約束をめて

子離れ出来ない親の心境を、今現在、俺は実感させられている。全く、どうしてこんなことになったのか。もうちょっと先だったはずなのに。そう、俺の予想では後五年は軽く先の事だったはずだ。
 目の前に頭悪そうなバカップルとなった妹分と同級生が、これまた頭悪そうな会話で盛り上がってるのを端で見ながら溜め息が零れた。
「もういい加減に慣れたら?」
 江坂が苦笑しつつも、俺と同じぐらい困惑した顔をしている。今までの美恵の彼氏は、どれもこれも長い付き合いには向かないタイプばかりだった。ようは『本格的な』恋人というのはこれが初めてなんだ。
「けどな、よりによってアイツだってのが・・・」
「それじゃあ小姑だよ、壱」
 江坂に呆れられようと、目の前にいる男は妹を明け渡すにはいささか不本意な相手だ。
「いい奴だろ?」
 確認済みだろうと言外に江坂に問われて力なく笑った。いい奴なのは知ってる。見た目よりも浮ついていない、信頼に足る器量も持ってる男だから俺だって黙認している。
「一石二鳥だったじゃないか」
 江坂から香坂とあの女が付き合いだしたと聞いた時は清々した。しつこく俺の周りをウロチョロして変な噂まで飛び交っていたが、これで落ち着くだろう。大体、香坂と付き合うあたり、あの女が俺の好みのはずがない。が、それとこれとは別だ。
「美恵が」
 胡乱な目で江坂を見ると、視線を空へ飛ばして俺の威嚇がおかしいかのように続けた。
「和と行き違いになるのを壱が教えてくれたって喜んでた。その後に転ぶなってしつこく言われたのは嫌だったらしいけどね」
 何も無い所でこけるんだ、あいつは。小石があるとか、砂利道だとかじゃなく、普通の補正された道路のど真ん中で。通学路の時間帯で車の出入りが制限されていなければ、うっかり轢かれていてもおかしくない。いきなり転ぶからな。
「お父さんは何が気に入らないんだか」
「爺さんは何がそんなに嬉しいんだか」
「ひどくね? 壱と俺はタメだろうが!」
 老け顔なわけじゃないのに、江坂は年齢以上に年上に見られる事が多い。本人はこれぽっちも気にしてないから、今だって笑いながらひどいひどいと言ってる。
「お前がそんなになるなんてな」
 ぼそっと明後日を向きながら掛けられた言葉は、ひどく苦い響きだった。ああ、そうだな。美恵が誰よりも傷つきやすいと知っていて、手放す日が来るなんて思ってもいなかった。誰かにその手を預ける日が来るとは。
 江坂は父親染みた気持ちを隠そうとしない俺に、何度となく溜め息と呆れ笑いを繰り返す。
「お前だって同じようなもんだろ」
 問いかけじゃなく断定してやったのは、意外とこいつも寂しかったりするのを分かってるからだ。伊達に十数年の付き合いはしていない。
「なあに、暫くしたら当たり前になるだろ」
 いつの間にか見えなくなったバカップルを追いかけて、構内に入って行く後ろ姿に笑いをかみ殺した。微かに照れが滲んだ台詞が『らしく』ないとでも思ってるんだろう。
 俺達は今でこそ仲良くしているが、小さい時は江坂が美恵を困らせてばかりいた。鈍いせいでなかなか泣かず、気がついてもとうに終わったとばかりに諦めてしまうせいで、江坂が何かとちょっかいを出したがったんだ。
 多感と言われる思春期を迎えるまで、江坂から美恵をそれとなく庇ってばかりいたから周りには美恵と俺がつきあってると思われていた頃もある。真実を知っている江坂だけが言い様のない顔をしていたけど。
 江坂が悪者のように言われていた時期もあったな。いい奴なのに。変なとこで感覚が人と違うから、損な役ばかりしている奴だ。美恵の事だって、別に意地悪だったんじゃない。単に江坂が良いと思うのがおかしかっただけで、あれは完全な厚意だった。
 と、言えるのは俺ぐらいだ。美恵には都度に言ってやりはしたが、理解できているか怪しい。江坂の立場と俺とが逆転したのは、思春期を迎えた辺りからで。
『なんでこんなに男運悪いかなー』
 三人目の彼氏と別れた直後、俺のとこに駆け込んできた美恵を見て、その鈍感力に舌を巻いた。選ぼうとしている時点で分かっていた欠点に、付き合ってから気付いたらしい。切々と説教してやったのに、翌日には江坂に愚痴っていたバカだ。
『壱ってサイクルが早いよね』
 五人目の彼女は俺なりに大切にしていた奴だ。彼女の夢が俺には支えきれない程に大きすぎるから、二人で話し合って別れたと話しした。本当に俺の話をしっかり聞いていたのかと懇々と問い詰めたら、数時間後には暇していた江坂に電話で怒っていたらしい。美恵なりの慰めだと言われた時は、額に手をやった。
「もしもし?」
 流れ出した着信音を止めると、向こうから女にしては低めの声が耳に響く。美恵が壱と付き合う少し前に七人目の恋人が出来た。江坂は知っているが、他には誰にも言っていない。今度ばかりは、そう簡単に手放せないと分かっているから。
