「おーいパルスィ、助けておくれ」

「……何やってんのよ、あんたは」

げんなりとした表情で、嫉妬の橋姫水橋パルスィは呆れたように呟く。

その彼女の、緑色の瞳が見詰める先には。

足の踏み場もない程に数十匹の猫に囲まれ立ち往生している、怪力乱神の星熊勇儀がそこにいた。

 

 

「いや何、餌やってたら集まって来ちゃってさ。毎度悪いね」

「ええ本当。毎日毎日よくも飽きずに動物に囲まれているわ。お人好しも良いとこね」

そう褒めるなって、と頭を掻きながら豪快に笑う勇儀。パルスィは褒めてはないけどね、と返そうとするも、もう同じやり取りが五十四度目になることを思い出して結局言うのを諦めた。

大体毎日毎日よくも飽きずに動物を散らしてやっているパルスィもお人好しではあるのだが、本人に自覚はないため指摘されるまで同じ穴の貉ということに気付くことはないだろう。

今では何匹いたか数えられないくらいの数の猫はパルスィによって散り散りとなり、数匹が勇儀に顎の下を撫でられ気持ち良さそうにしているだけだった。

その様子を見たパルスィはふんと鼻を鳴らす。

「……あぁ、妬ましい。妖怪だけでなく動物たちにすら好かれる貴女の人気が妬ましい」

嫉妬心を操る程度の能力、水橋パルスィ。彼女は事ある毎に何かを羨み嫉み妬む。その陰気さ故嫌われ地底に封印された。

ただ妬む際には決して陰気には言わないが、その内容は得てして人の本心を表している。それを聞く者は皆耳を塞ぎ、本音を抉られるようなその嫉妬から逃れようと必死になるものだった。

唯一彼女を除いては。

「なんだ、そんなことが羨ましかったのか。可愛いぞ、ほれ。お前さんも撫でてみな」

「うぇっ!?」

勇儀は笑って足元にじゃれついていた黒猫を一匹つまみ、パルスィの方へひょいと差し出す。

当のパルスィは目を見開き肩を跳ねさせヒキガエルの潰れたような声を出して、大きく後ろへ一歩下がった。

まさかそうやって突き出されるとは思っていなかったからだ。

しかし予想外にも、猫は暴れもせずじっと大人しくしたまま動かない。野良猫の筈なのだが、どうしてこれ程勇儀に懐いているのだろうか。パルスィには分からなかった。

「そう驚くなって。ほら、勇気を出して」

尚もほれほれ、とつまんだままの猫を近付けてくる勇儀。全然怖くないにゃーん、などと言いながら猫の足を持って手招きさせる。まるで人形を使って子供をあやしているかのようだった。

だがパルスィもやられてばかりいるわけではない。彼女はやや顔を背けながら、不満げにこう呟いた。

「勇気も何も……別に、頭撫でたいとか顎こしょこしょしたいとか、お腹たぷたぷしたいとか全然そんなこと、お、思ってないんだからねっ!」

「そこまで言ってないんだけど」

しまった、と手を口に当てる。

思わず本心が出てしまったようだ。

勇儀はにやにや笑いを口元に浮かべながら一歩、また一歩と腰の引けているパルスィに近付いて行く。

「いいねえいいねえ。本当のことを言う奴は私は大好きだよ。さ、心置きなく」

「…………くっ」

何故こんなことになっているのだろうか、とパルスィは自問する。

先程までは真面目に勇儀の日頃の行いを咎めていた筈だ。動物には餌を上げてはいけないとか何とか。懐かれたらうんぬんかんぬん。結局最後に世話をするのは何とかかんとか。

それが今ではこれだ。どこに罠が仕掛けられていたというのだ。どこで道を選択し間違えたというのだ。何をどうすればこんな、猫で迫られるような状況に陥るというのだろうか。全く不可解でならない。

