癒し −傷ついた羽 前


 幾度も旅をしてきた彼だったが、この森を通るのは初めてだった。彼、アーク・ロレンスの優しげで鼻筋の通った美麗な顔立ちのせいか、こういった森を通るのには必ず付きまとう冷酷で緊迫した雰囲気を感じさせなかった。
 瞳は濃い海の色を湛え鮮やかに煌めいて、夜の闇へと一緒にとけ込んでしまいそうなほど澄んで人を魅了する。その目の色と同じ色をした髪は肩まで長く伸び、後ろに一つで結ばれている。彼の外見は中身を裏切らず、人当たりの良い温厚な青年というのが人々の評だ。物腰の柔らかな、洗練された仕草と公平な態度がその評判を勝ち得ていた。
 そんな彼がおよそこんな所に、他人からして見たら不似合いな場所に、身を投じることになったのは、3ヶ月前の話だ。


「アーク!!」
 駆け寄ってきた一番上の姉は、息を切らしながら、アークの目を見ていった。
「行くのね?」
 ありきたりのセリフが、これからの幕開けになるものだと思うと滑稽だと言ったら彼女は傷つくだろうなと苦笑する。家族と暫く会えなくなると言うのに、アークは一言も残さずに出てきてしまっていたのだ。こんな時何を言えばいいのかアーク自身でさえも分からず、一向に慣れない自分に自嘲する。
 出かけに気づいた年幼い弟は、どこに行くのか知れない兄を笑顔で見送ってくれたけれど、きっと彼の記憶に自分は早い段階でいなくなるだろう事も容易に想像がついた。彼はまだ小さすぎるから。アークにとって数少ない理解者である姉は、今日だけではなくいつもアークを気遣い、優しさを与えてくれる。幼い頃から同じ家で暮らし、例え血の繋がりが無いと分かっても家族だと言ってくれた優しい姉だ。そんな姉に心配をかけるようなことはしたくなかったが、それでも家を出ることを止めようとは思わなかった。
「気をつけて・・・」
 涙を浮かべている姉に苦笑しつつも軽く頷いて、いつものように「行ってまいります」と背を向けた。



 足早に離れてしまった故郷を今更思い出すのは感傷的な風景のせいだろうか。森の奥を突き進みながらも、未だに迷いがあるせいかもしれない。自分にまだ幼さが残っていた頃、両親が夜盗に殺害されたのは、数年の年月が過ぎていても彼から彼自身を奪ったままだ。
 今回の旅は両親に縁ある人に招かれてのもので、夜盗に両親を奪われてからアークを何かと助けてくれた人でもある。旅に出てはほんのつかの間しか家に戻らないアークを心配して、かなり頻繁に文を寄越してくれている事を養父から聞かされていた。久方ぶりに家へ戻り、その人が新しい家へ引っ越しをしたらしく、その招待状を(それも随分前のものだったが)受け取って今回の旅を決めるまで数日もかからなかった。家族と共にいる事が楽しくはあっても安らぎを見出せなくなってから、こうして旅を繰り返している。
 それでも、書簡を見るまで暫くは旅に出る予定ではなかった為、十分な準備が出来ず資金繰りが厳しい。いつもの旅ならそれほど村から離れる事が無かった事もあり、久しぶりの長旅のためにギルドによって幾ばくかの資金を調達しようと思っていた。
 ふと木々の間から木漏れ日が彼に降り注がれる。ほの暗い気持ちが一瞬取り払われるような気がした。長いこと森の中を歩いていたせいで、気持ちの全てまで引きずられたようだった。闇から指してきた光が彼には愛しく歩くことを忘れて、暫し立ち尽くす。そうして、また歩き出そうとした先に、長いローブの布きれのようなものがあることに気がついた。 しかし、ここは深い森の中だ。前にここを通った者が落としていったのだろう。
 「いや・・・」と首を降ってアークは近づいた。もう何年も人が通る場所ではないことを、ここに来るまでに立ち寄った村の人々から何度も聞かされている。よく見ると布きれだと思っていたものは女性の服で、異様に長い髪の女の子がそこに倒れていた。
 少女の顔は青白かった。アークは驚き、それから口に手をあてがって息があるのを確認する。どうせ駄目だろうと思っていた少女は、どうやらまだ生きているようだ。足先に傷があったが血は止まっており、他に目立った外傷はない。傷口を綺麗な布で拭うと薬草を配合したものをぬり手当をする。そのまま放っておくことも出来ず、少しずつ日が西に傾いていくのを見て今夜はここで野宿をすることに決めた。元よりそれほど急ぐ旅でもない。
