというから霊夢としては何とも言えない感情を抱いていた。

鳥居を潜り、石畳の上を音を鳴らして歩き、そうして玄関の中へと入る。

その玄関も広い。博麗神社の三倍はある。

神奈子はただいまーとよく通る声で言いながら、靴を脱ぎ中へと進んで行った。

どこにでもいる普通の一家庭臭がする。

少し戸惑いながらも、霊夢も神奈子の後に続いていった。

 

そうして神奈子は更に奥へと進んで行き、守矢神社の本殿へと入った。

「……なんだ神奈子か。何の用?」

幼い少女の声がする。

神奈子と霊夢には背を向けたままであった。

「何、餅は餅屋、神は神様、ってね。けれど私一人じゃ力不足だ。そこで皆に協力して貰おうかな、と」

「へぇ。それは面白そうだ。……そこの巫女の話なの?」

霊夢には全く要領を得ない会話である。

説明をしなくても通じる辺りが神っぽい。

「勿論。……よく分かったな? 見てすらいないだろう」

「気配だけで分かるよそれくらい。実際に目で見なきゃ分からないのは神奈子ぐらいなもんさ」

「あいや手厳しい。だがそれならもう私の言いたいことも分かるだろう。……手伝ってくれるな?」

同席している霊夢を完全に無視していた。

少なくとも神奈子は霊夢が何も分かっていないのを分かっている筈だ。なのに一つも説明をしない。

そこで霊夢が事情を説明しろ、と口を開こうとした直前に、金色の髪を揺らしてその神は振り返った。

青い瞳がすっと細くなり、霊夢の姿を射止める。

「まぁそれは本人の意思を聞いてから、だね。……今一度問うよ、博麗霊夢。お前に“その”覚悟はあるか?」

外見は霊夢たちのそれと何ら変わりない、少しあどけなさを残したもの。

頭に乗せた帽子はおどけた様子で彼女の動きに合わせて瞳をキョロキョロと動かす。

まるで神には見えない。

だが、体に纏う威信は神奈子のそれを遥かに凌駕していた。

間違いなく、遠く昔に祟り神を束ねたという神――八百万の内一柱、洩矢諏訪子神であった。

『――なれるものならね。本当に私が神になれるってんなら、そりゃやるわよ』

「勿論なれるさ。早苗を見てみろ。あいつだって現人神だよ」

東風谷早苗。

守矢の一子相伝の秘術を持つ人間。

しかし人々は彼女の起こす奇跡を、彼女自身の力と勘違いして風祝を信仰し始めた。

本末転倒とはこのことだが、しかしこの事実は人が神になれることを如実に示していた。

「無論修行をすることになる。巫女の修行をサボっていたあんたが本当に最後までできるかどうかなんて私には分からない。

……その覚悟があるの、って聞いてるのよ」

確かに霊夢は怠け者である。またここで全てを投げ出さないとも限らない。

けれど今更、こんなところで全てを擲ってたまるか。

今まで逃げて来た。少し迷ったこともあったけど、最終的には決めたんだ。

自分のしてきたことを貫くって。

「さぁ答えなさい。やるかやらないか。所詮は罪人。身の程も知らずに神になろうとは不届き千万だと思うけど?」

二柱の神が見詰める中、霊夢は選択を迫られた。

霊夢は少し逡巡して、そして、

『当然。私は――私のしてきたことを信じてるから!』

言い切る。

それは同時に、自らが閻魔の言うような罪人ではないという意思表示でもあった。

閻魔の裁定を認めないような、傲岸不遜な態度を取ること。

それができるのは神だけである。

故に霊夢のその答えは、神になろうとする者が答えるに相応しい言葉だった。

「オーケー。良い答えだ」

諏訪子はにやりと不敵な笑みを浮かべた。

「ならば修行だ。早速修行だ。さーて久し振りに腕が鳴るなぁ」

神奈子が嬉しそうに一人でうんうんと大きく首を縦に振る。

嫌な予感がした。

 

 

「とー、いうわけでー。今から神遊びをおっぱじめまーす」

諏訪子が間抜けた声で宣言をする。

場所は守矢神社前境内。石畳の敷き詰められた上で、二柱と一魂が対峙する。

まるで以前の戦いを再現するかのような、そんな奇妙な感覚を霊夢は覚えた。

『……ってちょっと待った。神遊びってどういうこと?』

「知れたことよ。以前したようにまた享楽に興じようというだけだ。……但し」

どこからか御柱が四本飛んできて、神奈子の後方にぴたりと収まる

「今回は神に相応しいかどうかを試す試験、ってことで、取り敢えず二人いっぺんね。少しは覚悟した方が良いかもよー?」

諏訪子の立っている少し前の地面が見る見る内にもりもりと隆起し、

そして地中から、真っ白な蛇のようなものが幾つもうねうねと頭を出した。

霊夢の姿を見つけると、牙をむき今にも飛び掛かりそうな構えを取る。

恐怖の祟り神、ミシャグジ様である。

諏訪子はその内の一つの頭に乗ってどうどうとそれらを制し、そして叫んだ。

「さぁ……始めるよ! 掛かれっ!!」

 

元々分の悪い戦いだった。

長い長い旅を終えた末の出来事。体力も消耗していたと思われる。

その上今の身体は既に慣れた人間のそれではなく、形を自由自在に変えることのできる霊魂。

当然勝手も違ってこよう。取る動作一つとっても大分違いがある筈だ。

更に加えて強敵二人が最初から全力で向ってくる。神故に人間と比べれば強さは天井知らずの筈。あらゆる要素が霊夢にとって不利に動いていた。

それでも善戦だった。

弾幕バトルというのが功を奏したのかもしれない。勿論そうでなければ霊夢など人間であった時でも一瞬にして倒されていただろうから、対等に戦うためには当然の措置である。

但し弾幕を扱った戦いの上では霊夢はほぼ最強の位置にいた。

飛んでくる弾を避け、柱を避け、鉄の輪を避け、祟り神を避ける。

攻撃手段など持ってはいない。だからこれはただの耐久弾幕を延々と続けさせられているだけだった。

「ほらほら! 逃げてばかりでは勝てないって! たまには反撃してきなよ!」

「それは無理があるだろう。今の状態では弾幕は撃てない筈。まぁ、精々頑張ってほしいところだけど」

余裕綽綽に二人で会話する。

何の罰ゲームだよこれ。

方や必死になって弾を避け、片や寝っ転がりながら適当に弾幕を飛ばす。

天と地の差。

前回負けた鬱憤を晴らしているようにしか霊夢には思えなかった。

って言うか絶対そうだ。修行に託けてこいつら私を苛めているに違いない。避けスキル付いたところでなんで神様になれるんだ馬鹿野郎。

畜生こうなったら、と自爆覚悟で本体に特攻しようと霊夢が決めたその時。

「ただいま帰りましたー…………っ!?」

若い少女の声がした。

三者は同時にその声のした方を振り向く。

緑色の長い髪を持つ彼女は、霊夢を指差し叫んで、

「おっおおおおおおばおばおばお化けぇーー?!」

そして倒れた。

 