けれども本能や欲望というものはどうにも抗い難い。はっとパルスィが我を取り戻した時には時既に遅く、黒猫の小さな額へと手が伸びている最中であった。

ぐぐぐ、と自分の意思に反して動いている手。必死に止めようとするも、その猫の円らな瞳、柔らかそうな肉球、しなやかな体の曲線、だらんと遊ばせている二本の尻尾、それらを見ていて感情が揺り動かされない筈がない。

自然と頬が緩み、顔が紅潮し、息は荒く、眉がはの字に曲がりつつあることに気付いた時、パルスィは抗うことを諦めた。

そろりそろりと曲げた指を伸ばし、そのあまりの可愛さに嫉妬した日もあった程に狂おしく愛した対象へと向かって行く。

ああ、いつからだろうか。素直に愛でることもできず、嫉妬のこもった視線をそれに投げ掛けるようになったのは。可愛さ余って憎さ百倍。自分の感情をストレートに表現することはできず、、代わりにただただ妬むばかりであった。

でも、今は大丈夫なんだ。私も素直になっていいんだ。心置きなく触れ合うことができるんだ。そんな喜びに満ちて行く。

息の詰まるその一瞬。あと少し、一歩よろめいただけでたどり着くことができる。

今にも触れようとした、その時だった。

「ふしゃあああぁぁぁぁあああ!!」

「ふにゃあああぁぁぁぁあああ!?」

猫は突然口角を上げ歯を剥き出しに、高い唸り声を上げて威嚇する。

当然完全に気が緩み切っていたパルスィには予想外なことこの上なく、奇声を上げながら尻餅をついてしまった。

勇儀もこれは流石に予測できていなかったようで、目を真ん丸く見開いてぽかんとその様を見つめている。

そんな勇儀の手から簡単にすり抜けた黒猫は、振り返ることなく既に散り散りとなった猫たち同様どこかへと去って行ってしまった。

暫く唖然としていたパルスィであったが、勇儀に自身の無様な姿が見られていると知ると、頬を赤く染めながら目を閉じぱんぱんと衣服に付いた埃を払って立ち上がった。

そしてこほんと一度咳払いをしてから口を開く。

「……見てたでしょ。私が近付くとみんなそういう反応をするのよ。動物にすら嫌われているんだわ。ま、賢明な判断でしょうね」

涙目になりながら言っても何も説得力はない。ただの強がりにしか聞こえない。

腕組みをしてはんと鼻で笑い飛ばしたがっていそうな彼女に向って、勇儀は申し訳なさそうに頭を下げた。

「いや、なんだその、悪い。まさかあんな態度を取るなんて思ってなかったものだから。……ごめん」

「良いのよ別に。いつものことだから」

そこで会話は途切れ、二人の間に沈黙が流れる。

時折にゃあと鳴く猫の声以外には、川のせせらぎくらいしか耳には届かなかった。

バツが悪そうに頭をぽりぽりと掻く勇儀。仏頂面で自身の来た道、地上と地下を結ぶ縦穴のある方をじっと見据えるパルスィ。二人の視線が交わることはない。

それに耐え切れなかったのか、勇儀は猫の首を掻いてやりながらぽつりと一つ呟いた。

「……動物の心が、分かれば良いのにな」

え?とパルスィが問い返す。

「だからさ、こいつらが何考えてるかなんて結局私らには分かんないわけだろ?だから私はパルスィに酷いことをしてしまったんだよ。不機嫌だったのを察してやれればなぁ」

悔しそうに、勇儀は言葉一つ一つを噛み締めるように呟く。

余程後悔したに違いない。何しろ自分から勧めたことが裏目に出たのだ。殊鬼は自身の言動に責任を持つ。だから余計に悔しい筈なのだ。

力が抜け、地べたに座り込んで地面に拳を叩き付けるその様は、いつもの余裕のある彼女の姿とどう重ねても一致しない。それはパルスィにとっても衝撃的な光景だった。

だがいちいちショックを受けてもいられない。相手は自分以上に感受性の強い、思いやりのある頼れる姐さんなのだ。ここで自分が励ましてやらないでどうする。

そんな風に考えたパルスィも、こくりと頷いて同意する。