 近くに泊まれそうな洞窟がいくつかあった。テントの準備もあるにはあるが、一人旅のため二人を休ませるだけのものではない。おんぼろなテントよりは洞窟の方が冷たい夜風を凌げて良いだろう。これなら薄い毛布でも体調を壊す事もないはずだ。
 運の良い・・・・
 誰かがこの道を通らなければ、少女の命は危うかっただろう。今は潜んでいる森の獣たちが弱った彼女を獲物にすることは分かりきった事だ。それに、なぜ彼女がこんな森の中にいたのか(それも滅多に人が通らない場所だ)、どこに向かおうとしていたのか、少女がこんな所で倒れているのは何故か。不可解な事をそのままにしておくのは気持ちが悪い。中に毛布を敷いて彼女を寝かせるとアークは洞窟の前で火の番を始めた。
 辺りを暗闇が覆い尽し、オオカミの遠吠えがときおり聞こえるだけの静寂さに包まれている。少女が起きてくるまでの間、アークは服のポケットの中から天然石とは別物の、人工的な鈍い色をした石を取り出すとなんとはなしに眺めていた。父親の形見となってしまったその石は、長い年月をかけてロレンス家に伝わっていたものだ。
 父を想い、ここに来る少し前に滞在していた町を出るときに久しぶりにあった友人の顔を思い出した。その町は村から離れた場所にあったため、知人に会うことはそうそうないはずだったのだが、父の親友だった男の甥は自分とかけ離れた生活をしているようだった。



「おい!アークじゃねえか!」
 アークが振り返ると、中年には遠いが確実に自分よりも年上の男が笑いながらこっちに向かってくる。身なりからして堅気ではないと分かる風貌に、がっちりとした体躯、日焼けした顔を懐かしく思いながらアークは男に声をかけた。
「ロード・・・お久しぶりです。どうして、こちらに?」
「仕事でこっちに来たんだ。お前さんがここらをフラフラしてるって聞いてな。まさかと思ってたんだが・・・案外、元気そうだな」
 金貸しをしている彼に会うのは、3年ぶりだろうか。元は同郷の出自なせいか、いつまでも渡り鳥のような生活をしているアークを弟のように気にかけてくれている。金貸しとはいえ、定職に就いている分アークよりは地に足の着いた生活なのだ。自分よりも年上の彼を兄と慕っていたアークにとってもまた嬉しい再会だった。
「ええ、ロードも元気そうで。それにしても、よく私だと気がつきましたね?」
「お前は目立つんだよ。その目に髪の色、顔立ちだって悪かないからな。昨日、声をかけてきた女がいただろ?そいつがたまたま同業と連れててな。綺麗な男がいるってんで聞いてみたら、一発でお前だって分かったよ」
 確かに滅多に見かけない色を持ったアークだったが、それでもアーク以外にいないというわけではない。
「綺麗なだけなら私とは限らないでしょう?」
「そこで否定しねえのがお前だよな。同郷のやつだとも言われたんだよ。あの狭い村にいてお綺麗な面って言ったら数えるほどしかいねえし、お前の特徴と同じのを持った奴が他にいるか」
 ロードがなんてことはないと豪快に笑う。前からそうだったが、この男の耳聡さは人よりも抜き出ているのだ。
「で、なんでこんなとこにいるんだ?」
「元より寄る予定ではなかったのですが。急な旅でしたので資金が厳しいんですよ」
「あ?資金?急な旅って、いつもお前は急じゃねえか」
 いぶかしむ彼にアークはこの旅の成り行きを説明すると、旅の目的地にいるその人の名前をロードは懐かしそうに口にする。彼もその人とは旧知の仲なのだ。彼の伯父がロードを連れてその人の下を頻繁に訪れていたのは知っていたし、ロードと出会ったのも生前に父がその人の所へ連れて行ってくれた時だった。そういえば、ロードの伯父とももう何年も顔を合わせていない。
「そういう事でこの町に寄ってみたんです。もっとも賞金稼ぎはあまり得意ではないのですが・・・・」
 旅から帰ったばかりですぐに出て来たのだ。前の時に資金をほとんど使い果たしていた為、どうしても実入りが良い仕事を選ばざるを得なかった。どこの国でも通貨は金と銀、銅で作られた硬貨が主だが国によって純度が違い、この国は周辺国に比べて良質な鉱山があるため流通しているものも質の良い鉱物が使われている。