 

居間にて気絶から覚めた早苗は二柱から事のあらましを聞いて酷く憤慨した。

「弱い者いじめは駄目だって私言いましたよね? 反撃手段も持たない相手を攻撃してて楽しかったですか? ねぇ、どうでしたか? 私に教えて下さいよ」

「うう……わ、悪かった早苗、頼むからそう怒らんでも……」

「私に謝ってどうするんですかっ! 霊夢さんにちゃんと謝りなさいっ!」

ひぇぇ、と柄にもないような悲鳴が神奈子の口から飛びだす。

神奈子がそれだけ言われているにも関わらず、諏訪子は果敢にも彼女に立ち向かった。

「でもさぁ、これも修行の一つなんだよ? 早苗も知ってるでしょ?」

「知ってますよ? だからと言ってあのやり方は感心できません。やるからにはフェアに。せめて弾幕を撃てるようにする、などの策を弄して初めて公平と言えるのです。ましてや貴女方は神様なのですから」

「あーあー分かった分かったよ。私が悪うございました、どうぞこれからは心を入れ替えて真面目にやりますのでどうかお許し下さい霊夢様ー。……これで良い?」

「駄目です。……あぁそうだ、今度麓の湖にいる氷精を連れてきましょうか。凄いんですよ彼女、なんと三分の二の確率で蛙を凍らせても生き返らせることができるそうです」

「ごめん。マジごめん」

なんなんだこいつら。

霊夢の第一印象はそれであった。

こんな人間が本当に二柱を祀る現人神なのかと。

まるで母親じゃないか。

確かに初めて見た時はしっかりしている奴だな、とは思った。幻想郷に来て間もない頃だったからかもしれないが、喋り方も丁寧だし、物腰も柔らかで少なくとも悪印象を与えられるようなことはなかった。

それが家の中ではこうなのか。否、他の二柱がしっかりしていなさ過ぎるのか。

どちらにしろ嫌だ。

何となく抱いていた“神”のイメージが少しずつ崩壊していく。

そうして思考停止した霊夢を見て何を思ったのか、東風谷早苗は改めて霊夢に向き直り頭を下げた。

「本っ当にすいません霊夢さん。家の神様がとんだ失礼を……お詫びとして私も霊夢さんが無事神様になれるよう、出来る限り協力しますのでどうかこの場は怒りの矛をお収めしては頂けないでしょうか」

『え、えぇ、うん、まぁそれは別に良いんだけど』

別に怒ってはいないのだが。

それでもちゃんと謝る辺りどこまでもしっかりしている。

この早苗がいればまだ安心できるだろう。霊夢はこれからの生活を案じてもいたが、彼女さえいれば安心である。

「それにしても……まさか霊夢さんが亡くなっていたとは思いませんでした。どうされたんですか?」

『え? ……えぇ、いやちょっと、ね……』

酷く話し辛い原因である。間抜けも良いところだ。正直話したくはなかった。

そんな霊夢の反応をどう解釈したのか、早苗は突然涙をほろりと流した。

「そ、そうですよね……霊夢さんにも、思い出したくない辛いことだってありますもんね……すいません、浅慮でした」

『そう大したことじゃないんだけど……うん、あんまりそのことについては話したくはないわね。ごめんね』

謝り倒しである。

逆に気持ち悪い程であった。

とは言えこの点に関しては余りにも恥ずかしい死因だったので寧ろ好都合だったと言えよう。

そこで会話が途切れる。

霊夢自身はそうとも思っていなかったが、この系統の話は普通に考えればNGワードである。

少し空気が悪くなったかのような錯覚を覚えた次の瞬間、早苗が静寂を破り、

「あぁそうでした。お夕飯を作らないと」

と言ったのでその場は解散となった。

 

 

日はとうに落ち、夕食も終わり。

早苗は自室に布団を敷き、更に平時は使わないもう一枚の布団を横に広げた。

どうしても早苗が“霊夢さんと一緒に寝る”と言って聞かなかったのである。

神奈子も諏訪子もまぁ年の近い二人だしね、とそれを容認した。

霊夢の意思は無視であった。

仮に聞かれたとしても、別にどうでも良いと彼女は答えただろうから問題はなかったわけなのだが。

 