「そうね。心が読めたりすれば……私も、少しは仲良くなれるかもしれないわね」

無論、そんな芸当が不可能なことは分かり切っている。だからこそそれは夢物語でしかなく、幾ら語っても仕方がないということは自明の理であった。

でも、……たまには、そんな夢を見ても、良いのではないだろうか。

パルスィはふとそんな思いに駆られた。

「ほら、シャキっとしなさい。心が読めようが読めまいが、貴女は元気じゃなきゃ貴女らしくないんだから。山の四天王の名が泣くわよ」

ぱんぱんと手を大きく打ち鳴らし、それまでの流れを断絶する。

勇儀ははっと目を見開いてパルスィの方を見た。

「貴女はいつも天真爛漫。私はそれに嫉妬する。それが私たちの役回り、そうでしょう?」

パルスィは首を傾げて、よく言い聞かせるような口振りで言った。

こくりと勇儀は頷く。

「そっか。そうだね。……悪いね、励まして貰っちゃって。お前さんの方がショックだったろうに」

「だから私は慣れてるから。それに貴女が萎れちゃったら私も困るもの。どんなことがあっても気丈に余裕綽綽としている貴女に、私は嫉妬できなくなってしまう」

嫉妬心こそが我が心の糧、とでも言わんばかりのパルスィの言い草。確かにそれは事実なのだろう。橋姫が橋姫足るには、嫉妬心は必要不可欠なものなのである。

しかしそれをこの場で言うものだろうか。そんなことがおかしくなってしまって、思わず勇儀は吹き出した。

「……なによ」

「おっと、すまんすまん。成程、確かに嫉妬できなければお前さんとしては死活問題か……成程成程、ははははは!」

「謝ってるの?それ」

呆れたような口振りでパルスィは言う。

しかしその顔には僅かに笑みが浮かび、安堵しているのが見て取れた。

何だかんだ言っていても、結局は勇儀のことが心配だったのだ。その表情が何よりの証拠だった。

勇儀はにかっと笑う。

パルスィは照れ臭そうに視線をどこかへとうっちゃりながら、しかし上がってしまう口角を隠せないでいる。

どこまでも素直な鬼と、どこまでも素直になれない鬼の、心が通い合った瞬間であった。

 

「なら、私はパルスィのために動物と心を通わせる努力をしよう」

突然勇儀の言ったその言葉に、パルスィは耳を疑った。

「……はぁ?」

「そう怪訝そうな顔をするない。お前さんは動物に近付けもしないんだろ?」

「えぇ、まぁ……そうだけど」

殆どの動物は、パルスィが近付いただけで逃げ出してしまう。一部は先程の黒猫のように果敢に立ち向かおうとする者もいたが、やはり最後には恐れをなしてどこかへと去って行く。

嫉妬の力とは恐ろしいものである。自身が妬み、また他者の嫉妬心を煽ることすらできる彼女の恐ろしさを本能で理解しているのだろう。だからただ寄ることすらパルスィにはできないのである。

どこぞのフラワーマスターと同じことだ。

「なら私が仲良くなればいいんだよ。仲が良い奴同士なら心が通じ合ってる筈だろ?パルスィにそれができないのなら私が通訳してやるさ。だからそのための第一段階をだな」

「……すっごい暴論ね、それ」

また呆れた表情に戻って勇儀の方を見やる。言いたいことは分かるがそれは理想論だ。決して現実的ではない。

だが当の勇儀本人は全く話を聞いていない様子で、一人ごちるかのようにまた口を開いた。

「だから、こうして遊んでいれば自然と仲良くなれると思ってさ……よーし、ほら来い」

ぱんぱんと手を叩いて両手を広げ、片膝を曲げて地面につき猫を受け入れる姿勢を取る。

その大らかで穏やかな心を敏感に察知した動物たちは、勇儀のその豊満な胸へと飛び込んで行くのだ。

しかし、それとこれとは話が別である。例え仲が良くなったからと言って本当に動物の心の内が知れるとは思えない。パルスィは肩を落として、勇儀とは少し離れた場所に腰を下ろした。