『晃佑から電話があって・・・』
 男女分け隔てなくを素で実行されている。彼女の落ち着いた声を聞くたびに、安定剤を手に入れたかのような安心感がある。彼女の口から他の男の名前が出ても嫉妬とは無縁だ。彼女を愛しいなんて感情が湧き出るのに、気持ちは反して凪いだように穏やかなままでいられる。
「そう。そしたら、講義が終わってからそっちに行くよ」
 有志で集まった連中のサッカーで怪我をしたらしい。見舞いがてらマネージャーに借り出されていた彼女を迎えに行くと告げて電話を切った。
 ふと美恵に彼女を紹介しようかと思い立つ。和も一緒なら好都合だろう。俺がどれだけ本気なのか、あいつは馬鹿で鈍いが理解したら早い。きっと和との付き合いも変わるかもしれない。
 美恵の恋愛が続かないのは依存しないからだ。徹底的に一人で考え、行動し、帰結する。男からしてみたら『俺がいなくても』、『一人で生きていける』と充分に思わせるから、美恵の遠慮が分からない。
 俺や江坂は長い付き合いで、それこそ隠すのが馬鹿らしいほど無残な姿を見ているからこそ、遠慮なく言うんだろう。少しは隠せ、恥じらいを見せろと怒鳴った事もあったが、あれは分かっていなかった。
「あいつもな・・・」
 零れた声に嘆息する。新しい恋人は全く男心が分かっていない。頼られて悪い気がする男なんているわけがない。なのに、全然これぽっちも無自覚だ。心配して『頼れ』と言った時は奇異な目で見られて、膝が落ちそうになった。
 ようはああいうタイプが放っておけないだけで、美恵だから可愛がっていたわけじゃない。そう。美恵に惚れていたわけじゃないんだ。
 すとんと何かが落ちて融けた。喉から零れるものが、既に笑いではなくなっていても俺はひどく満足だった。守っていたものが壊されたのではないのを今になって理解する。気分が高揚するなんて珍しい。大学受験の時だって、これほど満足のいった出来にはならなかった。
「ああ、悪い。今向かってるとこだ」
 電話に出ると相手は江坂だった。美恵達と行動を別にした所で、晃佑の怪我を聞きあいつも向かってる最中らしい。義理堅い爺さんは見舞いの品に悩んでる。何を持っていった所で、晃佑が素直に受け取るとは思えないが。
「由隆も一緒か?」
『いや、あいつなんでか来てないんだよ』
 見た目と違って真面目な奴で必須講義にノートの当てもなく休む奴じゃないのに、と全く分かってない江坂が言う。そんなんだから陰でボケ老人と言われるんだ。あの性悪そうな女に惹かれていたのは香坂だけじゃない。但し、香坂と違って俺の妹(もちろん美恵のことだが)にも同時に気があったのが由隆らしい。
「しばらくは出てこねえよ」
『えっ? なんかやばいのか?』
 どうしてこいつは俺と美恵以外のことになると無関心でいられるんだ。俺に散々と協調性を説く癖にマイウェイ過ぎだろ。
「失恋真ッ最中だ」
『ああ。こればっかりはなあ』
「分かってんのか?」
『美恵だろ? 由隆とは気が合うと思ってたんだけどな。気が合いすぎて、そんな気にならなかったんだからしょうがない。けど、大丈夫だろ。立ち直りだけは早いから。それに今回のであいつの好みが広がったのは喜ばしい限りだと思うぞ』
 さすがだ。分かっていないどころか、すっかり江坂の中では終わった事になっている。しかも先の話まで出始めてる。ボケたかと思ったら仙人にでもなったのか江坂。つきあいは長いが、むやみに切るつもりもないが、桃源郷までは一緒にいけそうにない。
「とりあえず由隆は平気だろ。それより晃佑だ。怪我すんのは良いけど、もうすぐ試験も近いしな。さっさと復帰させねえとノート代がかかるだろ」
『ノート代? それぐらいの金なら・・・ああ、そういうことか。あいつ前期でだいぶ落としてるからなあ』
「・・・・・・見せてやらないのか? 俺はほとんど被ってないから仕方ないとしても、お前は学科まで一緒だろ?」
『苦労するから勉学は尊い』
 何が勉学だ。受験の時に散々な目にあった奴の台詞じゃないな。他の連中は江坂が常に中位の成績を維持し続けたから知らないが、こいつは文系科目が痛かった。今年はどうしても避けられなかった共通で死にそうな顔をするに違いない。
「とにかく、晃佑んとこだ。そういや美恵達はどうするんだ?」
 和にも連絡は行ってるだろうが、美恵が義理に行くとは思えない。生死を分かつわけでもないからな。あいつが切符代を出すとは思えない。美恵がせこいとは言わないが、数度会っただけの奴にはな。そこらへんの計算は微妙にするんだ。
『和が行かねえって言ってるから、行かないだろ』
「仕方ないな。連れていくか」
『張り合ってどうすんだよ』
「義理人情は大事だろ」
 しれっと言った俺に、電話の向こうで盛大な溜息を聞かせてくれる。お前、本当に俺の友達か?