そうして、どうでも良い世間話なんかを二人は始めた。

早苗は相も変わらず毎日里へと下りて信仰を集めていたそうだ。

要するに宗教の勧誘である。割と好評で信仰も続々と集まってきてはいるらしい。

しかし話を聞いている――大半が男衆なのだが――里人は神奈子の神徳より、早苗自身をありがたがっているらしい。

ここでも彼女は崇められ、彼女自身の信仰を集めてしまっているのだ。何ともご苦労なことである。

それでも一応は信仰心が集まってはいるのだから、全てが無駄と言うわけでもないようだ。

霊夢も何故自分の神社には信仰心が集まらないのか考えたことはある。生前一日を潰して早苗の動向を探った程だ。少しは悩んでいたらしい。

結果は上記の通り。

態度に女っ気の欠片もない霊夢より、余程少女らしい早苗の方が需要は高いということでもある。

その事実に憤慨したこともあるが、今こうして彼女の素の姿を見るとそれもまぁ仕方がないかな、と思わず納得してしまった。

今時珍しい控え目な性格や献身的な態度、世間擦れしていない考え方。理想的な深窓のお嬢様タイプだ。しかも尽くす。

嫁に貰いたい。

そんな馬鹿なことを考えながら、霊夢は早苗を見詰めていた。

「……どうしました? 」

『うん? 何でもないわ。ただ、ねぇ……』

因みに彼女も一応神ではあるため霊夢の心は読めるらしい。案外逃げた後もそこら中に自分の思考を垂れ流していたのかもしれない。

そう考えると少し憂鬱な気分になる。

だが、そんなことよりもっと他のことが霊夢にとっては憂鬱であった。

『……早苗はどう思う? 閻魔様曰く私は大罪人なんだって。まだ常識人のあんたなら、まだ客観的に見れると思うんだけど』

「霊夢さんが、ですか?」

こくりと頷く。

すると早苗はあはは、と声を上げて笑いだした。

「霊夢さんが大罪人なら私は死刑囚ですよ。それとも何か悪いことしたんですか?」

『悪いこと、ねぇ……んー。神様に楯突いたこと、とか?』

霊夢自身にも少し罪悪感があるのはこの点であった。

神奈子も諏訪子も悪い神様ではない。神奈子などは寧ろ霊夢の神社を助けようとして言ったも同然なのだ。

無論向こうには信仰心を集めると言う目的があったが、神奈子を祀ることによって博麗神社の信仰が増えるのは確かであった。

どちらにも利がある。だからこそ神奈子は話を持ち掛けたのだ。

なのに霊夢は一方的にそれを撥ね退け、それどころか直々に勝負するにまで至ってしまった。

反逆罪と例えれば分かりやすいか。神の言葉を巫女が聞かないなど、本来ならば以ての外。言語道断なのである。

しかし早苗は霊夢のそんな心配を尚も笑い飛ばした。

「何も悪くないですよぉ。あれはいわゆる一つの侵略行為、霊夢さんにとっては神社を支配されるも同然。

それを無理やりやろうとした神奈子様の目を霊夢さんが覚ましたんじゃないですか。私なんか感謝してるくらいです」

なんと。

意外な事実であった。

霊夢は目を丸くする。

『で、でも……私にだって、非はあるわけだし……』

「あったから何だって言うんです? それが大罪とでも言うのですか。霊夢さんらしくもない、そんなのは捨てておけば良いのです。

諏訪子様なんか久し振りに神遊びができた、って大喜びだったんですよ? 私たちは寧ろ感謝しているくらいなんです。なのに貴女がそうやって後悔ばかりしていては意味がない。

閻魔様がなんだと言うんですか。そんなのその人の主観で決めた罪悪です。取り返しのつかないようなことを仕出かしたのならまだしも、霊夢さんはそうじゃないでしょう?」

『…………そう、だと思うけど』

「ならそれで良いじゃないですか。自分が悪い? ノンノン。そんなわけの分からない奴の言った言葉なんか信じなくて結構です。現人神が言うのですから間違いありません。

……なんか聞けば聞く程自分勝手な人ですね、その閻魔様。今度戦う時は私にも教えて下さいよ。お伴します」

なんとなんと。

吐くわ吐くわ毒を吐く。外見からは全くも予想できない、恐ろしく強い毒を吐く。

今時の外界の女子高生ってこれ程までに恐ろしいのか。薄ら寒い思いすら抱いてしまう。

――しかし。

こうして諭されて、霊夢の中の後ろめたさはやっと取り除かれた。

同年代の者からこうして同調されることは少ない。それはある種の自己正当化行為なのかもしれないが、霊夢たちのような少女には確かに必要なことなのだ。

彼女の周囲でそれができるのは、魔理沙に、咲夜に、――加えて早苗ぐらいなものだった。

それ自体は良いこととは決して言えない。しかし、そうすることによってプラスに働くことは幾らでもある。

映姫によって見詰め直させられ、神奈子によって気付かされ、早苗によって正当化される。

随分と長い道程を経て、霊夢は漸く納得できる結論に至った。

最初から相談できる者が、霊夢には必要だったのかもしれない。

『……そ、っか。そうか。それもそうね。何だ、下らない』

呆けたように呟き、笑う。

結局、下らないの一言に集約されるようなことだったのだ。

おかしくてたまらない。

早苗は霊夢の突然の笑いに戸惑っていたが、次第につられて一緒に笑ってしまった。

そして笑いは同調する。

二人の少女の笑い声が響く中、幻想郷の夜は更けて行く。

 

 

翌朝霊夢が起きると、なんだか奇妙な感覚に包まれていた。

なんだか視界がいつもより高い。

ような気がする。

「んー……? なんだか変な感じ……ねぇ?」

首を傾げる。

「あ、起きましたか霊夢さん。お早うございます」

声のした方を見る。

そこにはにこりと霊夢に笑い掛ける早苗の姿。

既にいつもの巫女服に着替え、すっかりお勤めモードだ。

「んー……おはよ」

対して霊夢は寝ぼけている。

生活習慣に関しては対照的な二人であった。

 

そして霊夢は眠い目を擦りながら洗面台に向かう。

朝の水は冷たい。さっと顔を洗い流し、口の中を数度濯いでから顔を拭う。

それから厠へと向かおうとすると、途中で早苗に出会った。

「あ、霊夢さん。もうすぐ朝ご飯できるので、部屋に戻って着替えて下さい。服は用意してあるので」

「ん……そ。ありがと」

なんと細かいところにまで気を配るのだろうか。

正しく嫁の鑑であった。

 

用を足して部屋に戻る。

すると早苗の言った通り、綺麗に洗濯された青と白のツートンカラーの服が、皺もなく綺麗に折り畳まれて置いてあった。

「……これ早苗のじゃないの」

とは言っても着替えないと始まらない。いそいそとそれを手に取りきる。

来てみると案外ぴったりと収まった。

霊夢もそれなりに痩せているのは自覚していたが、それは年齢故のものだと思っていた。

しかし早苗は幾つか年上である。なのにぴったりとはどういうことか。器量良し、性格良し、スタイル良しってお前は漫画のヒロインか。

胸の辺りがぶかぶかなのが余計苛立つ。

まぁ将来は自分もそうなるのだろう。なるべくしてなるのである。そう焦ることもない。

……本当になるのだろうか。

少し心配であった。

まぁいいや、といつも通りの適当さでそれまでの思考を押し流し襖の取っ手に手を掛ける。

…………。

「――――っ!!」

そうして、漸く霊夢は気付いた。

 