――見るだけなら、私も楽しくしていられるんだけどね。

近付くことができないのなら、遠く離れたところから見ていれば良い。無論自分が触れられるのならそれが一番良いのだが、如何せんそれは無理な話である。妥協は必要なものだ。

自分のために頑張ってくれているのは分かっているのだ。しかしそれも徒労に終わることは明白。それでも頑張ろうとする勇儀のその実直な姿勢に、パルスィは訳もなく少し嫉妬してしまう。

――いやいや、違う違う。これは流石に嫉妬するのはお門違いだわ。落ち着きましょう。落ち着いて、あの人が戯れる姿を見ていましょう。

一度深呼吸をする。

そして顔をぶるぶると震わせてから、じっと勇儀の姿を見つめてみた。

猫とじゃれ合う彼女の姿は、見ていてとても安らぐものだ。

そう、見ているだけで心が落ち着く。落ち着いてしまう。

――あぁ、そうだ。この心地良さ。

――そんな、決して釣り合う筈のない私とも対等に接してくれる彼女のことが羨ましくて、妬ましくて、嬉しくて、――毎日を共に過ごしたいと思わせるのだ。

そのパルスィの羨望なのか嫉妬なのか、はたまたその両方が入り混じったものか、そんな視線に気付いた勇儀はちらとパルスィの方を見やった。

「ん?どうした、私の顔にでも何か付いてるかい?」

「……いえ。何でもないわ」

パルスィは頭を振って答える。

割と天然なのが困りものだけれど、時にはそれも好都合よね。

馬鹿正直でありどこか抜けている鬼だからこそ、自分はこうして普通に付き合えているのかもしれない。嘗て嫉妬に狂う鬼として恐れられた橋姫は、そんなことをふと考えた。

そしてふうと一息吐いてから言う。

「じゃあ、そろそろお暇するわね」

「うん?もう行くのかい」

「見てるだけじゃやっぱりつまらないわ。それに貴女のその好かれっぷりを見ているとどうにも嫉妬してしまう。嫉妬っていうのはなかなか心に負担が掛かるものなのよ。お分かり?」

それをお前さんが言うか、と勇儀は豪快に笑う。つられてパルスィも少しくすりと笑ってしまった。

笑いは場の空気を綺麗に洗い流してくれる。何となく清々しい空気が辺りに流れた。

「それと。もう動物に囲まれないように気をつけなさい。私だって毎日ここに来るわけじゃないんだからね」

「あぁ、悪いね心配掛けて。これからはしっかり気をつけるよ。ありがとう」

「そりゃどうも」

もう何度同じやり取りを繰り返しただろう。結局彼女は変わりはしない。学習能力がないわけではなく、ついつい他者に甘くなってしまうがための結果なのだ。

まぁ、それが悪いってわけでもないから良いか、とパルスィは結論付ける。

この適度な距離感。

それが私の心に束の間の安寧を齎す原因なのかもしれない。

そんなことを考えながら、パルスィはその場を後にした。

 

 

――そして、翌日パルスィがまた勇儀の元を訪れると。

「うわぁ!?」

「おーいパルスィ、助けておくれ」

今度は無数の地獄鴉に包まれ真っ黒の大きな蠢く何かと化した、鳥おばさんこと星熊勇儀がそこにいるのであった。

あとがき

短編を書いてみようシリーズ第一弾。

映画ホームアローンシリーズの鳥おばさんを想像していただければ私の描いたイメージとぴたりと当てはまるかと。

地底での日常って、こんな風に穏やかに流れていそうです。怖い怖いと恐れられてはいますが、本編での本人たちの陽気な受け答えがそれを物語っています。

もしかしたら、地上の奴らよりもずーっと良い奴らなのかもしれません。