 一般的に金を使う機会は高額な取引をしない限りはそうそうないため、銀や銅があれば十分だったが楽をするため、あるいは目的地に着いてから必要な物を揃える事を考えると金を多少なりとも持っていた方が良いと考えたのだ。賞金稼ぎはその点、多少の危険を伴っても手っ取り早く金を入手するのに最適な方法で、この町でそこそこの賞金首がいるというのを聞きつけて寄ったのだ。
「そうか。それで、報酬はもう受け取ったのか?」
 にやりと笑うロードにため息をつきそうになり喉の奥で押し留めると、昨日の女の顔を思い出す。
「あと一歩という所で邪魔が入りまして」
「ああ、だろうな。あいつはいつも女を連れてるが、やばそうになったら女に全部押し付けていくのさ」
 やはりロードの同業者がアークの金だったらしい。偶然、ロードとアークが同じ町にいて、偶然にアークに声をかけてきた女と知り合いが繋がっているなんていう偶然の重なりなどそうそうないものだ。きっとその同業とやらを追って来たロードが、たまたまいつも連れている女にアークが絡まれている所を見られでもしたのだろう。そして、そのまま女を追い、同業者、いや賞金首を持っていったに違いなかった。
「何故彼を?」
 賞金が必要な金貸しなど聞いた事がない。それに、同業とはいえ賞金首になるようなあの男がロードと同じ釜の飯を食べているはずがなかった。
「前からあいつの取引の仕方はバカ丸出しでな。法に触れる仕事の仕方や取り立てだってのに丸っきり緊張感の欠片もないもんだから、前から当局に目を付けられてたんだ。それでも、俺らにとっては小者だからとりたててこちらに害が無い以上はと放っておいたし、当局も賞金を付けるほどじゃないと判断してたらしいんだがな。
 ・・・最近になって、どうにも奴の周りにキナ臭い話が出てきて当局も重い腰をあげて取り締まろうとした矢先に、どっかから入れ知恵があったようで手口がいきなり巧妙になりやがるし、足取りが掴みづらくなってな。当局からうちの頭領に内密に要請があったんだよ。賞金をかけたは良いが一向に捕まえられないから何とかならないかって」
「なんとも情け無い話ですね」
「ああ、普段は威張りくさってるってのに役に立たねえ連中だ」
「いえ、あなた方が情け無いんですよ。当局なんかの言いなりなんて、らしくないじゃないですか」
まるで天気の話でもするかのようにさり気なくも辛らつなアークに、ロードは苦笑するしかなかった。この弟分は見かけの柔さと違って中身は芯があるのだ。ただ中身が反映されているのは、その濃い瞳の奥に一瞬見えるだけなので、物腰の柔らかさと優しげな口調とが相まって気づかれないだけだった。
「言いなりってわけでもねえが、頭領にとって恩ある人が当局の幹事長を勤めてるんだ。今回は直々の頼みだったってのと、俺らにとっても捨て置けねえ話だったから頭領が俺らに話を振って立候補したのが俺。まあ、わりかし良い条件での仕事だったしよ」
「話というのは?」
「あいつから金を借りた数人がしばらく姿をくらまして、戻ってきた時には廃人に変わり果ててる奴や訳の分からないうわ言を言ってたらしい。当局はエピカの実験に使われた線で」
「待って下さい。エピカは人を廃人にするほどの効力はないはずですが・・・」
 エピカは一般的に麻酔に使われる薬草で乾燥させて用いられる事が多いものだ。葉を煎じて飲んだり、乾燥させたものを他の薬草と調合して患部に塗布する事で一時的に痛覚を鈍らせる事が出来るのだが、副作用として幻覚や向精神状態へと導く効能がある。それでも、人格を破壊するほどの威力はない。大量摂取しようにも、飲む場合には体が拒否反応を起こして吐いてしまうため、薬草の中でも比較的安全だと言われているものだ。
 ロードの顔が一瞬ゆがみ、それから深く息を吐き出した。彼がこんな顔をするのは珍しい。
「亜種・・・だったのですね」
 何ともいえない表情のロードを前に、彼が危なっかしい商売に入るきっかけになった時の事を思い出す。
 一般的な水準の彼の家で、その年の流行り病を抱えていた彼の妹はエピカの亜種によって命を落としかけたのだ。質の良い純種のエピカは一般家庭の人間にとっては手が届かないほどでもないが、それでも高価な事にかわりない。農業を営んでいた彼の家は、その年の天候により不作だったため、医療費を安くしようとエピカよりは安価な亜種に手を出したのだ。結果、彼の妹は下半身に後遺症が残ってしまった。