「ん? ああそれね。早苗がやっぱり気味悪いっていうから外見だけ整えてやったわ」

何でもないことのように神奈子は言う。

霊夢には何でもなくないことであった。

「外見だけって! 外見だけって何!? 簡単にできることなの?!」

「あーうるさいうるさい。朝っぱらから喚くな」

「そうですよ霊夢さん。まずは朝ご飯をしっかりと食べてからにして下さい」

「あーうー……霊夢、それ私のハムエッグ」

「あん!? ……あ、ごめん」

食卓の上に並べられた数々の皿。

霊夢は混乱の余りテーブルをばんばんと叩きながら神奈子に詰問していたのだが、その衝撃で幾つかの皿が引っ繰り返っていた。

その内の一つが諏訪子のハムエッグだった、と言うだけの話である。

加えて補足すると、他の引っ繰り返った皿は全て霊夢の分だったので霊夢は何とも言えない気持ちでぶち撒けられたそれらを手で掻き集める羽目になってしまった。

因果応報である。

 

三人が同時に声を合わせて言う。

「ごちそーさまでしたっ!」

「……御馳走様」

一人不機嫌なのは霊夢。

手早く朝食を頭飛び抜けて済ませたことは良いものの、残りの三人は霊夢に構わずのんびりと食べていた。

しかし席を離れることは許されない。全員揃って食べ終わるまでが朝食なのだそうだ。

いつまで一家団欒やってる気なのだという妙な不満ばかりが募っていた。

だから、ここで神奈子に詰め寄るのは当然の結果であった。

「さーあ神奈子っ! 説明して貰おうかしら、私の姿が何故元に戻っているのかをぉっ!!」

いつになくテンションが高い。

それもそうだ。何てったって今まで餅を丸めたような半透明の球体であった姿が、今や寸分違わず生前の霊夢そのままだったのだから。

気付いたのは着替えてから部屋を出る際に手を使った時。それまで半分寝ぼけていたから、霊夢は初めてそこで自分に手があることを理解したのだ。

そうして慌てて洗面所に戻り、自分の姿を映し見る。

そこにあるのは見知った顔。手でぺたぺたと触っても分かる。着ている服と結えていない髪型以外は、いつもいつでもその姿であった霊夢そのままだったのだ。

――そうして霊夢は、声にならない歓喜の悲鳴を上げた。

 

しかし、だからと言って単純に喜んでもいられない。

自分は死んだ筈だ。なのに元の身体に戻った。声も出せる。自由に歩くことだってできるし飲んだり食べたり運動なんかお茶の子さいさいだ。

何の不自由もない。だからこそ、余計不自然なのだ。

「つまりどういうことなのよ」

「どういうこともこういうこともあるまいに。見たままが正解よ」

答えになっていない。

「そうじゃなくて! さっきの反応を見るからに、あんたの仕業でしょ? 元の姿に戻れるなら戻れるって、何で早く言わなかったのよ!」

「聞かれなかったからだよ。喋れなくても私たちは人々の願いを聞くようにお前の言葉も聞くことができる。身体なんざあってもなくても同じだろう。浮いてるってことに変わりはないしな」

「だからって!」

終始喧嘩腰の霊夢に、早苗がおずおずと話し掛ける。

「あのー……もしかして、ご迷惑だったでしょうか? そうならまた元に戻して頂くことも可能なのですが」

本当に申し訳なさそうに言う。

その言葉を聞いて霊夢は口を動かすことをピタリと止めた。

「……いや、そういうわけじゃないんだけど……はぁ。なんか気が抜けたわ。どうでも良くなっちゃった」

そう言って霊夢は肩をだらりと下げる。

朝から驚いたり叫んだり怒ったりばかりしていれば疲れるのも当然である。

それに人間の姿にまた戻ることができた。何に不満があるというのだ。それこそ僥倖である。

すっかり熱が引いた霊夢を見て、神奈子がやれやれと口を開く。

「……ま、何も話さなかった私も悪かったね。そこは謝ろう。

簡単に説明するとね、霊体の丸っこい外見ってのは体力を最も使わない形態なんだよ。いわゆるスリープモード、だっけ? ……ん? ちと違うか。まぁそんなことはどうでも良い。

だから外見それ自体は自由自在に変えられる。勿論自分の意思で、だ。但し体力の消費が激しくなってしまうので、余程強く願ったり強い衝撃を与えない限りは変形しないがね。

それに形を保つことも難しい。例え元の人間の形に戻ったところで数分後にはまた元通りになってしまうのが関の山さ」

流暢にぺらぺらと喋る。

聞いた時は要領を得ないことばかり言っていたのに、諦めた途端にこれだ。性質が悪い。

叫び過ぎて火照った頭で霊夢はぼんやりと神奈子の話を聞いていた。

「で、まぁ先ほど言った通り早苗も幽霊はそんなに好きではないようだしな。私が少々手心を加えてやった。余程のことがなければいつまでも人間の形を保つことができるだろうよ。

しかし……まるで粘土を捏ねているようだったな。なかなか気持ち良かった。ありゃ楽しいな」

そこで霊夢は何か引っかかるものを感じた。

……ちょっと待て。

「あんた今、粘土って……」

「何、少しばかり体を捏ねただけよ。お前の寝ていた頃にこっそりとな。案ずるな、その他に何もしてはいない」

「いやそういう問題じゃなくて……あぁもう良いわ、面倒臭い」

これ以上話していてもまた同じオチになるのは目に見えている。

また身体がそれに戻ったからか、霊夢本来のやる気のなさも元に戻っていた。あれ程一つのことに執着していたことが馬鹿馬鹿しく思える。

……しかし。

この身体は、やはり霊魂の形の一つに過ぎないのね、と霊夢は心の中でぽつりと呟いた。

生に執着していたわけではない。だがしかし、死とは当人にとっては勿論、残された者にとっても一つの節目となる出来事なのだ。

幾ら見た目も記憶も元に戻っても、死んだという事実は消えない。そのことは少しばかり、霊夢に寂しい気持ちを思い起こさせた。

 

 