「勘違いするなよ。紹介してやろうと思ってるんだ」
『マジで? お前、いったい・・・』
「あいつの兄貴も和って言うらしいからな」
 ややこしいことこの上ない。美恵と和との交際に渋い原因の一つだ。何が悲しくて、彼女との電話で美恵の彼氏を名前変換しながら話さないといけない。さっさと会わせてしまえば回転の速い彼女だ、俺の気苦労込みで話を聞いてくれるだろう。
『つまりはあれか。嫁さんを大事にする気になったか』
「何言ってるんだよ。前から彼女には優しくしてるだろ」
『いや。いやいやいやいや。お前、自分を分かってないだろ。前の前カノなんて美恵との仲を誤解されっぱなし、前カノは俺らですらおざなりな顔合わせだった。思いっきり義理って顔で紹介されてみろ、大事にしてるなんて思わねえよ』
「・・・っんだ、それ」
 なら、俺が今までつきあってきた女達は何だったって言うんだ。俺なりに大切にしてきたつもりで・・・あ、いや江坂や美恵とのつきあいを優先させてきた事もあるにはある、が。
『壱・・・ほんっとうに気付いてなかったんだなー。お前、今までの彼女達には甘かったけど、優しくは無かったと思うぞ? 冷たくしてたとは思わねえけど、淡白な感じ? 良かったじゃないか、あの子とつきあうようになって。人らしくなった。頑張れ、息子よ』
「誰が息子だ!」
 常にない声で怒鳴って、人通りの多い道だったことを思い出す。雑踏と呼ぶには足りない人々がチラチラと煩わしい視線を送ってきた。腹立たしいが顔にしわを寄せるだけに留める。
『やー、美恵が孫娘で壱がお父さんなら、俺にとってはむす・・・』
 電話のこっちから殺気立ってるのが分かったようだ。最後まで言わずに噤んだから許してやる。
『あっ、俺が美恵達を連れてくから、お前は先に行ってろ。晃佑も待ちくたびれてるだろうし、続きは病院でな』
 俺ら待つほど病院にいられるわけがないだろう。そう返してやろうとしたのに、慌てふためいた江坂はさっさと電話を切った。普段は槍が降ったところで暢気に茶でもしてる奴なのに。よっぽど俺が怖かったのか。
 そんなわけがないな。俺の気が変わらない内にとでも思ったんだろう。道すがら、江坂が言ったことを反芻して、正に江坂の言うとおりだと過去の自分に笑いたくなった。
 恋だ愛だと叫ぶほど、俺は熱くはない。今までの彼女達がそれを不満に思いつつやり過ごしたり、ぶつけてきたりしても、あっさりと返していたのを覚えている。実に淡白だ。それが彼女には全く、全然、これっぽっちも面倒などと思わずにやっている事ばかりが頭に巡る。
 そういえば和と最初に会った時に俺と同類だと思ったはずだ。なら、あいつも美恵には、俺と彼女とのようになってるんだろうか。頭の隅をよぎった考えが俺の足を止めた。
 これじゃあ、まるで。まるで・・・
「弟じゃないか」
 口にしてから、さも恐ろしい。誰のなどと考えたくも無い。そんなものより親離れだと思った方が何百倍もマシだ。否定してやってるのに、俺の頭を無視して胸は勝手に納得しはじめる。まさか認められなかったのは、それが原因とかじゃないよな?
 たらりと額から落ちる汗にどぎまぎしながら、彼女の顔を見たくて止めていた足を速める。彼女なら学食で交わした約束を律儀に守るだろうな。不公平だと口を尖らせてくるだろうが、その時は。
 衆人環視の前で誓う気恥ずかしさに耐えるのも悪くない。


BACKINDEXTOP