 『腐るほどの金を』というのは彼の口癖だが、人の悪い笑みを浮かべながらもそこに悔恨の念が混じっているのをアークは知っている。
「今までのものと組成が違うらしくてな。昨日、奴を当局に突き出したときに聞いたんだが、幻覚作用のある成分が強いらしい。純種のエピカよりも効果の出が早いから、続けて使われればすぐにぶっ飛ぶって話だ。奴がそんなものをどこで手に入れてきてるのかは分からないがな」
 苦々しい顔をしたロードに、じわりとした何かを感じてアークは柳眉を潜めた。
「これ以上の情報は聞き出せなかったが、なに、時期にうちの頭領がなんか掴むだろう。俺も奴を突き出して一仕事終わったからな。これでようやっと我が家に帰れるってもんだ」
にっと笑って言うわりには顔色が冴えないのは仕方ない事なのだろう。
「条件付きというのは?」
「そりゃもちろん、賞金稼ぎ以上の報酬と色を付けてもらった」
 にやけた笑みにアークは今度こそ肩から力の抜けた息をついた。この年上の親友は金貸しなんて商売をやっている割に金よりも女の方が好きなのだ。定職に就いてはいるが、この調子ならアーク以上にロードが一人の女に身を落ち着かせるのは当分無理だろう。
「それで、アークはどうするんだ?資金が必要なんだろ?」
「そうですね・・・ですが、この町にはもう賞金首もいませんし、仕方ないですがここから少し離れた所にあるギルドに寄って仕事でも紹介してもらいうしかないでしょうね」
 さも諦めるしかないといった風に肩を落としたアークに、ロードが苦笑する。アークの資金源を仕事とはいえ勝手に奪ってしまったのは事実だ。
「そんなとこだろうと思ってよ。ま、ちょっと待ってろ」
 暫くしてロードが戻ってくると、アークの手にずっしりと金が入った袋が渡された。横から獲物を奪われたとはいえ、女を上手くあしらえなかったのはアークだ。親友が正等に働いて稼いだ報酬を取るようなまねをしたつもりはなく、こうして金を差し出されるのは良い気がしない。アークがよっぽど険しい顔をしていたのだろう、ロードは頭をかいて困ったように言う。
「まあ、前んときに世話になったからな。礼だ。気にするな」
 前というのは厄介な酔っ払いに絡まれているのを助けたときの話だろうか。それにしては金の量が多いような気がする。何と言っても3年も前のことに礼を言われるのは他人行儀すぎるというものだろう。納得がいかないアークにロードが畳み掛けるように言った。
「貰った報酬がかなり良かったからな。全部くれてやれないがそれくらいありゃ、あの森を越すぐらいの金にはなるだろ?」
 ここから二つの町を越して、更に南東に向かった先にある森は滅多に人が通らない分、その次の町へ行く近道だ。近道というのは大抵危ない。だが、それでも銀5シケルあれば十分だ。下賤ではないのでロードの前で金子を数える事はしないが、重さからいっても金25スタテル以上はあるはずだ。幾ら報酬が出たばかりだからといって、前の事を差し引いてもあまりに破格すぎる金額に怪訝そうにしていると、
「遠慮することはねえぞ。何たって賞金と頭領からの報酬を合わせて金93スタテルが出てるからなっ!!」
 がははと笑うロードにそういう事かと納得が言った。懸けられていた賞金は61スタテルだったはずだ。残り32スタテルは頭領からの慰労金ということだろう。特別贅沢な暮らしに興味が無い上、宵越しの金にすら頓着しないロードの事だ、袋の中にどれだけの金貨が入っているかは分からないが賞金だけで十分な額だから付け足された慰労金の額に近い金貨が入っているに違いなかった。ロードにした所で、横から掻っ攫ったという事実に全額を受け取る気になれなくてアークに声をかけたのだろう。
「そういう事なら・・・有難く受け取っておきます」
「ああ。あの人に会ったら宜しく伝えてくれや」
「ええ、もちろんです。ですが、仕事が一つ片付いたなら休暇でも取られてはいかがですか?」
 久しぶりに彼の伯父の所にも顔を出そうと思っていたし、伝言役を回避しようと仕事が無いのならと暗に誘ってみるが首を左右に振られる。
「いや、頭領に戻ってくるように言われてるし、今は傍にいないが連れもいるんだ。悪いがこれで」
 「悪いな」と全然すまなそうな顔もせずに言うロードに、まるで金貨で伝書鳩の仕事をするはめになったとは思っても言わないアークだった。
2008/09/25