――それから霊夢は、数カ月に渡って厳しい修行を続けることになった。

「さあ始めるよ!」の諏訪子の毎朝の号令から始まる一日。その初日から手を抜くことはなく、非常に苛烈な修行であった。

例えば、九天の滝にうたれて忍耐力を養ったり。

例えば、一日中座禅を組んで精神を研ぎ澄ましたり。

例えば、早苗と二人で信仰を集めたり。

霊夢にとっては、が初めに付かなければいけないが、それは確かに苛烈な修行であった。

何しろ日々を気儘に過ごしていた霊夢である。彼女にとってそれらは苦行に等しい。

しかし弱音を吐きながらも、やるべきことはしっかりとこなす辺りが彼女らしかった。

……だが一日の修業はそれだけでは終わらない。

全てのメニューをこなし、疲れ切ったところにそれはある。

――神遊びである。

神様は純粋な強さも持ち合わせていなければいけない。神の性格、荒御霊と和御霊、その二面性。人々は荒御霊を鎮める為に祀り拝むのだ。

顕著な例はミシャグジ様であろう。自らを蔑ろにするものにはあらゆる神罰を。故に民は畏れ、土着神として祀り上げ驚異的な信仰心を得るまでに至ったのだ。

霊夢は元は人間だ。ましてや現在は霊魂である。並の修行では人々を脅かす程の実力を有すには程遠い。

だから、二柱は最初の実力テストを継続して霊夢に受けさせることを決めた。

勿論最初の頃は手を抜いていた。けれども日が経つにつれて少しずつ、段々激しく攻撃を加えるようになる。

しかし霊夢も負けてはいない。避ける技術は以前にも増して洗練され、一ヶ月が経つ頃には余程のことがない限り被弾することもなかった。

加えて人間の姿に戻ったからか、弾幕を放てるようになった。それで反撃もできる。早苗にも異論はなく、全ての計画は滞りなく進んだ。

二ヶ月程が経って間もない頃、極稀に早苗も神遊びに参加することもあった。

予想外だったのは、二柱を合わせても早苗の猛攻には程遠いことだった。

なんと一人で霊夢と互角。二柱は多少加減はしていたが、日に日に全力を出さざるを得ない場面が増えて行くのが目に見えて分かる様子だったのだ。

手を抜いているとは言っても神様である。しかも二柱まとめての猛攻。それでも霊夢との実力の差はほぼなかったと言える領域にまで来ていた。

それが、たった一人で。

人間の成長の限界は底知れないとは言うが、これ程までとは。二柱は揃って戦いの様子を見詰めて唖然としていた。

二人が勝負する時には、両者共に心底楽しそうな表情であった。楽しんでいるからこそ、これ程までに際限のない戦いをすることができる。

早苗の場合、幾分かは日頃の鬱憤晴らしも含まれているようにも思えるが。

そして五ヶ月を過ぎる頃。

ほぼ全ての課程を修了し、毎日の神遊びも早苗、神奈子、諏訪子の三柱と対峙しても遜色のない戦いをするようにまで成長していた。

それだけでも既に実力は神の域に入っていると言えよう。今の彼女なら、誰にだって神と認められる筈であった。

 

ある日の夜のこと。

珍しく神奈子が本殿にやってきた。

何故来たのか、用件が何かは諏訪子にも分かっていた。寧ろ分からない方がおかしい。

その目覚ましい成長を目の当たりにし、実感したのだから当然だ。

「……てなわけで、言わずとも分かるとは思うんだけど……そろそろ良いんじゃない?」

「別に私の諒解を得る必要はなくない? 答えは決まってるんだからさ」

以心伝心、と言うよりは何を今更、である。

ならば、と神奈子は続けた。

「明日早朝より開始、で問題はなさそうね」

「だいじょぶ。良い結果が出るのを期待してようね」

どこか悪戯っぽく諏訪子は笑う。

悪魔めいた邪悪な笑みにも、見ようによっては見えたかもしれない。

 

翌朝。

霊夢は諏訪子に、これまでにないような内容の“修行”を言い渡された。

いわゆる一つの区切り、らしい。定期的に行う試験のようなものだと諏訪子は言った。

曰く、この神社のずっと東の山奥に、一つの古びた小屋があるそうだ。

そこにはもう何年も前から人が住んでいて、なのに山を汚して平気な顔をしているという。

調べてみれば、そいつは過去に人殺しの大罪を何度も重ねて犯し山へと逃げた凶悪犯だそうだ。

幾らなんでもやり過ぎだ。これ以上見逃すことはできない。そんな奴には天罰を与えるほかない。だから――

「――殺せ、ねぇ。それもやり過ぎだとは思うけど」

神は時に多くの人を犠牲にする覚悟も持っていなければならない。たった一人程度躊躇していては、神になど到底なれないというわけだ。

理由は分からないでもない。しかし、やはりそんな簡単に殺すだのと言うことには抵抗がある。

ましてや今回は自ら手を下すのだから尚更だ。

それでも割り切るしかないのかなぁ、と霊夢は思い悩んでいた。

目的の人物が住んでいる小屋は既に目前。もうそろそろ、決断しなければいけない時だった。

 

結局だらだらと進んでいる内に、向こうから出てきて見つかってしまう。

霊夢の姿を見るが早いが、どうぞどうぞとやかましく青年は小屋の中へと向かい入れた。

「いやぁ! まさか巫女さんがこんなところにまで来るとは! お勤めお疲れ様です、どうぞお座り下さい!」

その青年は笑顔を絶やさない。

うるさいまでに快活に喋るその様は、突き抜け過ぎて逆に好印象を振り撒いていた。

……本当にこの男が、そんな大罪を犯したのだろうか。

そんな疑念すら抱かせる。

「あ、巫女さんお茶が良いですか? コーヒー? それともお紅茶?」

「お茶でお願い。熱めにしてね」

「あいよっ!」

随分と元気である。

やはり悪い奴には見えず、霊夢は拍子抜けするばかりであった。

 

そうして二人向かい合い、世間話をしながら時たま茶を一口啜り。

それなりに楽しい時間を過ごした後に霊夢はふと口を開く。

「……ねぇ。どうしてこんなところに住んでいるの?人の身では不便なこともあるでしょうに」

そう問うと、青年はにこやかだった表情を予想外にも少し曇らせる。

暫くの沈黙の後、初対面の方にこんなことを話すのもなんですが、と前置きを置いてから青年は喋り始めた。

「数年前にね、ちょっとした事故で女房と娘に先立たれちまったんですよ。……否、事故と言ってもあっしがしっかりしていれば、そんなことにはならなかったんですがね。

酷く悔やみました。でも出家をするにしても、罪を犯したあっしが坊さんなんて、そいつあ少々違うんじゃないか、ってね。

だから、自戒の意味を込めて山で一人暮らしてるってわけです」

少し悲しそうな表情で、簡潔に話をまとめた。

――嘘だ。

先程までの会話の内に気付いた。こいつは相手に喋るとき、しっかり相手の目を見て話す。

なのに今は、極端に目を逸らして逃げた。

心を読まずとも分かる。こいつは今、確かに嘘を吐いた。

それが誰が死んだかなのか、どうして死んだかなのか、それともそんな人たちは最初からおらず全く別の理由で山に籠ったのか、それとも――

何もかも皆嘘で、諏訪子の言う通り人を殺してしまったのか。

そのどれかなのかも分からない。けれど確かに嘘を吐いた。それだけははっきりと言える。

見た目や態度に――騙されているんじゃないだろうか。

霊夢が青年に不信感を抱き始めた時、彼は突然立ち上がった。

「もうお茶なくなっちゃいましたね。もう一杯淹れますわ」

また笑みを浮かべる。

薄っぺらい、貼り付けたようなその笑みを。

青年は霊夢のと自らのカップを両手に持って台所に立つ。

丁度霊夢に背を向けている状況。

――今だ。

今なら、何の造作もなく奴を殺せる。

諏訪子の言ったことが本当かどうかの証拠はない。でも、最後に十分に不審な様子を見せた。

勘で言うのなら――多分クロ。

取り繕っているようにしか見えなかった。

さぁ、今ならやれる。

さぁ。

 

 

「また来て下さいねー!」

青年は賑やかに別れを告げる。

――結局、殺さなかった。

否、最初から決めていたのだ。

例え相手が重罪人だったとして、殺してしまうのはおかしいと。

第一人を殺せなきゃ神になれないだなんて、馬鹿げた話じゃないか? 間違っている。

そんなことまでしなければ、神様になれないのなら。

そんなことまでするような、神様がいるのなら。

――そんな神様なんて、糞食らえ。

神に対して反感を持ち始めた霊夢は、バタンと少々乱暴に小屋の扉を閉めた。

次の瞬間。

 

「――!?」

霊夢は見知った部屋の中にいた。

ここは、そう、守矢神社の本殿だ。

あれ? さっきまで私は小屋にいて、そこから出て……あれ?

霊夢は混乱し始める。

直後、背後から手をパチパチと鳴らす音が聞こえた。

素早く反応して振り向く。

「……成程。お主の“覚悟”、とくと見せて貰ったぞ」

満足げな表情の神奈子と、

「いやぁ、まさかまさかの大英断! あ、でも霊夢ならやってくれると思ったよ。流石ね!」

とても楽しそうに笑う諏訪子がいた。

状況が理解できない霊夢は目を白黒とさせて酷く狼狽していた。

その様子を見て神奈子はいやぁ悪かったねぇと頭を下げる。

「今までのは全て私たちが見せていた幻覚さ。だから実際にはあんな男はいない。……ここら辺がややこしいのか。致し方あるまい。許せ。

いやしかし、何の説明もなくよくぞ自らの決断を突き通した。諏訪子の言う通りだ。誇って良いぞ」

と言われても、何が何だか霊夢には未だに理解できていない。“これの原材料は何ですか”と聞いて“一流カリスマシェフの作ったケーキです”と答えられているようなものである。分かる方がおかしい。

霊夢は神奈子には話が通じないと諦めて諏訪子の方を見た。

「……ま、テストには変わりないのさ。ただこれは神になるための最終テストだったのよ。重要度がちーっとばかし高いね。

如何に迅速に答えを出すことができるか。このテストではそこのみに焦点を絞った」

「うむ。しかしお主は考える以前から答えを決め、それを突き通し、更に思考によって盤石なものとした。善悪は常に己の内にある。その己の善悪を踏まえて最終的な判断を如何に迅速に下すか。速ければ良いというものではない、必ず自らの考えに基づいた判断でなければいかんのだよ。自らの価値観を疑うことのない、その境地に至ったお主は間違いなく“神”と成ったのだ」

あぁ、と漸く霊夢は理解する。

つまり、如何に自分のことが信じられるかを試していたのだ。

自らを信じられずに、一体どうして他の者に信じられるというのだ。

――そこで霊夢ははたと思う。

「如何に迅速に、ってことは……たとえば、間髪入れずにあいつを殺していても私は合格できたって言うの?」

うん、と諏訪子は頷く。

「勿論それも自分の考えに基づいた判断でなければ駄目だけどね。

何が原因であっても、罪は確かに罪でしかない。人を殺したのなら尚更償わなければいけない。そういう考えの神も確かにいるよ。

というか、あんたは既に会ってたっくさん説教も貰っただろうに」

「…………あぁ」

映姫のことだ。

彼女もまた、自らの公明正大な価値観に基づいて断罪する。

確かに、考えてみればそうである。何も間違ってはいない。

「人と同じように神様にだって個性はある。皆考え方が同じだったら、八百万も神様はいらない。

多種多様であるからこそ、幻想郷は全てを受け入れるのよ。それくらい分かってるでしょ?」

そう言って諏訪子はウィンクした。

……全部間違ってなんかない。皆皆、自分の中の正しいことを貫いているんだ。

だから全てを受け入れる。自分を信じている限り、追い出されることは決してない。

考えれば考える程深い世界である。

霊夢が深い思考にどっぷりと浸かっていると、でもまぁ、と神奈子が口を開いた。

「もしあんたが閻魔と同じ考えだったとしたら、きっと早苗は一生あんたのことを許さなかっただろうねぇ。

……いやはや、霊夢も早苗も私たちも含めて、みーんなヒューマニズム的な考えが抜けきっていないようだ」

かははと口を開けて笑う。

正しい意味は霊夢には分からなかったが、文脈から推測して“人間臭い”という認識に間違いはないだろう。

……上等だ。

ならば私だって貫き通す。

人間代表の神様として、高らかに宣言してやろうと霊夢は思う。

正しき裁きなど、糞食らえ、と。

 

 

「……まぁそんなこんなで見事合格したわけなのだが」

霊夢は畏まった態度で、三柱の面前に正座していた。

右に早苗。左に諏訪子。そして中心に仁王立ちするは神奈子。

神奈子は脇の二人をそれぞれ見遣ってから言った。

「皆の者、異存はないな?」

「勿論」「当然です」

諏訪子はおすまし顔で、早苗は少し興奮している様子で言う。

「うむ。私も同意だ。ならば」

神奈子は微笑み、右手を差し出す。

「――初めまして。我々八百万の神々は、新しき神博麗霊夢を歓迎するわ」

「……ま、今後とも宜しく頼むわ。古き神々さん」

不敵な笑みを浮かべて、霊夢は差し出された手を強く握り返した。

 

――――幻想郷に、新たな一柱の神が誕生した瞬間である。

 

 

 

「――と、まぁそんな感じで。その後服とか貰ったりして、そんで別れてここに来た」

霊夢が全てを話し終えると、一人と一匹は目を真ん丸くして、

「…………な、な、な、何ィーー!? かかか神様だってぇ?!」

と同時に叫んだ。

妙なところでぴたりと息が合う辺り、案外この二人は似ているのかもしれない。

霊夢は少し得意げになって言う。

「そうよ。私は今や神様。崇め称え奉りなさい。そうしないと祟るわよ」

「うへえ。そりゃ恐いな」

しかし返ってくるのは特に変わらない軽口。

魔理沙相手ではこんなものだろう。寧ろ下手に平伏された方がやり難いこと請け合いである。

だから会話も止まらない。何でもない日常の出来事が、一つの話の種とすらなる。

それはまるで、過去の彼女たちの日常を再現しているかのよう。

遠い昔のように思える光景。たった半年程の期間しか開いていないとは到底思えない。

それは二人、否霊夢と関わった者全ての距離が離れてしまったことの証明でもあるけれど。

同時に、決して忘れ去られてはいない証拠なのでもある。

距離は開いた。でも確かにいる。確かにそこに存在している。

霊夢が思っているより、彼女は結構人気者なのだ。

 

「……しっかし、それにしても神様か。一気に格上げしたもんだな」

「そりゃ相応の努力をしたもの」

「うへえ。お前程努力って言葉が似合わない奴もいないな」

魔理沙は下を出し苦々しげな表情を作る。

「はいはい、あんたは努力の塊だったわね。そんなあんたでも相当頑張らないと神様にゃなれないわよ」

「おお、それは大変だな。なる気も失せるぜ」

最初からないくせに、と霊夢が毒づくとどっと笑いが起こった。

女三人寄れば姦しい、とはよく言ったものである。一つ付け加えれば、一人と一匹と一柱、であるが。

「あ、そうだ。お姉さん神様ってんだからどこかで祀られてるわけだよね? どこなの?」

お燐がふと思い出したように言う。

あーそれね、と霊夢は切り返し口を開き、

「一応守矢と協定を結んで、互いに互いを信仰し合おうって話になったのよ。だから取り敢えずは姿を保ててるけど、その内力は弱まって消えるでしょうね」

そして衝撃的事実を告げた。

魔理沙とお燐はまたもや揃って妙な表情を作る。

「消えるって……おいおい、冗談は止めてほしいぜ? お前の言葉にはさらりと嘘が混じるから困る」

「冗談じゃないって。信仰心がなくなれば消えちゃいそうになることは神奈子の件で知ってるでしょ? 私だって今や神様なんだから同じよ」

「……じゃあどうすんのさ。だってお姉さん、そんな、折角会えたのに……」

「さぁ? なるようになるでしょ。なんか吹っ切れちゃったし」

さも何でもないことのように言う。

お燐は既に泣きそうな表情になっていた。

魔理沙は何かを考え込むように手を顎に当て、低い声でうー、と延々唸っていた。

そしてはっと何かを思い付いたように顔を上げ、そしてにやりと笑った。

「……そうか。信仰心が足りないのなら、集めりゃ良いんだろ?」

「ん? まぁそゆことだけど……それがどうかしたの?」

霊夢が尋ねると、魔理沙は更ににぃっと口元を釣り上げた。

「巫女が神様になったんだ。魔法使いが巫女になったっておかしくはないだろう?」

加えて高笑いする。

聞いている方の心がすっきりする程の心地良い高笑いだった。

但し、近くで聞いている分にはやはりうるさいようで霊夢は顔を酷く顰めていたが。

お燐などは半ベソをかきながら耳を押さえている。

「……あんたそれ本気で言ってるの?」

「あぁ本気さ。私はいつだって本気だぜ。ここ博麗神社の主祭神としてお前を祀る。私が巫女だ、やることなんか昔からお前を見てるから全部分かってるぜ。

何の不都合がある? 消えなくて済むんなら消えない方が良いだろう。私たちにとっても、お前にとっても、最適な選択だとは思わないか?」

トンデモ理論である。

ぐうたらではあったが、一応最低限の巫女としての修業は霊夢もこなしていたのだ。それなのに魔理沙はその辺りの問題を全て取っ払っていきなり巫女になると言いだす。

正月などで人手が足りない時に物売りとして採用するのならまだ分かる。だがこの場合の巫女とは本来の意味での巫女である。その上博麗神社の巫女となれば、それはつまり――

博麗の巫女、となるわけだ。

正直、魔理沙はただの阿呆ではないかと霊夢は勘ぐった。

仮にも幻想郷の均衡を保つ役目を司る重要な役目。それにただの魔女が立候補するなど非常識にも程がある。

もし彼女が巫女となるのなら、紫が出張ってくることは間違いないだろう。

しかしもう一つ確かなことがあった。

……それは魔理沙が、かなりの頑固者であるということだ。

絶対に譲りはしないだろう。それこそ、紫を追い返してでも。

霊夢は頭を抱えてはぁ、と溜め息を一つ漏らす。

「……あーもう。勝手にしなさい。紫にしばかれても知らないわよ」

「はん、望むところだ。逆にぼっこぼこにして私の実力を認めさせてやるぜ」

やるぞー、と魔理沙は気炎を吐く。

だがしかし、こんなでこぼこなコンビの方が良いのかもしれない。

元巫女の神様。元魔法使いの巫女。歪と歪が重なりあえば、それは逆に平面と成り得ることもある。

もしかしたら、案外上手くいく可能性もないわけでもない。

案ずるより産むが易し。心配ばかりしていても先には進まない。

――ま、何もしないよりはマシ、かな。

そんなことを考えていると、ぐいぐいと袖が引っ張られる感触を覚える。

見るとそこには、耳まで真っ赤にさせて涙ぐむお燐の姿があった。

「……その……あたいは……」

酷く思い詰めたように、俯きながらお燐はぽつぽつと言葉を紡ぐ。

霊夢は小さく縮こまったお燐の身体をぎゅっと抱き締め、

「大丈夫。追い出したりなんかするものですか。あんたはいつだってウチのマスコットよ。

……でもたまには家に帰りなさいよね。さとりも心配してるでしょうし」

そう言って、優しくお燐の頭を撫でた。

 

加えて火車がマスコット。

なんて罰当たりな神社なのだろう。

――面白いから良いか。

一人で思って、一人で笑い出す霊夢であった。

 

 

「――――はァっ!? 逃げだしたぁっ!?」

声に驚き幽霊たちが一斉に散る。

地獄の閻魔がやってきたというから、一体何の用だと盗み見ていたのだ。

……が、それもその当の閻魔の素っ頓狂な大声で中断されてしまう。

「どどどどういうことなのですか! しっかり監視していろと、私はあれ程――」

「あら。幽霊なんてものは何にも縛られないもの。私を見ていれば分かるのではありませんか?」

そう言って亡霊の嬢は優雅にくるくると回り出す。

……だめだ、こいつには話が通じない。

映姫は痛む頭を押さえ、もう一人のまだしっかりとした幼き従者に詰め寄った。

「そう、貴女! 貴女ですっ! 何故逃がしたのですか? 魂一つ如き逃がさないでおくことぐらい造作も――」

「――だって霊夢でしょう? あいつなら逃げ出すのも仕方ありませんよ。だって霊夢ですし」

不機嫌そうに妖夢は答えた。

「そうよねー。仕方ないわよねー」

ねー、と幽々子は妖夢と顔を見合わせて頷く。

――何と言うことなのだろうか。

霊夢なら仕方ない。この二人の言い分は、その一言に全て集約されていた。

馬鹿か。

この二人なら、と安心して預けたのにこの様だ。何と言う失態。全ての責任は映姫が負わされるだろう。そのことを考えると今から少々憂鬱である。

……否、まだ挽回の余地はある。

「そうです。今からひっ捕まえて幽閉しておきましょう。一人寂しく罪を悔いていれば、まだ多少は罪も雪がれると言うもの――」

「残念ながら、それもできなさそうですわ。ほら」

準備は万全、といった様子で幽々子は懐から一枚の薄っぺらい紙を取り出した。

右上には文々。新聞号外とある。

「……なんだ。天狗の新聞じゃないですか。これがどうしたと――」

映姫の視点はある一点に止まった。

そうして、漸く自体を理解する。

そこに書かれていた見出しは、“博麗神社、新たな神を迎える”。

載せられた写真に写っているのは――紛れもなく、博麗霊夢本人の姿。

映姫は言葉も出ず、ただただ唖然とするばかりであった。

「これを読む限り、霊夢は神様になっちゃったみたいですけど……閻魔様、神様を裁くことってできるのですか?」

にやけながら幽々子は尋ねる。

まるで勝ち誇ったかのようであった。

何と。こいつらグルか。裏で繋がっていたのか。そういや説明してないのにあの魂が霊夢だって分かってたし。妙な情けをかけてやるんじゃなかった。

まさに判断ミスである。

無論裁くこと自体はできる。できない筈はない。遍く事柄を裁くのが閻魔の仕事である。

だが――

如何せん、分が悪い。

流石に神様を相手に陣取ると言うのは無謀と言うもの。奴らはそれぞれの規律に従って行動している。映姫も神の一人ではあるから、その流れはよく理解していた。

だから、尚更分が悪い。

自分とは全く異なった理で動いている者を裁くには、幾ら映姫の白黒はっきりつける程度の能力と雖も荷が重すぎる。

つまり――詰んだ。

 

映姫の頭の中は真っ白になった。

今までやってきたことがまるで無駄になったかのようである。

しかし、そうして漸く映姫は気付いた。

霊夢のことを、誰よりも映姫自身が重荷に感じていたことに。

どう裁こうか。どう処罰を与えるか。その末の処遇はどうするか。全部が全部前例のないこと。自分の下した判断が、未来の裁判で参考にされることになる。

地獄にすら行けないなんて奴は初めてだった。だからあの場にいた全員、映姫自身も含めて妙に力が入っていた部分があったことは否めない。

だからそこまでする必要はないのに、映姫は霊夢のことをその行く末まで面倒を見る気になってしまったのだ。

でも――これで漸く解放された。

責任は取らされることになるかもしれないが、中心にいる霊夢はもう既に手の届かないところにまで達してしまったのだ。

考える必要はない。

それが何より嬉しくて。

映姫は緊張感から解放されたからか、その場に泣き崩れてしまった。

 

「あらあら。閻魔様ともあろうものが、泣き虫さんですねぇ」

「……頭撫でながら言うことですか? あんまり馬鹿みたいなことばかりやってると今度は幽々子様が裁かれる羽目になりますよ」

幽々子の隣にいた妖夢が呆れた顔でその様子を見詰める。

それでも幽々子は意に介さずと言った様子でよしよしと泣きじゃくる映姫をあやしていた。

「誰にだって、心の支えは必要なのよ。それがなくては、自分の許容量を超えた出来事に対応できなくなってしまう。

今回の一連の出来事は、そうしたことの積み重ねが引き起こした結果なの。

たまにはこうして自分の感情を爆発させることも、重要なことなのです」

「はぁ……私はまだまだ未熟者ですから、意味はよく分かりませんが」

「そりゃ分からないわよ」

幽々子は妖夢を、映姫を抱き締めていないもう一方の手でぎゅうっと力強く抱いた。

「ちょっ……な、何なんですか!?」

「貴女は私が支えているもの。一生分かりっこないわ」

「む…………むぅ」

そして同じように頭を撫でる。

妖夢は唸りながら、それでも映姫同様大人しく幽々子に抱かれて頭を撫でられていた。

 

 

 

 

博麗神社の巫女の神。

生きてる間は自分勝手で怠惰で気ままで、それでも皆に好かれてしまう。

そんな彼女が神となれば、自然と皆近寄ってくるわけで。

いつの間にか、また人妖が集まってくるのも無理はなかった。

 

新しき神博麗霊夢を迎えた博麗神社が以前のような盛況を見せるのは、そう遠くない先の話である。

あとがき

そして彼女は神と成った。

ネタ元は霊夢スレより。霊夢の死後は神様じゃあないかという言葉にとても共感しまして書こうと決心いたしました。

書きたいことを色々詰めていったらこんな長さに。でもまだまだ書き足りないし描写も足りません。心残りも沢山あります。

それでも「いつでも誰かが傍にいる」のテーマは込められたと思います。今の私の実力では寧ろよくやった方なのでしょう。酷く自画自賛で申し訳ないですがなかなか綺麗に締められたと思いますし。

創想話の方では続きを希望して下さる方が沢山おられましたが、ここで明言しておきたいと思います。

続編などない。

多分。

後日談『蛇足』へ